サクラ・ドラゴン

 酩酊の丘。

 太陽のない一面の空には赤紫が水彩めいてにじみ、薄煙の筋雲が幾条も地平線へと流れている。

 地上に整然と並ぶ白桜の森。幾何学が歪んで、空と大地が波打っている。

 白い森の中央にいっそうの太く黒い幹のねじくれた大桜。

 薄桃の色の嵩が樹上でまるで爆炎の如く膨らんで縁で枝垂れる。

 落雷音。

 と、その巨大な桜の木がほどけた。

 ほどけた輪郭が翼を広げたドラゴンのシルエットになる。

 濃緑の葉の冠を載せた頭から尾に向かって、身体に隙間なく白桃色のきめ細やかな鱗が並ぶ。鱗は全て桜の花びら。鱗の隙間から黒い肌がのぞき、それはまるで桃色に黒い格子縞がか細く走るかの様。

 裂けた口の上にある切れ長の眼も桃色。

 ペールピンク・スティンガー。

 それがその巨大なドラゴンの名前。

 そして、その前に立つ一人の男。

 四十代の痩せたサラリーマン。第二ボタンまで外した薄青色のワイシャツに灰色のスラックス。頭に杉綾のネクタイを巻いている。

 黒いセルフレームの眼鏡が何処からともなくの光を反射。

 その片手に掴んでいるのはアンプ内蔵の赤いエレキギター。

 息は濃くアルコールの香がした。

 生前の姿のままで男は立っていた。

 男は確かに死んだ。

 会社の窓際で永くすごしてきた男は、花見の席取りで五日間良席をキープし続けた後、宴で一気飲みを強要され、救急車を待たずに死んだのだ。

「人生はクソゲーだ」

 死んで因縁の近い世界へ転生したのか、この桜の園へ辿りついた。

 ここは生前最期の景色に似ている。似ていないのは空の色と騒がしい人間がいない事。

 そして巨大なドラゴン。

 転生者が異世界に赴き、ドラゴンに会ったならば戦うのがさだめ。

 牛尾角善、四三歳。

 覚悟はしていた。

「男。お前は戦士か」

 ドラゴンは口を利いた。凛とした若者の声だ。

「戦士?」

「もののふか、と訊いているのだ」

「もののふ?」

「この世界は生と死の狭間の一瞬を迎えた真の武士(もののふ)のみが訪れる、永遠の世界である故に」

「このクソゲー世界がバイストンウェルだとでも言うのかい」

 男はギターのネックを掴んで正眼に構えた。

「立ち止まる者は桜に変わる」

「いきなりドラゴンと戦えとは無茶ぶりがすぎるクソゲーだが、死した身で二度目の死を迎える事に何の怯えがあろう」

 ギターを持ち直す。楽器を弾く姿勢。

 やはり、この使い方だ。

 角善はギターを甲高くかき鳴らし、桜の園の空気にスピーカーからの音楽を響かせた。赤紫の空まで震える。

 つま先立ち。

 ソロプレイ。

 オクターブを幾つも駆けあがる。

 それは宴会芸としてしか弾けなくなった者の会心の衝撃波だった。

 地面ごと歪む。震える空気を浴びたドラゴンから桜の花びらが逆立ちて、散る。風に流れてこの丘に満ちた。

 角善はこの演奏だけで滝の様な汗をかいた。アルコールが抜ける。

「なかなかやるが……戯れ事だ」

 ペールピンク・スティンガーは身じろぎして大翼を広げた。

 轟、と風が唸り、周囲全ての木の花びらが一斉に散った。渦を巻く桜色。

 まるで雪崩の如き奔流が左右から叩きつけられる。

 全て、桜色の、凄まじき奔流。

 たかが花びら、とは笑えない怒涛だ。

 男は血を吐いた。

 足が宙に浮き、大気の中に埋め込まれる様。

 執念。口の血の味を一瞬だけ想う。

 角善は関節から血を噴く手でギターの弦にギターピックをかけた。

 サウンド。

 音楽が壁となり、身の周囲から桜の花びらを引きはがした。

 壁の如き白い花びらが爆散した。その真空に角善はいる。

 人間の腕に似たドラゴンの前足が男を掴もうとする。黒い手に桜貝の様な爪。

 黒い手は角善の像を掴もうとして宙を掻いた。

 ギターを持つ男の影は三重にぶれたのだ。爪が掻いた物はぶれた残像だった。

「祖先は忍びの道を究めたので」

 朧分身。角善の家系はは武士(もののふ)というよりは乱波(らっぱ)だった。

 サラリーマンは血を吐いた己は永くないと見て、歪んだ大地を蹴った。

 宙でさらに桜の花びらを足場として二歩、三歩と空中を蹴る。乱波ならでは身の軽さ。

 素早く十数歩、空中を歩んで、ドラゴンの頭の高さを上回った。

 緑葉の冠を見下ろし、ギターのネックを再び掴んで振りかぶる。

「クソゲー滅びるべし!」

 その頭頂へと硬く赤い楽器を振り下ろす。

 ドラゴンの頭を割り、額から血飛沫を噴かせる。

 もう一撃行くか。

 だが二撃目は大きく口を開いたあぎとが待ち受けた。

 木管楽器の様な吠え声。

 角善はギターを胸元に引きつけた。

 チェリーブロッサム・ブレス。

 口より吐き出される桜吹雪が圧倒的な質量を持って、男の正面へと吹きつける。

 巨大な滝の様な桜飛沫。

 角善はギターを弾いて真正面から待ち受けた。

 サウンド。音楽。

 ブレス。桜飛沫。

 凄まじい質量。

 音楽に受け止められた桜花の大河はサラリーマンの眼前、音圧で千千に砕けた。川の流れが分かれる様に白い支流を幾つも生み出す。

 ドラゴンの体容量を超える白桜の激流が吐き出される。

 ギターをかき鳴らす角善の身は攻撃の勢いと釣り合って宙に浮いた。

 更にブレスは膨大な流れとして吐き出される。

 角善はギターを甲高く鳴らして花の流れを散らす。

 持久戦の様相さえ呈していた激突だが、角善がまた血を吐いた一瞬で一気にバランスが崩れた。

 赤いエレキギターを弾く手は止まり、ドラゴンのブレスが一気に男の身体を上方へと押し流した。

 もはや牛尾角善ははかない身は奔流に翻弄され、宙に舞うはかない蝶の骸でしかなかった。

 喉を引き絞った事で桜花の奔流の尾は、赤紫の空の彼方へ吹き去った。その広い空から角善は小さく落ちてきて固い地面に叩きつけられた。

 かけたまま、眼鏡のレンズが割れていた。

「今まで数えきれない転生者と戦ったが……久しくなかったぞ、このギリギリさは」

 呟くドラゴンの眼前で、地に伏したサラリーマンの死体が赤いギターと融けあう様に変わっていく。

 芽が生えた。根を張る。黒く細い木が太く、大きくなっていく。

 枝分かれして芽吹いていく。

 葉と花。

 彼はこのねじくれた大地に整然と並ぶ、桜の木の新しい一本になった。

 いつのまにか、花を散らして裸になっていた丘の数えきれない桜は全て白桜色が復活している。

 緑の葉と白い桜。桜花満開。

 桜の木の下には死体が埋まっている。この丘では、桜とは燃え尽きた転生者の生そのものを意味した。この無数の桜は無数の死体、戦いの決着だ。。

 ドラゴンは眼を閉じた。

 割れた額から血と傷が消えた。無数の白桜色の鱗も復活する。

 ペールピンク・スティンガーは巨翼をたたんだ

 ドラゴンはいつかまた訪れるもののふに備えて、元の桜の木に戻る。一本の巨木に。

 そして眠る。

 次に眼が醒めるのは三時間後か、二億年後か。

 ここには戦いしかない。

 いつかはこのドラゴンを倒し、異世界の冒険に第一歩を印す、勇者と呼ばれる者が現れるまで。その者が自分に勝つまで、この酩酊の丘で試金石としての門番であり続けるのだ。

 誰か、私を倒してくれ。

 ねじくれた丘に整然と生えた桜園。

 桜の木の下には死体が埋まっている。

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