第五章 夢を追いかけて

『クラウスへ。これを読んでいるということは、私はもう参謀本部から出発したということだわ。


 ごめんなさい。何も言わずに置いていってしまって。


 今日外出したのは、ある作戦を実行に移すために、その準備をしていたの。


 その作戦が成功すれば、今の不利な状況を打開できるはずなの。


 成功すれば、この戦争の勝利も見えてくる。それくらい大事なもの。だけど、同じくらい危険な作戦だわ。


 その話を聞けば、あなたは絶対ついて来ると思う。あなたはそういう人だもの。


 だけど、あなたまでこの作戦に来てもらうわけにはいかないわ


 私は軍人だけど、あなたは軍属。あなたがこの作戦に関わる義務はない。それに、あなたを巻き込みたくはなかった。


 黙っていたことは謝るわ。だけど、それ以上に危険な目に遭わせたくはないの。


 あなたを軍属に誘ったのは私で、私の夢に巻き込んだのも私。だから、あなたを無事に帰すのは私の責任。私はその責任を果たすわ。


 本当は直接会ってお別れするべきだったのでしょうけど、そんなことをすれば私の決心が鈍りそうだったから、せめて手紙でお別れを伝えるわ。


 だけど大丈夫。安心して。作戦に行くと言っても、死ぬつもりはないわ。捕虜になるかもしれないけど、そうすれば生きて帰ることもできると思う。


 帰ることができたら、真っ先に会いに行くから、待っていて。


 ただ、もし最悪の結末になったら、その時はお願い。あなたは生きて。それだけが私のお願いよ


 今までありがとう。あなたと一緒にいるのはとても楽しかったわ。


 だから大丈夫。私、楽しいことは大好きだから、またあなたの所に帰ってくるから。


 また一緒になれたら、また旅に行きましょう。二人でどこまでも行きましょう。


 それじゃあ行ってきます。いい子でお留守番しててね』



 そんなことが手紙には書かれていた。別れの手紙にしては簡素で、特別なことは何もない内容だった。


 死ぬつもりはない。そんなことが書かれていたが、クラウスにはわかる。それは半分本当で、半分は嘘だ。


 死ぬつもりはないのだろう。だけど、彼女は死ぬ覚悟で作戦に向かったに違いない。ユリカはそういう人間だと、クラウスにはわかっているのだ。


 本当は他にも書きたいことがあったのかもしれない。だけど簡単な内容にしたのも、それ以上時間をかけたくなかったからだ。


 そうしてしまえば、自分の覚悟が鈍るだろうとユリカは恐れたから。


 クラウスの中に怒りが込み上げてきた。最後の最後で、どうしてこんなことをするのか。最後の最後で、どうして自分を裏切るのか。


 怒りで沸騰しそうな心を抑えつけ、クラウスはクラビッツの部屋までやって来た。


「少将! 少将! クラウスです! こちらにいらっしゃいますか!」


「いるぞ。入りたまえ」


 クラビッツの声が聞こえてくる。クラウスはそのままドアを開き、中に入った。


 クラビッツは変わらずそこにいた。何事もないかのように、静かにそこにいた。それだけなのに思わず気圧されそうになるクラウス。


「どうしたのだ、クラウスくん? 何か私に用があったのではないのか?」


 淡々と告げるクラビッツ。その声に反応して、クラウスが口を開いた。


「少将。ユリカはどこにいますか?」


「すまないが、それは答えられない」


 即答だった。それ以上の問答は必要ないとばかりの返答だった。


 だがクラウスは引かない。今回ばかりは引くわけにはいかなかった。彼はその手に握られていたユリカの手紙を掲げて見せた。


「少将。ユリカは手紙の中に、ある作戦に向かうと書いてありました。私も作戦に同行させてください」


「何故君が作戦に参加するのかね?」


 クラウスの申し出にクラビッツの冷徹な眼差しが突き刺さる。どこまでいってもクラビッツの視線は氷のように鋭かった。


 だがクラウスも押し負けまいと、なおクラビッツに食い下がる。


「私はユリカの補佐を任されました。彼女の近くで補佐するのが仕事です。同行するのは当然だと思います」


 これまでずっとユリカを助けてきた。ユリカの横に並んで歩いた。それがクラウスの仕事だった。それが戦場であろうと、煉獄であろうとだ。


 クラウスの負けまいとする視線がクラビッツへ真っ直ぐに伸びる。それを受け止めて、クラビッツは静かに言葉を放り投げた。


「それは許されない。同行は許可できない」


 脳が一瞬、理解を拒否しかけた。クラウスは沸騰しかける心を抑えつけ、クラビッツに問い返した。


「何故ですか。許可できない理由などあるのですか」


「それは君の身分が軍属だからだ」


 その言葉にクラウスがたじろぐ。それを見て取ったクラビッツがさらに言葉を重ねる。


「君はあくまで軍属であり、軍人ではない。ユリカ大尉の任務は機密内容なのだ。軍属である君に作戦の内容を伝えることは許されない」


 そう、クラウスは軍属であり、軍人ではない。あくまで軍に所属する民間人であり、軍人とは違う。軍の命令に服従する義務はないが、軍の機密を知ることができない身分でもあるのだ。


 クラビッツの言葉は正当だ。一分の隙もない言葉だった。


 正しさという名の壁を前に、クラウスはよろめいてしまう。何か言葉を発しようとするが、言うべき言葉が見つからない。自分が立ち入る隙がない。クラウスは唖然と立ち尽くした。


 軍属であるクラウスに、これ以上立ち入ることは出来ない。これは軍隊の活動であり、軍属のクラウスが関わってはいけない領分なのだ。


 クラウスの中で、軍属になれたことに満足している自分がいた。軍人にはなれなかったけど、違う形で夢を叶えたのだと思っていた。


 それが勘違いであることを、クラウスは思い知らされた。結局自分は軍にいるだけの民間人であって、軍人ではないのだ。


 戦場を駆け回り、武勇を誇る英雄ではない。彼らの戦いの後ろで、のんきな生活を送るだけの人間。それが自分なのだと知って、クラウスは失望した。


 もしかしたら、ユリカが彼を軍属にしたのは、彼に危険な目に遭わせないためだったのではないか。軍属ならば危険な目に遭うことはなく、軍の命令に服従する義務はない。そうすることで、彼を最後の一線で守ろうとしたのではないか。


 彼女のことを想像すると、それが正解であるように思えた。そして、その優しさにクラウスは怒りを覚えた。


 これまで仲間とか戦友とか言ってくれたのに、最後の一線で彼女は自分を離していたのだ。それはクラウスにとって裏切りだった。彼を守るためだとしても、置いてきぼりにされたクラウスにとって、これ以上ない裏切りだ。


 自分の手を引いたくせに。いつまでも冒険しようと言ったくせに。共に夢を叶えようと言ったくせに。


 そんなことを考えていると、クラウスの中で怒りの熱が舞い上がっていた。



 ……ああもうだめだ。我慢できない



 そう思ったクラウスはクラビッツに背を向けた。


「どこへ行くのかね? クラウスくん」


「ユリカのところへ行きます。自分で行く分には問題ないはずです」


「参謀本部での仕事はどうするのかね?」


「軍属ならば服従する必要はありません。勝手に行かせてもらいます」


「大尉がどこに行ったかもわからないのにか?」


「わからなくても行きます。絶対に」


 子供のわがままみたいだった。クラウスは聞く耳を持たない。彼を止める者はどこにもいない。


 そんな駄々をこねるクラウスに少将が尋ねた。


「彼女に会いにって、どうするつもりかね」


「とりあえず説教します。すっごい怒ってますから」


 自分を置いていったこと。自分を裏切ったこと。自分を守ろうとしたこと。ユリカの全ての行いにクラウスは怒っていた。もうこれ以上我慢できなかった。


 いつもは説教される側のクラウスだが、今回ばかりは頭にきた。あのお嬢様に説教してやらないと気が済まなかった。


「もういいですか? 行かせてもらっても」


 今すぐにでも飛び出しそうな勢いだった。そんなクラウスの様子にクラビッツが溜息を吐いた。


「待ちたまえ。君には仕事を与えねばならんのだ」


「お断りします。軍属の自分が請け負う義務はないはずです」


「いいから聞け」


 クラビッツが一喝すると、彼は手元に置いてある書類に手を伸ばし、それを顔の高さまで掲げた。


「クラウスくん。君を軍属階級から解除する。これより君に新たな身分を与える」


「……は?」


 いきなりのことに目を丸くするクラウス。そんな彼にクラビッツはさらに語り掛けた。


「今より君をグラーセン陸軍少尉に任官する。少尉として軍の命令に従ってもらう」


「えっと……それって」


「クラウス少尉。早速だが君にはある任務を与える」


 そう言ってクラビッツがあるものをクラウスに差し出す。それは手紙のようだった。


「アンネルとの国境付近に先行している軍用列車に一人の大尉が乗車している。君はこれからオデルンを出発する列車に乗り、大尉にこれを渡しに行ってもらう」


 そこまで言われてクラウスにも理解できた。クラビッツの言葉が何を意味するのか。


「この書類を渡した後は、その大尉に指示を仰ぐように。できる限り大尉の助けになるのだ。いいな?」


 そう言ってクラビッツが近寄ってくる。


「あくまで形式的なものだが、君を少尉として扱わせてもらう。軍籍票の代わりにこれを持っておけ。私の名義で君を少尉とする証明書になっている。これを持っていれば少尉として扱ってくれるだろう」


 クラビッツが一枚の手紙と共に書類を手渡す。書類にはクラウスを少尉に任命するというクラビッツの覚書が書かれていた。


「外に一台馬車を待たせてある。それに乗れば駅まで連れて行ってくれる。あとは指示書の通りに動くように。何か質問は?」


 あくまで事務的に淡々と語るクラビッツ。だが、その言葉の意味するところをクラウスは理解していた。


 だから彼は質問の代わりにお礼を叫ぶのだった。


「ありがとうございます! すぐに行きます!」


 そう言って答えをもらうより前にクラウスは部屋を出て行った。まるで呪縛から解き放たれたように、嬉しそうに。


「……やれやれ」


 そんなクラウスを見送り、呆れて溜息を吐くクラビッツだった。



 参謀本部の正門前に一台の馬車が停まっていた。クラウスがその馬車に向かって走っていった。


「失礼、自分はクラウス少尉です! クラビッツ少将に言われてきました!」


 御者に声をかけると、馬車のドアが開いた。乗るようにと御者が視線を送ってくる。


「失礼します!」


 そう言って馬車に乗り込むクラウス。そうして中に入ろうとすると、その光景を前に動きを止めてしまった。


「え……? 閣下?」


「やあ、クラウスくん」


 そこにいたのはスタールだった。スタールが一人、馬車の中で座って待っていた。


「えっと、どうしてここに?」


「まあまあ、話は走りながらにしよう。とりあえず乗りなさい」


「あ、はい」


 そんな間抜けな声を上げつつ、クラウスは言われたとおりに馬車に乗り込む。クラウスが乗ったのを確認して、御者が馬車を走らせるのだった。


 走り続ける馬車の中で向かい合うクラウスとスタール。二人の間に沈黙が漂っていた。その沈黙にクラウスは気まずさを覚えていた。


 何か言うべきなのだろうが、何から話すべきかクラウスは悩んでいた。


「クラウスくん、うちのユリカがすまないね」


 その時、スタールが口を開いた。クラウスが顔を上げると、スタールが申し訳なさそうに笑っていた。


「今日ユリカが私のところに来たよ。作戦に行くことを伝えにね」


「……それってやっぱり」


「本人は生きて帰ってくると言っていたが、あれは死ぬ覚悟で行ったと思うよ。まあ、生きて帰るつもりなのは本当だろうけどね」


 寂しげに語るスタール。そんな彼にクラウスが疑問を投げかけた。


「閣下はユリカを止めなかったのですか? 心配ではないのですか?」


「もちろん心配さ。だけど、あの時のユリカの顔を見て、止めることは出来なかったよ」


 その時の光景を想像して、クラウスは苦笑する。きっとスタールに負けないくらいの、強い意志を見せつけたのだろう。確かに彼女にそんな顔をされたら、止めることは難しいだろう。


「それにね。ユリカはもう我慢できなかったのかもしれない」


「我慢、ですか?」


「うん。戦場で多くの人間が亡くなっているのに、自分が安全な場所にいるのがもう耐えられないんだと思う。自分も義務を果たしたいのだと思うよ」


 彼女の性格を思えば、容易に想像できた。今も多くの戦死者が出ている中、安全な後方にいるだけの自分に彼女は苦悩していた。その苦しみのために味覚障害にまでなったのだ。


 そんな彼女が戦争に参加したいと願うのは、自然な流れにも思えた。


「まあ、その作戦に自分は参加するのに、君を連れて行かないのは、ちょっとわがままだとは思うがね」


 そんなことを言いながらスタールが苦笑いを浮かべた。


「ユリカに君を連れて行かないのかと言ったら、それはやめておくと言われたよ。さすがに驚いたがね」


「そうでしたか……でも、どうして彼女は自分を置いていったのでしょう? 何か言ってませんでしたか?」


 クラウスはどうしてもそこが気になっていた。これまでずっと一緒に旅をしてきたのに、どうして今回は自分を置いていったのか。


 これまでも危険な任務があった。それらをいつも二人で乗り越えてきた。それなのに彼女は今回の作戦に自分を置いていった。一体そこに彼女はどんな感情を抱いていたのだろうか。


 その疑問を投げかけると、スタールが思い出すように口を開いた。


「私もそこが気になって聞いてみたんだ。そしたらこう言っていたよ。これ以上自分の夢に巻き込むわけにはいかないって」


「彼女の夢、ですか?」


「ああ。君たちの冒険の始まりは、ユリカから君の手を引いたことが始まりだったんだろう? ユリカの帝国統一という夢に協力してほしいって」


 クラウスがその時のことを思い出す。元々二人はアンネルで出会って、その時ユリカが一緒に働いてほしいとクラウスを誘ったことがきっかけだった。


 彼女は言っていた。帝国統一という夢のために、一緒に歩いてほしいと。


 確かにきっかけは彼女からだった。クラウスの立場からは、彼はユリカの夢に巻き込まれたとも言えた。


 だけど、そこまで聞いたところでクラウスは腹を立てた。ユリカの話に憤りを覚えた。


 確かに最初は巻き込まれたのかもしれない。彼女の夢に引っ張られたのかもしれない。


 だけど、今は違う。自分も彼女の夢を見たいと、いつの間にか思うようになっていた。彼女が見たいと願う夢は、クラウスの夢にもなっていた。


 だというのに、今さらその夢から目を覚ませというのか。


 巻き込んだと思うのなら、最後まで責任を持てと、そんなことを考えるクラウスだった。


「色々すまないね、クラウスくん。あの子は変なところで不器用でね」


「……本当に、そう思いますよ」


 色々な人を巻き込んで、最後の最後で周りの人たちの想いを汲み取れず、自分一人で突っ走る。本当に不器用だとクラウスは思った。


 だけど、そんなのはずっと前からわかっていた。だからクラウスは彼女を手伝ってやりたいと思うのだ。悪戯好きで人をからかうのが好きで、だけどどこか不器用な彼女を助けてやりたいと、ずっと思っていた。今さらやめるなんて、彼にはできなかった。


「なあ、クラウスくん。ユリカを行かせた自分が言うべきではないと思うけど、どうかユリカをよろしく頼むよ」


 その時、唐突にスタールが語り掛けてきた。その顔は慈愛に満ちたもので、家族を心配する親の顔そのものだった。彼はそのままクラウスに語り続けた。


「私はハルトブルク家の当主で、この国の宰相で、それらの仕事に専念してきた。だからユリカに家族らしいことがしてやれたかと言えば、正直自信がない。せめてあの子が自由に、好きな生き方ができるようにしてやろうと思っていた。だから」


 スタールの瞳が真っ直ぐにクラウスに向けられた。その瞳には、絶対の信頼が込められていた。


「君をユリカのところに送ること。それが今、私がユリカのためにしてやれることだ」


 スタールの手がクラウスの手に伸びる。スタールはそのまま彼の手を握った。


「一人ではだめでも、君たち二人なら大丈夫。絶対、帰ってきてくれると信じているよ」


 その言葉を真っ直ぐに受け止めて、クラウスはスタールを見つめ返した。スタールから送られる絶対の信頼。それに感謝したクラウスは、スタールの手を握り返した。


「はい。絶対帰ってきます。ユリカを絶対連れて帰ってきます。待っていてください」


 信頼には答えを。願いには約束を。ユリカを必ず連れて帰る。その言葉にスタールは何も言わず、笑いながら頷くのだった。


 その時、馬車が停車した。どうやら目的地に着いたらしい。


「クラウスくん。これを」


 そう言ってスタールがあるものを取り出した。何かのはこのようだった。


「閣下、これは?」


「これをユリカに渡してくれ。きっとあの子が必要とするだろう」


 両手で抱えるくらいの小さな箱だった。中に何が入ってるかわからないが、きっと大事なものなのだろう。クラウスはその箱を受け取った。


「わかりました。必ずユリカに渡してきます」


 そう語るクラウスの顔を、スタールは満足そうに見つめた。


 その時、馬車が停車するのがわかった。どうやら目的地に着いたようだった。クラウスはすぐにドアを開けて馬車から飛び出した。その刹那、彼はスタールに振り向いた。


「行ってきます! 待っていてください!」


「ああ。のんびりと屋敷で待っているよ」


 そんなことを呟きながら手を振るスタール。そのスタールの想いを背に受けて走り出すクラウス。そんな彼の姿を見送って、スタールは安心したように笑うのだった。



 辺りには何もなく、人間の営みも都市の光も全く見えない。良く言えば牧歌的な平原。そこに一本の線路があり、そこを列車が猛スピードで走っていた。


 それはグラーセン軍の軍用列車で、補給物資を届けるために運行されていた。列車が走る線路は、前線に向かって伸びる道であり、戦場と繋がるための鉄路であった。


 その列車の一室にユリカがいた。いつものドレス姿ではなく、乗馬用の衣服を着て座席に座っていた。彼女はそのまま外に視線を向けていた。


 外には平原以外に何もなく、線路の軋む音だけが聞こえてきた。


 ユリカは一人静かだった。そうしていないと、気持ちが乱れそうだったから。


 ユリカはずっと、クラウスのことを考えていた。あの愛想のない顔を思い出しながら、溜息を吐いた。


 申し訳ないと思っていた。彼に何も言わず、黙って置いて行ったこと。一人で作戦に向かったこと。きっと彼は怒っているだろうと思った。


 だけど、そうするべきだと思ってもいた。自分の夢にこれ以上彼を巻き込むわけにはいかない。自分の夢に付き合わせて、彼を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。


 アンネルで出会った時、最初に手を差し出したのはユリカで、彼の手を引いたのも彼女だった。


 それからはずっと二人一緒だった。それは彼女の夢のために走り続けた二人の旅であり、共に駆け巡った冒険だった。


 だけど、その冒険の中で危険な目に遭ったこともあるし、命の危険だってあった。


 そして今度の任務は、それこそ死ぬことになってもおかしくないものだった。


 その任務にクラウスを参加させることを考えた時、ユリカはどうしても彼を参加させることができなかった。


 彼この作戦に参加させるのが怖かった。彼が死ぬかもしれないと思うと、それだけで頭が真っ白になった。


 変な話だと思う。自分が死ぬ覚悟はできているのに、誰かが死ぬことには耐えられない。自分の夢のために誰かが死ぬことが、彼女には苦しかった。


 だけど、もし彼にこの作戦のことを話せば、彼は絶対付いて来ると言い出す。彼はそんな人間だとユリカは知っている。


 彼にこれ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない。だから彼女は何も言わずに作戦に向かったのだ。


 それに何より、彼の顔を見てしまえば、きっと彼女の中の決心が鈍るかもしれなかった。


 戦場で多くの人間が戦死した。同じ夢を願った仲間の多くが死んだ。それなのに自分だけが安全な後方に残ることに、彼女は自分が許せなかった。


 今度こそ自分も義務を果たす。その決意をもってこの列車に乗ったのだ。


 だけど、もしクラウスの顔を見てしまえば、きっと彼女の決意も揺らぐ。それがわかっているから、彼女は何も言わずに彼を置いて行ったのだ。


 そうして今、彼女は列車に揺らされながら戦場に向かっていた。


 列車の中で一人きり。そういえば任務に一人で向かうのは久しぶりだとユリカは思い出した。


 クラウスと会ってからは、いつも二人で任務に向かっていた。現場では手伝ってくれる仲間はいたが、戦友と呼べるのはクラウスだけだった。


 そんな彼を置いて行ってしまったのだ。そのことを彼女は申し訳ないと考えていた。


 だけど仕方ないのだ。こうするのが一番なのだと、彼女は無理やり自分を納得させようとしていた。


 そうしている自分がいることに気付いて、彼女は自分のことを心底からバカバカしく思った。


 本当に、何もかもがバカな女だと、自分のことが嫌になった。


 もう何度目かわからない溜息を吐いた。その時、列車が速度を落とす気配を感じた。


 しばらくして、列車は軍用駅に入った。ここで列車の燃料などの補給することになっていた。


 停車してから少しして、ユリカの個室に兵士が入ってきた。


「失礼します。ただいま補給のために停車をしております。それと参謀本部から緊急の連絡があり、この列車に重要物資が送られてくるとのことです。そのため、予定より停車時間が長くなります」


「そうですか……わかりました」


 重要物資という言葉に首を傾げるユリカ。何かおかしいとは思ったが、追及する気にはなれなかった。そういうこともあるだろうとぼんやり考えた後、ユリカは目を閉じた。


 出発まで時間が開いたのだ。今のうちに休息を取ることにした。


 そうしているうちに、彼女の思考は静かな夜に溶け込んでいった。


 そう言えばと思い出す。この戦争が終わったらどうしようかと、そんなことを考えていたのを。


 このまま参謀本部に残るのもいいし、除隊して別の道に行くのも悪くない。


 ただ彼女にはひとつ、やりたいことがあった。それは世界を旅することだった。


 たとえばこの大陸の西。海を越えた先にあるというフィラディエ合衆国。かつてローグ王国の植民地で、百年前に独立した国。新興国家だけど、近年大きく発展しているという。いずれ列強と肩を並べるかもしれない相手だ。旅行がてら、その目で見てみたかった。


 はるか東の果て。極東にある島国・ジンムも気になっていた。スタールが以前見せてくれたジンムの絵画・ウキヨエを見た時、その色鮮やかな絵が目に焼き付いて離れなかった。


 国を挙げて近代化を推進しているらしく、驚異的な速さで発展を遂げているという。そんなジンムに行って見たかった。


 それに何より、キモノと呼ばれるあちらの衣服にユリカは心奪われていた。ウキヨエで見たキモノはとても綺麗で、こちらにはないデザインだったのを覚えている。


 いつかはジンムを旅して、キモノを着てみたいと思っていた。


 それに大陸の南にあるサヴィア王国も、たくさんの芸術作品があるし、美味しい食べ物がたくさんある。それを食べに行きたかった。


 まだ世界には見るべきもの、知るべきものはたくさんある。それをこの目で見に世界を旅したい。その光景を想像して、ユリカは微笑んでいた。


 ただ、その光景を想像していてユリカはおかしなことに気付いた。


 フィラディエやジンムを旅していると、何故かユリカの隣にはクラウスが立っていた。当たり前のように彼はユリカの横に並んで、彼女の旅について回っていた。


 何よりおかしいのは、その光景にユリカが何も疑問に思ってなかったことだった。


 そのことに気付いたユリカは呆れて笑った。自分の旅に彼が付いて来ることが、いつの間にか自然なことになっている。おかしな話だと思った。


 だけど、一緒に旅する自分とクラウス。そんな二人の光景が、ユリカはとても心地よく感じるのだった。


「……ユリカ」


 クラウスが自分を呼んでいる。何か怒っているような顔だった。


「……………ユリカ!」


 また自分の名前を叫んでいる。一体何を怒っているのか、クラウスは怒鳴り声をあげていた。


「ユリカ!」


 その鋭い叫び声にユリカが目を覚ました。


 目をパチパチさせて、周りを見た。そこはさっきまでいた列車の個室。


 その個室のドアを開けて、息を切らせながらクラウスがそこに立っていた。



「……え?」



 そんな間抜けな声を彼女は上げていた。目の前で起きている状況がすぐに理解できていなかった。


 呆然とするユリカ。そんな彼女を睨むように見つめるクラウス。その彼の後ろから、先ほどの兵士が姿を見せた。


「大尉。おやすみのところ申し訳ありません。こちらの……クラウス少尉が大尉に用件があると言っておりまして」


「少尉?」


 何故クラウスが少尉と呼ばれているのか、ますます混乱するユリカ。するとクラウスが胸元から一枚の紙切れを取り出した。


「自分はシャルンスト・フォン・クラウス少尉です。正式な身分ではありませんが、参謀本部のクラビッツ少将より少尉として任官されました。自分は少将より、ユリカ大尉に届け物を命じられてここに来ました」


 クラウスが目の前に紙切れを差し出した。確かにそこにはクラウスを少尉とするクラビッツの覚書があった。


 事態を把握したユリカは落ち着きを取り戻し、兵士に目線を向けた。


「失礼、大丈夫です。彼は私のよく知る人物です。すいませんが、彼と二人だけにしていただけますか?」


「……了解しました」


 ユリカの言葉を受けて、兵士が立ち去っていく。後に残されたのはクラウスとユリカの二人だけだった。


 少しだけ沈黙が流れた。その沈黙を破ったのはユリカだった。


「どうして、ここに?」


「さっきも言っただろう。少将に命じられて、君に届け物をするように言われたんだ」


 端的に答えるクラウス。だけど、そういうことではないとユリカが首を振る。


「そうじゃないわ。手紙にも書いたでしょう? この作戦は危険だから、あなたを連れて行けないって」


「じゃあ逆に訊く。どうして連れて行けないんだ?」


 まるで怒るように語り掛けるクラウス。それに対してユリカは静かに答える。


「言ったでしょう。これ以上私の夢に、あなたを巻き込むことは出来ない。私の夢のために、あなたを危険な目に遭わせることは出来ないわ」


 ユリカは顔を伏せてしまった。これ以上彼の顔を見れないのか、辛そうな顔を隠すように下を向いてしまった。


「お願い。このまま降りて、帰ってちょうだい。あなただけじゃない。私のためにも、お願い」


 これ以上彼を見てしまえば、決心が鈍るかもしれない。だから彼には帰ってほしかった。


 本当は彼と一緒にいたいという気持ちもあった。だけど、それを抑えつけて、彼女は自分の夢に責任を果たすために、彼から離れようとしていた。


 そんな彼女の姿を見つめて、クラウスが一回息を吐いた。そして、怒るように口を開いた。


「いやだ」


 まるで子供が勉強を嫌がるような言い方だった。それがあまりにもあんまりすぎて、思わずユリカは呆けてしまった。そんな彼女にクラウスはもう一度言った。


「帰るなんて、いやだからな」


 クラウスの顔を見て、その迫力を前にユリカは困り果てた。


「あの時、言っただろう」


 困って何も言えないユリカにクラウスはさらに続ける。自分の中にあるものを全て吐き出すかのように。全てをぶつけるかのように。


「ジョルジュの事件の夜。君に言ったじゃないか。君が私を嫌いになっても、絶対君のところに行くって」


 参謀本部でジョルジュが事件を起こした夜。クラウスがユリカに言った言葉だった。自分を見捨てるように言い出したユリカに、クラウスが怒って言い放った言葉だった。


「君が私を嫌いだろうと心配だろうと、そんなことは知らない。私が君のところに行きたいからここに来たんだ」


 そう言ってクラウスは一歩前に出る。とても遠かった彼女が、こうして目の前にいる。本当は彼女にあ会ったら言いたいことがたくさんあった。怒りたかったし叱りたかった。だけど、こうして目の前にすると、そんなことはどうでもよくなった。


 彼は自分の中に最後に残された想いを言葉にして、彼女に届けた。


「今、君が私を嫌いになっても構わない。それでもいい。だけど、君のそばにいたい。それだけは我慢できないんだ」


 クラウスは政治家や役者ではない。スタールのように心を打つ演説はできない。ユリカのように心動かす言葉を使うことは出来ない。


 今彼が語る言葉なんて、美しさも麗しさもない。子供みたいに言いたいことを言うだけの、飾りっ気のない言葉だ。


 でも、それでいいのだ。彼が言葉を届けたいのは百万の聴衆でも、議会に集まる政治家でもない。


 目の前にいるたった一人の少女だから。


 その言葉に込められたのは彼の想いであり、偽ることのない真実の言葉であり、何より彼が本当に伝えたい言葉だった。


 その想いを受け止めて、ユリカは戸惑っていた。どうしていいのかわからなかった。


 彼の言葉はありがたかった。だけど、彼を巻き込みたくないのも本当だった。彼女は力を振り絞ってクラウスに答えた。


「でも、私の夢に巻き込んでしまったのよ。これ以上私の夢に付き合わせてしまったら、私どうしたらいいの?」


 自分の夢のためにクラウスの手を引っ張った。そうしてこれまで自分に付き合わせてしまった。


 だけど、その代わりに自分は何をしてやれたのか。彼に何か返しただろうか。


 そう思った時、彼をこれ以上付き合わせることが申し訳なく思った。だから彼から離れようと、ユリカは黙って出て行ったのだ。


 もう彼を付き合わせたくなかったから。


 そのユリカの言葉を受け止めて、クラウスが静かに口を開いた。


「言っておくが、君は勘違いをしているぞ」


「……勘違い?」


 何のことかと怪訝な顔をするユリカ。その時、クラウスが彼女に言い放った。


「私は君の夢に付き合わされたんじゃない。君の夢を一緒に追いかけているんだ」


「……え?」


 クラウスの言葉が意外だったのか、ユリカが驚いた顔になった。クラウスはさらに続けた。


「君の夢は、もう私の夢になっているんだ。君の夢を、私も見てみたいんだよ」


 確かに最初は彼女から手を引っ張られた。彼女の夢のために一緒に来てほしいと言われた。


 それがいつの間にか、クラウスが彼女の夢を追いかけていた。共に同じ夢に向かって、一緒に歩いてきた。


「君に引っ張られただけじゃない。私が君を追いかけて、ここまで来たんだ」


 いつも自分の前を走っていた少女。夢を目指す彼女の姿がクラウスは眩しかった。そんな彼女の夢が見たくて、クラウスは彼女を追いかけてきた。


「今さら私を置いて行くなんて、ひどいことをしないでくれ。ほら」


 そう言ってクラウスが右手を差し出す。その右手をユリカはまじまじと見つめて、それからゆっくりと握った。そのユリカの手を、クラウスが力強く引っ張り上げた。


「今度は私が引っ張っていくからな」


 その時、ユリカが顔を上げた。そこには不器用に微笑むクラウスの顔があった。


 とても微笑みとは言えない、ひきつった顔だった。きっと彼なりの笑顔に違いない。


「……ふふ」


 そんな顔を見て、ユリカが初めて笑った。


「あっはっはっは!」


 今度は大きく口を開けて、お腹を抱えて笑い出した。その姿にクラウスは驚きを隠さなかった。


「お、おいユリカ?」


「ごめんなさい。なんだかバカバカしくなって」


 色々難しいことを考えて、彼を巻き込みたくないとか色々言っていたけど、彼の顔を見ていると、そんな考えは全て吹き飛んだ。


 彼の顔を見て気付いた。結局、彼と一緒にいたいと思う自分がいることに。


 それに気づいた時、彼女の中にもう迷いはなかった。今度は彼女がクラウスの手を握り返した。


「大丈夫? まだ私について来られるのかしら?」


 そう言って、彼女は今までで一番かっこよく笑って見せた。


 その言葉を受けて、クラウスも笑った。この瞬間、この時が楽しくて仕方ないとばかりに。


「世界の果てまでだって、追いかけてやるさ」


 お互いの手を強く握り合う二人。


 まだ夢は続く。二人の旅は続く。ここから二人の夢が、再び走り出そうとしていた。


「失礼します!」


 その時、先ほどの兵士がやって来た。


「只今補給が終わりました。このまま出発できますが、クラウス少尉はいかがしますか?」


 そう語りかける兵士にユリカが答えた。


「わかりました。クラウス少尉はこれより私と行動を共にしてもらいます。このまま乗車してもらいますので、そのようにお伝えください」


 これは大尉としてのユリカの言葉だった。その命令を受け取って、兵士は敬礼を返した。


「了解しました。何かありましたらお呼びください。それでは、失礼します」


 兵士が立ち去った後、ユリカがクラウスに向き直った。


「それではクラウス少尉。これより私の配下に加わり、共に作戦に従事してもらいます。いいですね?」


 大尉として威厳を持って語り掛けるユリカ。その彼女にクラウスも敬礼で返した。


「はっ! クラウス少尉。微力を尽くさせていただきます!」


 そのやり取りを終えて、二人とも笑い出した。やっぱりこんな軽口を叩くのが、二人にとっ一番楽しいのだ。


 列車が汽笛を鳴らした。二人の冒険の始まりを告げるかのように。



「私たちが行うのは、敵補給線の破壊工作になるわ」


 走り続ける列車の中、ユリカは地図を広げてクラウスに見せた。それは戦場となっているアンネル領の地図で、ユリカはその中に記されている、とある都市を指差した。


「私たちが向かうのはここ、サンブールに程近い都市・ヴィオルよ」


 サンブールの北に位置するヴィオル。その都市を見てクラウスは首を傾げる。クラウスの記憶が正しければ、ヴィオルはそれほど栄えていない小都市であり、戦争に大きな影響をもたらすような都市ではないはずだ。


「ユリカ。ヴィオルはあまり重要な都市ではないと思うが、どうしてここが?」


「そうね。ヴィオル自体はそれほど重要ではないわ。本当の目的はこっちよ」


 そう言ってユリカは指を動かす。彼女の人差し指は、ヴィオルのすぐ横にある橋に移った。


「ヴィオルのすぐ横にある橋・アヴェイロ橋。この橋はサンブールにいるアンネル軍に繋がる重要な補給線になっているの。見て」


 そう言ってユリカは地図の上で人差し指を走らせた。アヴェイロ橋から伸びる線路は、北にあるピピータ港に繋がっていた。また首都マールなどの都市とも繋がっており、それらの都市からサンブールに向かう線路は、必ずヴィオルとアヴェイロ橋を通るようになっていた。


 それを見てクラウスは納得した。このヴィオルがアンネル軍にとって重要な都市になっていることを。


「なるほど。ヴィオルとアヴェイロ橋。確かに補給のために重要な都市になっている。ここを攻略するということか?」


 クラウスの一言にユリカがニンマリと笑みを浮かべる。


「言ったでしょう? 私たちの目的は補給線の破壊工作だって」


 そう言ってユリカはペンを取り出した。彼女はそのペンで、アヴェイロ橋にバツを書き込んだ。


「私たちの任務は、このアヴェイロ橋を爆破することよ」


「……は?」


 思わず間抜けな声を上げるクラウス。ユリカの一言が信じられない様子だった。


「ちょっと待ってくれ。私たちって、君と私だけでか?」


「そ。私たち二人だけでよ」


 そんな気軽な雰囲気で返してくるユリカ。それとは裏腹にクラウスは肩が重くなるのを感じた。


「待ってくれ。さすがに危ないだろう。グラーセン軍の支援はないのか?」


「残念だけど、それも難しいわ」


 そう言って肩をすくむユリカ。


「そもそもこの作戦は、戦争が始まる前から検討されていたの。このアヴェイロ橋を攻略することで、敵補給線を遮断し、アンネル軍に圧力を加えるために。だけど作戦実行は見送られたわ。理由として、戦争に勝つために必ずしもヴィオルの攻略が必要ではないこと。またヴィオル攻略のために戦力を割くより、前線に戦力を投入するべきと考えて、作戦は中止されたの」


 確かにヴィオル攻略のために戦力を投入しようとすれば、前線に向かわせる戦力から割かねばならなくなる。軍の思惑にクラウスも理解を示した。


「それに元々は海軍がピピータ港を海上封鎖するはずだったから、それを見込んでヴィオルの攻略は見送られたんだと思うわ」


 ユリカの説明にクラウスが苦い顔になった。ピピータ港の封鎖に成功していれば、この厳しい状況もなかったはずだ。


 かといって海軍を責めるわけにもいかない。軍艦ゲトリクスを相手に全滅を免れただけでも幸運なのだから。


「それに軍による攻略が無理なら、工作員による橋の爆破も検討されていたのよ」


「え? そうなのか?」


「うん。作戦の概略までは出来ていたんだけど、さすがに少人数の潜入作戦は成功率が低いってことで却下されたの。とても危険だし、身の安全だってわからないから」


 その作戦がどれほど危険なものか、言わなくてもわかっていた。少人数で適地に潜入し、敵の重要施設を破壊するのだ。命の危険のある任務だった。


 そこまで考えて、ユリカがどうして自分を置いて行ったのか、クラウスにも理解できた。あまりに危険な任務に、自分を置いて行くと思うのも無理はなかった。


 そんな彼の心情を察したのか、ユリカが笑いながら語りかけてきた。


「ねえ? もし立場が逆だったら、きっとあなたも私と同じことをしたんじゃないかしら?」


 悪戯っぽく笑うユリカ。彼女の言うとおり、自分がユリカだったなら、クラウスも同じように相手を置いて行っただろう。


 しかしそこまで考えたところで、それは相手も同じだろうと思った。彼はそれをユリカに伝えた。


「それは君も同じだろう。置いて行かれても、君は追いかけてきたんじゃないか?」


 そのクラウスの問いかけにユリカがニヤリと笑う。


「あなたも私のこと、少しはわかってきたようね」


 それに対してクラウスも軽口を返した。


「どれだけ一緒にいたと思ってるんだ?」


 その返しが気に入ったのか、ユリカはニンマリと笑うのだった。それから彼女はもう一度地図に目を向けた。


「私たちがこれから向かうのは、このアルデュイナの森よ。列車を降りて、そのままこの森を通ってヴィオルまで向かうわ。予定では明日の夜にはヴィオルに到着するはずよ。ヴィオルにはジョミニ商会の人間がいるから、その人から橋に使う爆薬を受け取る手はずになっているわ」


「そうか……シチョフさんの部下がそこに」


 武器商人・シチョフの部下がすでにアンネル各地でグラーセンに協力しているという。


 シチョフの協力を得られたことがどれほど幸運だったか、つくづく思い知るクラウスだった。


 彼はそれから、もう一度地図に目を向ける。彼はアルデュイナの森を見た。


 アルデュイナはアンネル北部に広がる森林地帯で、人の手の入っていない自然の森が広がっていた。確かにこの森を通れば、敵に見つかることもなく、ヴィオルまで行けるはずだ。


「……ん?」


 その進行ルートを見て、クラウスが何かに気付いたように声を上げた。


「どうしたの?」


「いや……今から私たちが通るルートって、昔皇帝戦争で、ゲトリクス皇帝がグラーセンに進軍する時に使ったルートとほぼ同じだと思ってな」


 クラウスの言葉を受けて、ユリカがも地図を見た。


 今からユリカが向かう道。それはかつての皇帝戦争で、ゲトリクス皇帝率いるアンネル軍が、グラーセンに侵攻する際に通ったルートだった。


 そのことに気付いて、クラウスが苦笑いを浮かべた。


「グラーセンが攻められた時に使われた道を、今度は私たちが使うことになるなんて、変な気分だな」


 歴史家もこんなことが起きるとは、想像もできないだろう。クラウスも不思議な気持ちだった。


「……ふふ」


 そのクラウスの話を聞いていたユリカが、面白そうに笑い出した。


「それもいいわね。皇帝陛下が親征に使われた道。ぜひ使わせてもらいましょう」


 その時のユリカは、まるで悪戯を考える子供のように楽しそうだった。そして、それこそがユリカの本当の笑顔だった。


 ここ最近は体調不良などでその笑顔を見ることもなかったが、久しぶりにその笑みを目にできて、クラウスは密かに嬉しく思った。さすがに本人には言えないが。


 こんな軽口を交わすのは久しぶりだと思った。


 二人は改めて思う。やっぱり自分たちは、こんな軽口を言い合うのが一番なのだと。


 平凡な日常でも、危機の中にあって、どんな時も自分たちは軽口を交わして、笑いながら冒険をするのが似合っているのだと。


 クラウスとユリカ。総勢二名による敵領土侵攻。


 これほど胸躍る冒険を前に、二人は楽しそうに笑うのだった。


 窓から見える地平線。その向こうから、太陽の気配が見え隠れしていた。

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