第6話 満ちる月
少しだけ欠けた月が夜闇を切り裂く。
「遅い」
同じように森の静寂を引き裂いた声は不満に満ちていた。
「ったく、遅い、遅すぎる!一体、何してる!?あいつは」
声の主はよほど夜目が効くのか、月明かりのみで良いと考えているのか明かりをつけることもせず、森の木々の間から皓月を仰ぎ見た。
少年のつり目気味の瞳と長めに切りそろえられた髪は黒曜石色で、容貌と誂えたかのように同色の服装は夜闇を吸収し深く沈んでいた。年の頃は十四か十五ほど。子供っぽさの残る顔立ちと口調が目立つ。独り言じみた彼の言葉から察すると誰かを待っているようであったが、月は何事もなかったように彼の顔に光を当てるばかりである。虫の音一つ聞こえぬ森も待ち人が来ないことも、不満だと言わんばかりの表情で少年は辺りを見渡す。そして、不満のはけ口を見つける。
「おい、
「ああ、連絡した」
彼の言うことを予想していたかのように、閑音は即座に返答した。青年にしては高い、聞き取りやすい声が空気を張りつめさせる。伏しがちに地面を見る端整で美麗な顔立ちに月光が当たる。音も気配もなく青年は木に背中を預けて立っている。黒髪の少年が声をかけなければ、そこに"いる"ことさえ、誰も気が付かないほどに静かであった。森の隙間から漏れ流れる微弱な風が閑音の栗色の前髪や長い髪先をなでていく。
「今夜、月が天頂に昇るころ、神隠れの森との間の空地で待つ。と、伝えた」
「そういう曖昧な文を送るな!日時場所がはっきりとしてねえと、分かんねえだろう!!それと、五分前集合は世界の常識だ」
少年は粗暴な態度と口調とは裏腹に妙に生真面目に声を荒らげた。
「いや、お前、たまたま自分が早く来たからって、何を威張ってるんだ」
「それでも奴には十分過ぎる情報だろう。
閑音の呆れた声に続けるように、別の声が二人の会話に割って入ってきた。
「
閑音が立つ場所から清高を隔て、対角線上にあたる所に一人、男が立っていた。月光に縁取られた容姿から長身でほっそりとした二十代前半の青年であることが垣間見える。青みの強い灰色の長い髪をうなじできっちりとまとめ、紅銀細工のピアスが闇に映えている。木々の影が手伝って彼の表情までははっきりと伺い知れなかったが、彼の瞳は蒼く鋭く、目鼻筋がよく整った顔立ち美丈夫であることを、閑音は知っている。人形のように微動だにしない表情に見据えられた清高は涼水からすぐさま目を背けてしまった。
「くそう。早くしねえと、オレがつまらん。それに、この森……、変な空気が漂ってやがる」
まるで落ち着きを知らない犬のように唸った。
「神隠れの森という名は伊達じゃないからね。おそらく、土地固有の魔力が強すぎて、
閑音の言うことは飽くまで推測にすぎない。それほどまでに神隠れの森には謎が多い。彼が清高に述べた説明も、世にある文献と実際に森に近づいた上での感想でしかなかった。
(メア領王……北の賢王なら、文献にない詳細を知っているだろうけど)
好奇心に駆られる気持ちは腹の内にしまって、閑音は落ち着かない連れを見る。
「ここは森のはずれだから良いが、間違っても奥に行くなよ、清高。対策なしで入ったら、まともにはとても帰れないぞ」
「うぐぐ」
清高は閑音の説明を理解できないらしく、唸っていた。その時であった。
「すまん、遅れた」
空から声が落ちてきた。
「遅いっ。
音もなく現れた気配に三人は驚きもしなかった。無言で風読と呼ばれた者は、森の空き地を囲むように、ばらばらと立つ三人の中に加わった。
毒づく清高など気にもせず、風読は閑音と涼水を無言で見やると、お互いに静かに頷くだけだった。
「っけ、無視かよ」
清高だけが、騒がしく毒を吐いた。
森の上からまるで降ってきたようなその者の出で立ちは随分と奇妙なものだった。
地につくほどの丈の長い白装束で身を包み、顔は鳥をかたどった面に隠されている。長いくちばしを象った面はとても精巧な作りで、目を象った
閑音の住む国ともこの国とも共通点がないその出で立ちは、彼が異民族であることを容易く想像させた。
「とりあえず、全員揃ったな。まずは作戦のおさらいだ」
「それは伝令書で読んだ。さっさと場所を移そう。ここに長いは無用だ」
「涼水は黙ってろ。おさらいしねーとオレが忘れるんだ!」
場を仕切ろうとしたがる清高は、明らかにうんざりとした面もちの涼水につばを吐くように怒った。涼水がため息をついて目をそらしたのを閑音は目敏く見た。
清高がこうなのは今に始まった事ではないのを良く知っている涼水も閑音も慣れた様子でかわす。自己中心的で落ち着きのない、ついでに言えばやや残念な頭の構造の清高にいちいち言葉を返していてはキリがないのだ。清高のわがままの火の粉が自分に降りかからないようにするには二通りしかない。騒ぎの当人が騒ぎ疲れるまで待つか、
「混乱に紛れて、“神宿しの者”を捕らえる。抵抗する者はあらゆる手段を講じても排除する。以上」
「風読っ!長文を一言にまとめるな!」
騒ぎの"元"を絶つ、かである。
後者は前者に比べ待つ必要が無いが、実行すると盛大な抵抗に遭う。
「長文? おい、清高。十行程度でまとめてあったような気がしたが」
数日前に彼らに渡された伝令書は、至って簡潔だったのを思い出す。一、二度、目を通せば忘れるはずもない。特に悪気もなく純粋な疑問として、首をひねる閑音に清高は眉間の皺を深くさせていった。
「……」
「まさか、お前、また文書を読む前に捨てたのか?」
「う」
ぎくりと目に見えて身体が上下に揺れ、そっぽを向く。絵本さえも読むのが面倒だと言う清高らしいと言えばらしい事態である。ここへの"約束"は、同行していた涼水に聞いたが、それ以上は寡黙な彼からは聞きだせなかったのだと閑音は簡単に推測を立てて行く。どうやら知らないのを乗り切るために誰かの口からうまく聞き出すつもりでいたのであろう。ある意味成功したのだが、答えた相手が気に入らなかったらしく、更に地雷を自ら踏んでしまったようだ。
「図星か……」
(涼水がいなかったら、どうする気だったんだ?)
呆れを通り越すと言葉も見つからない。閑音は肩にかかった絹髪を後にはね除ける。
「いちおう、封は開けた」
「話しにならないな」
最後の抵抗を試みるも虚しく、風読に一掃されてしまった。わざとらしく面の下で大きく嘆息をしたのがはっきりと聞こえる。
風読は長い裾をひるがえし、森へと足を向けた。彼に続くように、涼水が木の幹から背中を離した。無言であるのは風読と同意見か、またはそれすらも興味がないのかもしれない。
「今回はお前の負けだな」
唯一残った閑音は仏頂面で二人を睨む清高の頭を慰めるように軽く叩く。
閑音と同じ程にある小さめの頭が叩かれるままに揺れた。目にかかるほどの長い前髪と闇の所為で表情までは分からなかったが口を見事にへの字に曲げていることから相当のご立腹だろう。
「今度はちゃんと最後まで読んでから捨てろよ」
嘆息をつきながら簡単な助言をすると閑音も二人の後へと続いた。その三人の後ろ姿が森の闇に紛れていくのをしばし黙って見ていた清高は大きく息を吸う。
「くそーっ!風読と涼水のばっかやろーっ!今に見てろよーっ!」
急所を刺したのは閑音なのだが気が付いていないようだ。高圧的・威圧的態度で何かと腹が立つことの多い風読と涼水に矛先が向く。転んでもただでは立ち上がらない清高らしいが、今は負け犬の遠吠えに等しい。
静かな森にこだまする声を背中から三人は受け止める。そして、今三人の胸中は同じ気持ちで満ちていた。
(うるさい…)
怒気さえ混じる心の声と共に彼らは闇に消えて行った。
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