第4話 風を操る者
その日を境に、槇村は一ノ瀬と連絡を取り合うようになっていた。
時々女医の
話題はとにかく絶えない。今日の出来事から、医療に携わったきっかけ、親兄弟、そしてやっぱり大抵はギリシャ神話について槇村が一方的に詰問する。
おかげで、槇村のギリシャ神話の知識は、ここ数ヶ月で格段に増えた。
ティターン
事実は…、まだ聞き出せていない。
市ノ瀬が、海王ポセイドンだと言うのなら水を操る力は神の力だ。
だが、使い方次第で出血を止めたり、異物を吐き出させる事が出来たりするわけだ。
この力があればどんな手術も、輸血不要になる。
「すごい…」
槇村の
なぜ、そんな顔で笑うのだろう?
ただの記憶だと言った神世に、何があった?
その力は、記憶とともに使えるようになったのか?
――もっと知りたい…。
ただ市ノ瀬の静かな口調は、波のさざ波に混ざり槇村の追撃を狂わせる。
自分は、何を彼に求めているのだろう…?
市ノ瀬の前世を知ったところで、何をしたいのか…まではわからない。
ただ知りたい…というだけで、他人の過去に踏み込むのは褒められる行為ではないだろう。
それでも、果てしない時の向こうで、彼が何を感じて…、何を思い…、その瞳で誰を見つめていたのか…。
…知りたいのに、なぜだか怖くてたまらない。
自分から求める友人を超えた親友…。そんな感情、知らなかった。それほど市ノ瀬の存在は、もう、どうしようもないほどに大きくなっていた。
ザザァ… ザザァ…
槇村は珍しく夕暮れ前に仕事を切り上げ、いつもの波際の道を歩いていた。
『さざなみクリニック』に通いはじめた頃は、海岸をハマボッスの花が一帯を白く染めていた。
晩夏の今は、ハマナスが鮮やかな赤い花を咲かせている。バラ科に相応しく気品を漂わせ、浜辺の砂地と海の景色に良く映えていた。
海の美しさが市ノ瀬の静けさとかさなれば、考えるのはやはり彼との関係性。
仕事仲間や、友人と呼べる者とも違う。槇村自信が、もっとよく知りたいという欲求は、市ノ瀬以外には抱かない。
秘密とは暴きたいのが人の心情で、かと言って彼を
出会った出来事が衝撃で、すでにこの時、槇村の興味は患者の容体より、市ノ瀬の醸し出す妖艶さとミステリアスな所作に捕まったのだと思う。
捕まった…。槇村は、捕まったのだ。
だから、もっと強く捕まえていてほしいと思うのに、いつだって市ノ瀬はクールだ…。
真摯な市ノ瀬の診察は、医者は天職だと分かるし、冷たく感じる態度も照れ屋なだけで、芯底情に厚い事も知った。
そんな市ノ瀬が時折見せる陰りに、何を抱えているのかと腹立たしく感じてしまう。
――そんなに俺は頼りにならないのか?
ふと、自分の感情に陥ったためか、目の前に立った男に気づかず正面からぶつかってしまった。
「と…っ。すいません」
槇村はぶつかってしまった男の横をすりぬける。しかし男は槇村の腕を強くつかんだ。鋭い眼と、嫌悪な笑い。
「――――っ!」
つかまれた腕に激痛がはしる。
あきらかに人間離れした力に、歪めそうになる顔を強がりで睨み返した。
だが、見下した男の言葉に槇村の思考が一瞬停止する。
「
瞬間、つかまれた腕を、かなり強引に払いのけた。
狙いは…市ノ瀬か!!
ジリっと、男との距離をとる為に一歩下がる。
捕まったら最後…、そんな恐怖が
この男は、危険だ!
とにかく、市ノ瀬に知らせなくては…と、全力で逃げようと走りだし…。
ビュッ!と、何かが槇村の前髪の数本を切り落とした。
パラ…と舞った髪の先…。槇村の目前に、あたりの葉っぱを巻き込んで渦巻いているものがある。
かぜ…? 風が、壁になっている?!
強い風が槇村の前方を
風が大きな風船のように、槇村を閉じ込める。手を突き出そうものなら、バラバラにされるだろうと容易に想像できた。
男は
「ただの人間だな…」
カッとなったが持ち前の責任感で、ここで囚われるわけにはいかないと、とにかく必死でもがいてみる。
だが、ただの人間の槇村には、なすすべがない。
しかも風の壁は、もがくほど槇村の腕を取り、後ろへと両手をねじあげた。
「くぅ…っ」
両腕がひきつり、肩と腕に激痛が走る。
さらに、ヒュ!と、切りつけられたような痛みで腕を見ると、裂けた袖からじわりと血が滲み出していた。
「っ…」
どうしたら…いい?! いち…のせ!!
――その時、聞き慣れた男の声が槇村のすぐ後ろから聞こえた。
「こんな海のそばで、力を向けて来るとはな…。不利だと気付けないアホなのか、それとも
初めて見る
「海に、敬意を示せ…」
よく響く声でそう言うと、ひときわ大きな波が目前まで押し寄せ、槇村と市ノ瀬をのみこんだ。
バッシャ――ン!!
海水の冷たさを感じる前に、するりと腕が解放されている。槇村が濡れネズミで前を見ると、自分の背で隠すよう市ノ瀬と男とが対峙していた。
「まだ…、やるか?」
市ノ瀬の周りを海水が長い帯をつくり丸い円を描く。…と、急速に水の勢いだけが増した。
中心にいる市ノ瀬には水滴さえ感じない。
指一本動かさない彼を、ただ守るべく、驚くほど大きな水竜巻がおきた。
そこにいるのは…、まさに海を司る気高い海王。
「…
グレーの瞳を眇めた男は、自らの身体に風をまとわせ、そのままヒュン…という風音とともに消えていた。
風に巻き込まれたハマナスの赤い花が、もぎ取られたようにちぎれて海に落ちる。
闇色に染まった海に浮かぶ鮮やかな赤い花びら。中心の黄色のやく(おしべの花粉を入れるふくろ)は、まるで灯籠流しのように発光して見え、死者の魂を弔う海を、労っているようだった。
「…まき込んでしまって、悪かったな」
ずぶ濡れの槇村に向かって謝る市ノ瀬は、目を合わせようとしない。
あれ程波立っていた海が、嘘のように凪いている。
「アイツは、だれだ?」
「
その名は…、またしても、オリンポスの神の名前だった。
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