第三章 異変

 参謀本部内にある医務室。その待合室にクラウスはいた。椅子に座る彼は、不安と恐怖に押しつぶれそうになっていた。


 ユリカが倒れ、それを抱き起こそうとするクラウス。騒ぎに気付いた周囲の兵士たちが駆けつけ、ユリカを医務室まで運んでくれたのだ。


 その間、彼女の異変にクラウスは半狂乱気味になってしまい、それをルシアナや兵士たちが宥めたりしていたという。クラウスにはその時の記憶が曖昧だったが、少なくとも正常ではなかったことくらいは想像できた。


 医務室に運ばれたユリカは、そのまま病室で治療を受けていた。その間、クラウスは彼女が起きるのを待ち続けていた。


 彼は不安だった。このまま彼女が起きないのではないかと、最悪の想像が彼の中に駆け巡っていた。


 今まで彼女が病気をしたり倒れたりするのを見たことがない。そんな彼女が、まるで魂が抜けたみたいにゆっくりと倒れたのだ。その光景が今も彼の中でフラッシュバックしている。


 こんなにも不安になるのは初めてだった。彼女がこのまま目を覚まさないと思うと、ひたすら怖くなった。


 そんな時、病室から軍医が姿を現した。クラウスは立ち上がり、軍医に詰め寄った。


「先生! ユリカは大丈夫なんですか!」


「落ち着いてください。大丈夫ですよ。今目を覚ましたので、もう心配はいりませんよ」


 落ち着かせるように語り掛ける軍医。不安を取り除くような彼の言葉に、クラウスは安堵の溜息を吐いた。


「そうですか……よかった」


 今までの不安が消えていくのを感じるクラウス。それから彼は軍医に質問した。


「それで、ユリカはどうして倒れたんです? 何か病気にかかったのでしょうか?」


「そうですね。その説明もありますので、ユリカさんと一緒にお話ししましょう。こちらへどうぞ」


 そう言って軍医は病室へとクラウスを誘う。その招きに応じるまま、彼は病室へと入っていった。


 病室に入ると、ベッドの上で体を起こすユリカの姿があった。彼女はクラウスを見ると、困ったように笑いかけてきた。


「ユリカ、大丈夫か?」


「……うん、大丈夫。ごめんなさい、心配かけて」


 微笑みかけてくれるユリカだが、その笑みにはいつもの力はなかった。儚いというのか、今にも消えてしまいそうな、そんな不安定さがあった。そのことにクラウスは余計に不安に思った。


「それで、何があったんだ。先生は病気じゃないと言っていたが、どこか具合が悪いのか?」


「いえ、そういうわけじゃないんだけど……」


 クラウスが問いかけるが、ユリカはどこか答えにくそうにしていた。何か困るようなことでもあるのか、クラウスは怪訝に思った。そんな二人に軍医が口を開いた。


「それについては私からお話しましょう」


 二人の視線が軍医に向けられる。二人が注目するのを見てから、軍医は診察結果を語り出した。


「倒れた理由ですが、どうやら血が足りていないようです」


「……血が足りていない?」


「もっと単純に言って、食事が足りていないみたいです。診察したところ、ほとんど食べていないように見えます。そのせいで血が足りておらず、活動するための力がなくなっていたみたいです。何か心当たりはありませんか?」


 心当たりなんて、ありすぎるくらいだ。ここ最近、ユリカはあまり食事をしていないのをクラウスは知っていた。いつもは全部食べるはずの朝食も残していたし、最近はほとんど食べていないほどだったと思う。


 それも仕事の疲れから来るものだと思っていた。ただ、倒れるくらい何も食べていないとは思っていなかった。


「そうなのかユリカ? そんなに食べていないのか?」


 クラウスが問いかける。その問いに困りつつもユリカは答えた。


「ええ、先生の言う通りよ。最近、ほとんど物を食べていないわ。いえ、ちょっと違うわね。食べていないのではなくて、食べることができなかったのよ」


「・・・・・・? どういうことだ?」


 首を傾げるクラウス。すると彼女は舌をべっと出して、その舌を指差した。


「私ね、何を食べても味がわからなくなったの」


「味が・・・・・わからない?」


 ユリカの答えにクラウスも、横にいた軍医も驚いた。そんな二人にユリカはさらに続けた。


「何を食べても甘いとか酸っぱいとか、味が感じなくなっているの。そしたらどんどん身体が食べ物を受け付けなくなっていって、今は食べ物を拒否するようになっているの」


 その話をクラウスは信じられない気持ちで聞いていた。人一倍食べることが好きな彼女が、食べることを拒んでいる。しかも味が感じられなくなっている。そんなことがあり得るのだろうか?


 そんなクラウスの横で、軍医はどこか納得した様子で頷いていた。


「なるほど。味覚障害から来る拒食状態ですか。しかし、味覚障害が起きるにはそれなりに原因があるはずです。ユリカさん、何か心当たりはありませんか?」


 軍医の問いかけに目を閉じるユリカ。少しの間そうしてから、彼女は静かに語り出した。


「私、初めて知ったの。人が死ぬのがどういうことなのか」


「……どういうことだ?」


 死ぬという言葉に面食らいつつも、クラウスは先を促した。ユリカはさらに続けた。


「戦争が始まって、いくつか戦いが起きた。多くの人が戦死したって聞いたわ。それで理解したの。戦争は誰かが死ぬものだって」


 戦争が始まり、いくつか戦いが起きた。ピピータ港沖の海戦やサンブールの戦い。その後も小さな戦いがいくつか起きてきた。それらの戦いで共通するのは、必ず戦死者が出たということだ。


「私ね、自分が死ぬ覚悟はしてきたわ。統一のためなら命を懸けてもいいし、戦場に行くことだって覚悟していた。だけどね、私は私以外の人が死ぬっていうことを、覚悟ができていなかったの」


 彼女はこれまで、帝国統一のために走り続けてきた。命の危険があっても、死ぬような思いをすることがあっても、彼女は走るのをやめることはなかった。


 それは彼女の中にある願いのため。祖国への愛のため。おそらく彼女は、自分が死ぬことを厭わないだろう。


 そんな彼女が唯一覚悟していなかったこと。それは自分以外の誰かが死ぬということだった。


「最初に海軍が負けて戦死者が出たって聞いた時、初めて自分以外の人の死に触れたわ。その時、自分の中にある何かが壊れるような気がしたわ。大事な何かが」


 おそらくだが、クラウスにはそれが何なのかわかる気がした。


 彼女の中で壊れたもの。それはきっと、彼女がそれまで抱いていた信念のようなもの。絶対に譲れない願い。捨て去ることのできない意志。


 それは失うはずのない信念だった。だが、彼女は自分以外の人間が死ぬという現実を前にして、初めてその信念が壊れ、揺らぐのを感じたのだ。


「その頃からよ。段々味覚がおかしくなっていったのは。そうなると物を食べることもできなくなっていったわ。サンブールの戦いが終わる頃には、完全に味覚はなくなったし、何か食べようとしても食べられなくなったし、無理して食べても、時々吐き出すようになっていたわ」


「そんな……」


 唖然とするクラウス。最初は疲れによる食欲不振だと思っていた。だが、彼女から明かされた真実は、あまりにも衝撃的な告白だった。いつも隣にいたのに、そんな彼女の異変に気付けなかった。クラウスは自分の浅はかさを殺したいほど呪った。


「なるほど。おそらく戦死の報せに心が悲鳴を上げてしまい、それが味覚障害を引き起こしたのでしょう。無理もありません」


 軍医が辛そうに首を横に振る。心が悲鳴を上げると、その悲鳴に身体が反応し、異常をきたすことがある。恐らく軍医も、同じような人間を何度も見てきたのだろう。


「ご迷惑をおかけしましたわ。先生」


「いえ、気になさらないでください。それより今は身体を治すことに専念してください。まずは足りていない血を作ることが先決です。とりあえず食堂から何か食べ物を持ってくるようにさせます」


「でも先生。食べても吐き出すかもしれませんわ」


「それでも何か食べてもらわないと、治るものも治りません。身体に食べるということを思い出させるのも治療には必要なことです。さすがに無理に食べろとは言えませんが、辛いようでしたらスープと簡単な食事を用意させましょう。流し込むように飲み込めば大丈夫でしょう」


 こういう患者にも慣れているのか、てきぱきと指示を出す軍医。その姿にクラウスも安心して様子を見ていた。


「とりあえず食堂に用意するよう言ってきます。クラウスさん。その間ユリカさんと一緒にいてあげてください」


「よろしいのですか? 一人で安静にする必要があるのでは?」


「こういう時に一人になるのは心細くて逆に悪くなります。信頼できる相手が横にいれば、それだけで治りも早くなります。どうかここにいてあげてください」


 軍医はそう言うと、そのまま部屋から退室していった。後にはクラウスとユリカの二人だけとなった。


 沈黙が流れる。静かで、しかし穏やかでもなく。何を語ればいいのか、クラウスは戸惑っていた。


 こういう時、安心させるような言葉をかけてあげればいいのに、それができないでいた。そんな自分にクラウスは嫌な気分になった。


「情けないわね。私って」


 その時、ユリカが呟いた。いつものような軽口で、彼女は自分を嘲るように言葉を紡いだ。


「情けないって、倒れたことがか? 仕方ないだろう。何も食べられない状態だったんだから」


「ううん、違うの。そうじゃないわ」


 クラウスの言葉に首を振るユリカ。何のことかと考えるクラウスに、ユリカはさらに語り続ける。


「以前、あなたにも言ったことがあるわよね? 統一のためなら死んでもいい。神様だって倒してみせるって」


 確かに彼女は、そんなことを言ったことがある。アンネルで出会った時、統一のために何でもしてみせると。そのためなら自分の命だって使うだろうし、神様も打ち倒すと言っていた。クラウスはそれを、彼女の愛国心とも思ったし、彼女らしいと感じていた。


 そんな過去の自分を嘲るように、ユリカは言葉を吐き出した。


「そんな風に言っておきながら、結局私は覚悟ができていない、世間知らずの子供だったのよ」


 そう語るユリカは、今まで見せたことがない程に弱々しかった。こんな姿の彼女を見るのはクラウスも初めてで驚いていた。その驚きを抑えつつ、彼は言葉をかけ続けた。


「……何で、そう思うんだ?」


「さっきも言ったけど、私は自分が死ぬ覚悟はしていたわ。だけど、私以外の誰かが死ぬというのを覚悟できていなかった。戦争になれば誰かが死ぬ。理屈ではわかっていたのに、心がそれを受け入れる準備ができていなかったわ。それで倒れるほどに弱くなってしまっている。結局、私は世間知らずで覚悟が足りていない、子供のままだったのよ。だから、情けないのよ」


 そんな風に言って、彼女はヘニャっと笑った。自分の弱さを誤魔化すような、彼女らしくない笑みだった。


 しかし、仕方ないことだとクラウスは思った。戦争になれば誰かが死ぬ。そんなのは彼女もわかっていたことだ。もしかしたら、今日隣で笑っていた人間が、明日には死ぬかもしれない。もしくは顔も合わせたこともない、名前も知らないどこかの誰かが死ぬのかもしれない。ユリカはそれをわかっていたはずだし、覚悟もしていただろう。


 だけど、それを理屈で理解することと、心が受け止められるかは別の話だ。


 歴史書は戦死者の名前やその数を教えてくれるが、、人が死ぬことの冷たさまでは教えてはくれないのだ。


 多くの戦死者が出た。遠くで誰かが死んでいる。その報せに触れた時、彼女は初めて戦争と対峙し、その冷たさを肌で感じたのだ。


 そこで一呼吸おいて、彼女は一言だけ呟いた。


「誰かを巻き込むって、こういうことなのね」


 帝国統一は彼女の夢だった。その夢にクラウスをはじめ、多くの人が関わってきた。その意味を今、彼女は改めて思い知ったのだ。


 彼女の中にあるのは後悔か、それとも苦悩か。


 少なくとも、彼女がずっと苦しんでいたのは確かだ。味がわからなくなり、物も食べられなくなるくらいに。


 そんな彼女の姿を、クラウスは見たくなかった。


 これまでの彼女は自信に溢れ、いつも楽しそうに笑い、いたずらな笑みを向けてくる。そんな彼女の微笑みが、今は儚く見える。。それまでの自信や信念が壊れかけ、後悔と不安に押しつぶされそうになっている。そんな姿は彼女には似合わないし、そんな風に笑ってほしくなかった。


 だからだろう。クラウスはただ一言だけ彼女に伝えた。


「少なくとも、私は君と一緒に歩くことができて、良かったと思っている」


 それが慰めになるのかわからない。自分でも不器用で意味がないとクラウスは思った。


 だけど、それだけでも伝えずにはいられなかった。自分だけでも彼女の味方でいると、彼女に忘れてほしくなかった。


 その言葉に幾分か力をもらえたのか、ユリカは穏やかに微笑んだ。


「ありがとう。クラウス」


 しばらくして、病室のドアを誰かがノックした。クラウスが中に入るよう促すと、そこには軍医と、食事を運んできたルシアナがいた。


「お食事を持ってきました」


「あら? ルシアナ様?」


 ルシアナを見て、ユリカが声を上げる。ベッドで横になっているユリカを見て、ルシアナが心配そうに近寄ってきた。


「大丈夫ですか? 最近何も食べていないって聞きましたけど」


「ええ、大丈夫です。心配かけて申し訳ありません」


 ユリカが笑みを返す。どこか無理をしているのが見え隠れしていたが、空元気でもないよりはマシだった。その様子にルシアナも少しは安心してくれた。


「それで、食堂の方は大丈夫ですか? あんなことがあって、仕事にならないのではないですか?」


 今度はユリカが心配そうに見つめてきた。身内に戦死者が出たのだ。あまり良い状況ではないだろう。


 そんな彼女の問いにルシアナは困りつつも笑みを返してくれた。


「ええ、大丈夫ですよ。まあ……全く気にしてないって言ったら噓になりますけど、それでもお腹が空くのはどんな時でも同じですからね。まずは今日の仕事をがんばることにしてますよ」


 食堂の方はいつも通りに動いているということだった。こういう時、クラウスは女性の強さというものを実感する。身内の悲劇に心を痛めているはずなのに、それでも自分たちの仕事をこなそうと懸命に生きている。


 さすがに参謀本部の男たちを食べさせてきただけのことはあった。素直にクラウスは尊敬するのだった。


「それより食事を持ってきたんで食べてください。あまり食べる力がないって聞いてるんで、栄養たっぷりのスープとパン。あと小さく切ったソーセージを持ってきました。無理しなくていいんで、食べられる分だけ食べてください」


 そう言って、ルシアナは食事を載せたトレーをベッド脇の机に置いてくれた。ボリュームはないけど、スープからは美味しそうな香りが漂っていた。これならユリカも大丈夫かもしれない。


「ゆっくりでいいので食べてください。まずは身体に力を与えることから始めてください。私は診察室にいますので、何かあったら呼んでください」


 そう言って軍医が部屋を後にしようとした。ルシアナもそれに続き、クラウスも同じように席を立とうとした。


「待って、クラウス」


 その時、ユリカがクラウスを呼び止めた。


「どうした? 何か忘れ物か?」


 女性だし、化粧道具か衣服でも置いてきたのかもしれない。持ってくるよう頼まれるかと思ったが、ユリカは食事を乗せたトレーを指差した。


「ごはん、あなたが食べさせて」


「……は?」


 そんな間抜けな声が飛び出した。後ろでは軍医とルシアナが目を丸くしてクラスたちを見ていた。


「だから、あなたがご飯を食べさせて。看病だと思って」


「い、いや。さすがにそれは」


「お願い」


 じっと見つめてくるユリカ。その瞳に見つめられ、クラウスは困惑し、押し黙ってしまった。


 その光景が面白いのだろう。ルシアナが横を向いて笑いをこらえていた。


「いいですよ。ぜひそうしてあげてください」


 そんな二人に軍医が話しかけてくる。さすがにクラウスも驚いてしまう。


「いいんですか? 先生」


「ええ。むしろそばにいてあげてください。あなたがいれば安心できるでしょうし、それに何かあった時に誰かがいてくれた方が、私としても助かります。情報部の方には私からお伝えしておきますので」


 ルシアナも何も言わないが、そばにいてあげるよう目で訴えていた。


 実際クラウスも気になって仕事にならないだろうし、彼女のそばにいてあげたいという気持ちもあった。気が引ける思いではあったが、クラウスも軍医の心遣いに甘えることにした。


「わかりました。何かあればすぐに呼びます。ありがとうございます」


 クラウスの答えに笑みを返して、ルシアナたちは部屋を後にした。


 二人きりになった途端、ユリカが楽しそうに声を上げた。


「ほらほら、早く食べさせてちょうだい」


 弱っているくせに、こういう時は楽しそうに笑うのだ。クラウスも観念したようにため息を吐いた。


「わかったから落ち着いてくれ」


 そんなクラウスを楽しそうに見つめるユリカ。いつもと同じ、悪戯な笑みを浮かべていた。その笑みに呆れつつも、しかしクラウスはそんな彼女を見てほっとしていた。まだまだ笑みに力はなかったが、いつものように笑うようになった彼女を見て、内心嬉しく思っていた。


 クラウスは彼女の横に座り、スプーンを手に取った。


 その時、クラウスはふと考える。こういう時はやはり、あーんとでも言うべきなのだろうか?


 さすがにそれは恥ずかしいと思うクラウス。どうすればいいかわからず、動きを止めてしまった。そんな彼の反応をユリカが笑うと、彼女は小さな口を開けてきた。


「あーん」


 口を広げて食事をせがむユリカ。その光景に思わずドキリとするクラウス。


 クラウスはその口に向けてスプーンを運んだ。口に運ばれたのを感じたユリカは、スープを口の中に招き入れた。


「……美味しい」


 嬉しそうに微笑むユリカ。その言葉にクラウスは首を傾げた。


「え? 味は感じないんじゃないのか?」


「ええ。今も感じないわ。口の中に何か入って来たってことしかわからないわ。でもね」


 ユリカは机にあるスープに目を向けた。


「ルシアナさんが作ってくれたスープよ。ここで何度も食べてきたルシアナさんの味よ。この舌が味を感じなくなっても、心は忘れないわ」


 今まで何度も食べてきたルシアナの料理。ユリカにとっては特別な料理だ。


「大切なものは、心が覚えているわ」


 ユリカが微笑む。大切なものが心に染み渡っていく。それを彼女は全身で感じ取っていた。


「ねえ、早く次をちょうだい」


「……ああ、わかった」


 クラウスがもう一度、スープを彼女の口に運ぶ。そうしてまた次も。それを何度も繰り返した。


 少しだけ元気を取り戻すユリカ。彼女がこうして、以前みたいに食事を楽しんでいる。そのことを嬉しく思いながら、クラウスはユリカと食事を共にするのだった。



 ベッドの上で寝息を立てるユリカ。それを見て安心するクラウス。


 食事を終えた後、ユリカから自分が寝るまで横にいるよう言われたクラウスは、彼女の言うとおりに横にいてあげた。彼女が寝たのを見届けると、彼女を起こさないように席を立ち、静かに退室していった。


 すでに夕方になっていた。クラウスが診察室に行くと、軍医と目が合った。


「ああ、クラウスさん。ユリカ大尉の具合はどうですか?」


「今眠りましたよ。食事も全部食べてくれました」


「それはよかった。食事ができるかどうかで、大きく違いますからな」


 軍医も安心したように頷いてくれた。そんな彼にクラウスは質問を投げかけた。


「先生。ユリカは大丈夫でしょうか? あまり食べていないとなると、身体の調子も悪いのでは?」


「……そうですね。今日明日、いきなり悪化するということはないと思います。ですが、それと同じように身体の不調がすぐに治るということもありません。特に、味覚障害は治療に時間がかかるでしょう」


 軍医の言う通りだろう。ユリカの味覚障害は心の問題でもある。身体だけでなく、心にも治療を施さなければならない。それには時間がかかるのだ。


「ユリカさんのような患者は、私も見たことがあります。訓練中の事故で友人を失くし、そのショックで心を壊したり、砲弾や銃の激しい音に耐えられず、意識障害を起こす人もいました。ユリカさんの場合、初めて体験する戦争で、多くの戦死者がいるという事実に心が血を流し、それが身体にも影響を及ぼしたのだと思います」


「そうですか……」


 軍医の話を聞いて、クラウスは悔しそうに顔を下げた。


「情けないです。彼女がそんなことになっているのに、隣にいながら気付けなかったなんて」


「仕方ありません。大尉は身体の不調を隠して働いていたようですし、あなたにも気を使っていたのでしょう。あまり自分を責めないでください」


 軍医の慰めに少しばかり気が休まるクラウス。


 しかし、ユリカが不調であることに変わりはない。何とかしてやりたいが、クラウスに医術の知識はないし、それにユリカの場合は心が病に侵されているのだ。心を治療する方法など、クラウスにはわからなかった。


 何かできることはないだろうかと考えた時、彼の中に一つの考えが浮かんだ。


「先生。ユリカのことで一つお願いがあるのですが」



「……ん?」


 見慣れない天井を見上げながら、ユリカは目を覚ました。一瞬混乱しながら、彼女はベッドの上で体を起こした。それから周りを見回してから、彼女は自分に何が起きたのかを思い出した。


 病室に運ばれて食事をして、それからすぐに眠ってしまったのだ。ずっと横になっていたせいか、身体が少し痛かった。


 窓の外を見る。だいぶ陽が高くなっている。かなり長い時間寝ていたらしい。起床ラッパで目覚めなかったのは、いつぶりだろう。


 その時、彼女は相棒の姿が見えないことに気付いた。


「クラウス……?」


 何度か彼の名を呼びかけるが、返事はない。きっと情報部にいるか、もしくは部屋に戻っているのだろう。


 仕方ないとため息を吐いて、彼女は再び横になった。


 なんだか不思議な気分だった。一人きりでいる時間が、こんなに寂しいものなのかと、ユリカは静かに考えこんだ。


 クラウスと出会う前は一人で仕事をしてきたし、それが当たり前だと思っていた。


 それがクラウスと共に旅をする中で、彼がそばにいるのが当たり前になっていた。そんな彼の姿が見えないだけで、彼女は寂しさを感じていた。


 このままもう一度眠ろうかと思った。そうすれば寂しさを忘れられると思った。


 その時、ドアをノックする音が聞こえた。


「ユリカ、起きてるか?」


 いきなりのことに驚くユリカ。彼がここに来るとは思っていなかったので、まさかのことに反応できずにいた。


「クラウス? 起きてるわ。どうぞ」


 ユリカの声に反応してクラウスが病室に入る。その手には食事が載せられたトレーがあった。


「やっと起きたか。ほら、朝食を持ってきたぞ。それと、先生も来てくれたから診てもらえ」


 クラウスがそう言うと、彼の後ろから軍医が姿を現した。


「おはようございます。具合は如何ですか?」


「あ、先生。おはようございます。大丈夫です。だいぶ良くなりましたわ」


「それはよかった。ちょっと失礼します」


 軍医はそれから、ユリカの脈拍を測ったり、体温を測ったり、血色などもつぶさに診た。診察を終えると、満足そうに頷いて見せた。


「昨日より顔色も良くなってますね。クラウスさん。これなら大丈夫です。無理さえしなければ外出も大丈夫ですよ」


「そうですか。ありがとうございます。先生」


 そんな会話を交わすクラウスと軍医。その様子に首を傾げるユリカ。


「何? 何の話かしら?」


「ああ、そうだった。ユリカ。今日は出かけないか?」


 思い出したとばかりに口を開くクラウス。その何気ない言葉にユリカがしばし、固まってしまった。


「……え? ごめんなさい。何て言ったの?」


「聞こえなかったか? 朝食を食べたら一緒に出掛けようと言ったんだが」


 そんなクラウスの言葉にユリカは耳を疑った。まさかクラウスから外出のお誘いが来るとは思ってもいなかった。たぶん初めてではないだろうか。


「えっと……でもいいのかしら? まだ安静にしないといけないんじゃ?」


「大丈夫ですよ。安心してください」


 戸惑いを見せるユリカに軍医が語り掛けてきた。


「体調はいいみたいですし、無理さえしなければ外出も大丈夫だと思います。外出許可は私から出しておきます。情報部の方にも連絡しておきますので、遠慮しないでください」


 彼はそう言ってカーテンを開けた。外は快晴で、絶好の外出日和だった。


「私が言うのも情けないですが、人はパンだけで生きるわけではありません。それと同じように、薬だけでは病気を治すことはできません。身体に栄養と、心に微笑みがなければ治るものも治りません。軍医として、外出することをお勧めしますよ」


 軍医の言葉に思わず呆けるユリカ。そんなことを言われるとは思ってもいなかったので、何も反応できずにいた。


 そんな彼女の様子をクラウスが心配そうに見た


「どうした? やっぱり具合が良くないのか? 行きたくないのなら無理にとは言わないが」


 心配するクラウスにユリカが首を大きく横に振った。そして、その瞳をクラウスへ真っ直ぐに向けた。


「大丈夫。行くわ」


 その答えにクラウスが安心したように笑みを浮かべた。


「すぐに食べるから、ちょっと待っててね」


「そんなに慌てなくていいぞ。準備ができたら呼んでくれ」


 そんな会話を交わす二人を、軍医は微笑ましく見つめるのだった。



「お待たせ」


 参謀本部から少し離れた通り。そこにいたクラウスのところへ、ユリカがやって来た。


 お気に入りなのだろう。青色の服を身に纏い、綺麗に着飾ったユリカ。そんな彼女をクラウスが迎えた。


「大丈夫か? 忘れ物はないか?」


「大丈夫よ。そんなお母さんみたいなことを言わないでちょうだいな」


「ああ、すまない」


 不満そうに頬を膨らませるユリカに思わず笑ってしまうクラウス。彼はすぐ横に控えさせていた馬車に乗り込もうと、ユリカに手を差し出した。


「それじゃ、行こうか」


 クラウスから差し出される右手。ユリカはその手を握り返し、馬車に乗り込むのだった。


 二人を乗せた馬車がオデルンの街を走り出す。いつもと同じように、人々が日常を営んでいた。


 そんな光景を眺めるクラウス。そんな彼にユリカが問いかけた。


「ねえクラウス。これからどこに向かうの?」


「ああ。宰相閣下の屋敷に向かうつもりなんだが、その前に少し街を走ろうと思うのだが、いいか?」


「おじい様の屋敷に? 何かあるの?」


「それは着いてからの楽しみにしてくれ。とりあえず一緒に街を走ろう」


「ふーん……わかったわ」


 その時、ユリカが外を見ると、そこにある建物に目を向けた。


「あ。、ねえ。ゲッティング大学よ」


 クラウスが外を見た。そこにはグラーセンの最高学府・ゲッティング大学が見えた。


「確かあなたって、あの大学に通っていたのよね」


「ああ。私の母校だよ」


 そう言いながらクラウスは、自分が通っていた大学を眺めていた。


 ゲッティング大学は、かつての皇帝戦争で敗北したグラーセンが、近代化を推し進めるために設立した大学だった。当時活躍した科学者・ゲッティングが中心となって設立され、今はそのゲッティングの名を冠する大学として、大陸の中でも最高格の大学として認められていた。


「父に大学に行くよう勧められて、必死に勉強して何とか入学できたんだ。あそこで勉強するのは楽しくて、興味がある講義は全部出ていたよ」


 軍人を輩出してきたシャルンスト家だが、クラウスの父は彼に文官になるよう進めた。きっと彼を大学に行かせたのも、彼に必要だと思ったからだろう。


「そっか……ねえ、あそこに通っていた時はどんな学生だったの? どんなことをして過ごしていたの?」


 学生時代のクラウスに興味が出たのか、そんなことを質問するユリカ。クラウスは少し考えてから口を開いた。


「そうだな……君も知っての通り、私は人付き合いが苦手だからな。同年代の若い学生が私を遊びに誘ったりするんだが、遊ぶということも知らない私は、彼らの誘いに乗ることができなかった。元々不愛想な顔だからな。周りからは怒っているように見えて、怖がられていたのを覚えているよ」


 若い学生の中を一人無愛想に歩くクラウス。その光景を想像してしまい、ユリカは思わず笑い出した。


「その時の学生さんたちに同情するわ」


「全くだ。当時の自分に言ってやりたいよ。もっと笑えと」


 正直今でも愛想が良いとは言えないが、そこは言わぬが花という奴だ。


「まあ、そんな生活を何年か過ごした後、教授からアンネルへの留学を勧められて、私は教授の言うとおりにアンネルへ留学することになったんだ」


「……そっか。そうしてアンネルで私と出会ったのね」


 感慨深そうにするクラウスたち。もしクラウスが大学に行っていなければ、彼はアンネルに留学することはなく、そうなるとユリカとも出会うことはなかったのだ。


「それなら、あなたに留学を勧めた教授に感謝しないとね。私とあなたを引き合わせた人なのだから」


「ふむ。そういうことになるのかな」


 運命というものがあるとするなら、これほど不思議な巡り合わせもなかっただろう。


「でも、あなたの昔の話って、初めて聞いたかもしれないわね」


「そうか? よく家の話はしていると思うが?」


 クラウスがそう言うと、ユリカは首を横に振った。


「私が言っているのは、あなたがどんな人間で、どんな風に生きてきたかってことよ」


 そう言われてクラウスは思い起こす。確かにそう言われると、自分のことはあまり話したことはないかもしれない。


 すると、ユリカが身を乗り出して言った。


「ねえ。屋敷に着くまで、あなたの話を聞かせてくれないかしら?」


 その言葉が意外だったのか、クラウスは不思議そうな顔をした。


「私の話? あまり面白いものではないと思うが?」


「いいの。私が聞きたいの」


 そんな風に言ってくれるユリカ。どうしても聞きたいのだと、その顔が語っていた。こうなると彼女は絶対に引くことはないとクラウスは知っていた。


「わかった。それじゃあ初めて大学に来た日のことでも話そうか」


 クラウスはそう言って、昔のことを思い出しながら当時のことを話し出した。ユリカはそれを面白そうにしながら耳を傾けるのだった。



「お、着いたぞ」


 二人を乗せた馬車がスタールの屋敷に到着した。二人は馬車から降りて屋敷の門を潜った。そんな二人を出迎えたのは、主人であるスタールだった。


「おお、ユリカ」


 二人を見るや否や、スタールが心配そうにユリカに駆け寄った。


「話は聞いた。身体の具合は大丈夫なのか?」


「ええ。だいぶ良くなりました。申し訳ありません。心配かけてしまって」


 彼女の身体を心配そうに抱き寄せるスタール。その横からクラウスが声をかけた。


「申し訳ありません、閣下。自分がいながらこんなことになってしまって」


「そんなことはない。君がいてくれて良かったと思う。あまり自分を責めないでくれ」


 はたして自分がどれほど役に立ったかクラウスは疑問に思うが、スタールの言葉に幾分か救われる思いだった。


「それで、準備の方はできていますか?」


「ああ、サンドラくんの方は準備できているようだ。早く行くといい」


 そんな風に話し合うクラウスとスタール。二人だけで何か用意しているようだったが、何も知らされてないユリカは首を傾げるのだった。


「何? 何かあるの?」


「ああ、実はサンドラさんにお願いして、あるものを用意してもらったんだ。早く行こう」


「う、うん。わかったわ」


 クラウスに言われて、ユリカはよくわからないまま屋敷の中を歩き出した。


 少し歩くと、応接間の前にサンドラが立っていた。今も仮面をしているが、彼らを微笑みで迎えてくれているのが、その佇まいでわかった。


「お待ちしておりました。クラウス様、ユリカ様」


「こんにちは、サンドラ様」


 言葉を交わすユリカとサンドラ。その時、クラウスは周りを見ながら怪訝そうな顔をした。


「サンドラさん。シチョフさんはいらっしゃらないのですか?」


「はい。当主様は緊急の用件が入ったとのことで、屋敷を出ております。いずれ戻ってくると思います」


 緊急の用件というものが気になるクラウスだが、これ以上詮索することも憚られると思い、それ以上何も問うことはなかった。


「わかりました。それなら中で待つことにしましょう」


「はい。そうして下さるとありがたいです」


 それからサンドラは、応接間のドアに手をかけた。


「どうぞお入りください。すでに準備はできておりますので」


 サンドラがドアを開く。その光景を目にして、ユリカがその場に立ち尽くした。


「これって……」


 応接間の中央にある机。その上に多くの料理が並んでいた。スープや肉料理、お菓子などが芳しい香りを漂わせていた。


 ただそれだけならユリカも驚きはしない。そこに並べられていたのは、アスタボでユリカたちも食べたことのある、アスタボの伝統料理だった。


「これ、アスタボでも食べたことがありますわ。紅茶にジャムに、それにお菓子も。このスープも美味しかった……」


 机に並んでいる料理を一つ一つ眺めるユリカ。その様子にクラウスたちは笑みを浮かべた。


「実はサンドラさんにお願いしたんだ。アスタボで自分たちが食べた料理を作ってくれないかと」


「いや、私も驚いたよ。クラウスくんがサンドラさんにお願いしに来て、彼女はすぐに厨房を借りて料理を作り始めたんだ。屋敷の女中たちも

興味深そうに見ていて、レシピを教えてもらっていたくらいだよ」


 昨晩ユリカが寝た後、クラウスはスタールの屋敷まで来て、ユリカの容態のこと。それからサンドラに料理を作ってもらうことをお願いしていた。話を聞いたシチョフとサンドラは快諾し、すぐに料理を作ってくれたのだ。


 それを聞いたユリカは困ったように笑った。ありがたい反面、自分がそれを食べることに躊躇していた。


「サンドラ様。ありがたいことですが、私が食べても味がわからないのですが……」


「はい。味覚障害であることは伺っております。ですが、クラウス様がどうしてもあなたに食べてもらいたいと仰っていましたので」


 サンドラの答えを聞いてユリカはクラウスを見た。どういうことなのかと無言で問いかけると、クラウスは静かに答えた。


「君は昨日言っていたよな。味がわからなくなっても、心が美味しかったことを覚えていると」


 それは昨日、ルシアナが作ってくれたスープを口にした時の言葉。たとえ味がわからなくても、その時食べた食事の美味しさも、楽しさも心が覚えていると。


 それを聞いていたクラウスは、彼女に思い出の料理を食べてもらうことを思い付いたのだ。二人で旅をしたアスタボ。そこで食べた料理。それは二人の思い出であり、忘れることのない記憶だ。


「味がわからなくても、食事を楽しむことくらいはできるだろう?」


 そんな風に語りながら微笑みを浮かべるクラウス。その答えにユリカは呆気に取られた。そんなことを考えていたなど、思ってもいなかったのだ。


 ユリカは不思議な感覚を覚えた。嬉しいのか戸惑っているのか、言い表せない感情が彼女の中を満たしていた。


 そんな彼女にサンドラが席に座るよう促した。


「さあ、お召し上がりください。心に合えばいいのですが」


 その時、ユリカは料理から漂う香りを感じた。それは確かに、クラウスと二人で旅したアスタボでの思い出の香りだった。


 その瞬間、彼女は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。いただきますわ」


 そう言って着席するユリカ。クラウスとスタールは楽しそうに笑い、二人も席に座るのだった。


 三人が座ると、サンドラが三人分の紅茶を運んでくれた。ユリカがその紅茶を手に取り、口に運んだ。それからほうっと息を吐いた。


「……美味しいわ」


 そう呟いて微笑みユリカ。それからもう一度紅茶を口に含んだ。


「味はわからないけど、心が喜んでいるのがわかるわ」


「……そうか。よかった」


 ユリカの言葉にクラウスも喜ぶ。それは横で見ていたサンドラとスタールも同じだった。


 それからユリカは他の料理も口に運んだ。やはり身体は本調子ではないのか、食べるスピードは以前に比べて遅かった。それでも少しずつ口に運ぶその姿に、クラウスは安心していた。


「そういえば、ビュルテンに行った時は、アンネル風に味付けをした料理があったな」


「そうだったわね。他にも山で獲れた鳥を焼いた料理もあったわよね」


「ああ、そうだったな。懐かしいな」


「そう言えば覚えてる? シェイエルンに行った時のこと。あそこはたくさんソーセージがあって、どれを食べるか迷ったわ」


「ああ、覚えてる。覚えてるよ」


 そんな風に、二人はこれまでの旅の思い出を語り出す。思えば色々な場所を旅してきたと思う。その土地で色んな食べ物を食べたし、色んな所を歩いたりした。


 全ては鮮明に記憶され、その情景は二人の心に刻まれていた。


 きっと一生忘れることのない宝物なのだ。


「ふふ、なんだかまた行きたくなったわ」


 ユリカがふと呟いた。


「行きたいって、どこにだ?」


 クラウスが問いかけると、ユリカは静かに答えた。


「これまで、あなたと旅してきた場所へ」


 二人で色々な場所へ旅してきた。それは変わることのない思い出の場所であり、もう一度行きたい場所だった。


「全てが落ち着いたら、また一緒に旅をしましょう」


 全てが落ち着いたら。まるで明日もまた会うことを約束するような、そんな気軽さだった。


 だけど、これまでもそうだった。そんな何気ない約束をするのが、彼らには楽しかった。


 だからこの約束も、いつか果たされるのだろう。その時のことを思うと、クラウスは楽しそうに笑うのだった。


「ああ、そうだな。いつかまた、旅に出よう」


 その言葉に微笑みを返すユリカ。彼女もその時のことを想像して、楽しそうにしていた。


 その様子を楽しそうにスタールたちも眺めていた。


 穏やかな光景。静かな団欒。彼らはその時間をじっくり噛み締めながら、並べられた食事を食べるのだった。その間、美味しそうに食べるユリカだった。



「ごちそうさまでした。ありがとうございます。サンドラ様」


 食事を終えたユリカがお礼を伝えると、サンドラも仮面の下で笑みを浮かべた。


「喜んでいただけて光栄です」


 実際参謀本部の時と違って、昨日よりも多く食べていた。その様子にクラウスも内心で喜んでいた。


 その時、応接間のドアが勢いよく開かれた。


「閣下! それにクラウスさんも」


 入って来たのはシチョフだった。顔を青くさせて慌てる姿に、サンドラも驚いているようだった。


「シチョフくん? どうしたんだね? そんなに慌てて」


「閣下にお伝えしたいことがあります。クラウスさんたちもちょうどよかった。お二人も聞いてください」


 シチョフは一旦落ち着いてから、それからそこにいる全員に聞こえるように話した。


「アンネル領に派遣している私の部下から報告がありました。グラーセン軍が追走している敵部隊に援軍が向かっているとのことです。数日中にサンブールの部隊と合流するとのことです」


 この時ほど、クラウスは自分の耳を疑ったことはなかった。その場にいる誰もが、シチョフのもたらした報告に驚愕し、反応もできずにいた。


『ピクニックに行く時は、にわか雨に気を付けろ』


 楽しい時は唐突に破られる。彼らはこうして、戦争という現実に引き戻されたのだった。

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