第3話 偽りの伝承

 ザザン! 

 一際ひときわ大きな波音が開け放した窓から聞こえた。


 その後も、ザザァ、ザザァと打ち寄せる波音が呼吸心拍監視ハートモニターのように一定のリズムで室内に響く。


 そのせいなのか…彼女が言った、『あなたでしたか…』という言葉が、槇村の耳に何度も、何度も木霊した。 

 しかし医療器具のような無機質なものでは決してなく、真綿で優しく包まれるような懐かしさを含んでいた。

  

 ふわり…と、潮風が市ノ瀬の着ていた白衣にはらむ。ゆるく裾を舞い上げ、柔らかい髪は風をもてあそぶようになびいた。


 病院で働いていれば、なんの代わり映えしない見慣れたはずの白衣が、なぜだかとても神聖しんせいなものに感じてならない。


 …市ノ瀬が、彼女に答えた。 


「……戦いの女神、アテナか?」


 はぁ――?!


 槇村は、頓狂とんきょうな声をあげるのをなんとか堪えた。

 槇村の知っている彼女の名は、星嶋ほしじま 菜々ななだ。

 ナナの聞き違いかと、大きく首を振りながらまじまじと二人を見比べる。


 ナナ…? あー、テナ? アテナ? 無理がある…。


 菜々は、槇村に意地悪く笑った。

 そして市ノ瀬には敬意を表する仕草で胸に手をあて、優雅に頭を下げ腰を折る。

 

「娘を助けてもらった。礼を言いいます。ふふ。現世では、私の方が年上のようですね…」


 菜々のいたずらっぽい微笑に、市ノ瀬は面倒を抱えてしまった…とでも言うような顔で、はぁ〜と、大袈裟に息を吐いた。

 槇村を横目で睨む視線は、見つかりたくなかったのに、あんたのせいだ…と訴えている。


 声にならない弁解を心で叫ぶ槇村だが、自分も市ノ瀬と再会したかった事実があるだけに、どうしてもしょぼくれた顔になってしまう。


 菜々は、槇村の態度には、たいして興味がないようで、昔を懐かしむよう窓からの景色を眺めていた。


 夜の闇に包まれた海は、時折月に反射して煌めいている。

 昔も今も、変わらず打ち寄せる波に理由など考えたことなどない。


 だが今は、なぜ波が押し寄せるのか…。

 誰の為に煌めくのか…。

 そんな事を考えてしまう。


 菜々は眠る娘の髪を撫でる。少しだけ眉を寄せた少女は、母のぬくもりに安心したように再び深い眠りに入った。


「…私は、物心ついたときからティターンの記憶を持って生活していました」


 静かに、ゆっくりと話す菜々の声は、不思議と温かなぬくもりがあった。


「でも…、ティターンの記憶は誰にも話していないんです。信じてもらえるとは思えなかったから…。でも、この同じ時代に再び一族の誰かに会う事ができたなら…と、夢見ていましたよ」

 

「なるほど。…今も昔も、戦いの女神は誰かの為に身を投じているんだな」


 思いのほか、市ノ瀬の声も優しい。

 眇めた色素の薄い目は、おそらく遠い昔に思いを馳せているのだろう。


「いつの時代も、いくさは弱いものを傷つける。…女、子供の叫びや涙を…私はあまりにたくさん見てきた。でも、命の砦として医療現場で戦っても、我が子を顧みれないでいる時点で、私は人を幸せになど出来ない女なんでしょう」


「それは違う。ゆがめられた神話などにしばられる必要はない…」


 市ノ瀬の穏やかであるが励ますような否定に、菜々アテナは意味ありげに笑い、深く頷づいた。


「……そう。あなたの伝承でんしょうも事実とは異なりますね。海王かいおう、ポセイドン」


「かい、おう――――?!」


 今度の槇村の裏返った声は、病院内に響きわたった。大声を出してしまった事に、あわてて自分の口を塞ぐもすでに遅い。


 アテナや、ポセイドンはギリシャ神話に出てくる登場人物だ。槇村とてそれくらいは分かる。

 全能神ぜんのうしんゼウス、冥界めいかいの王ハデス、海の王ポセイドン。

 映画や、物語だと大抵は悪者が冥界の王ハデスだ。ポセイドンは豪快ごうかいたくましく戦好き?

 アテナは…、オリンポスの戦でやりを持って戦う女神だったか?


 同僚の顔付きに戻った菜々アテナは、槇村の驚いた顔を「でっかい目だな…」と、カラカラと笑った。


 そうだ。この裏表のない性格から、職場でも菜々の人望はあつい。しかし、誰が彼女を神世かみよの女神だと思うだろう…。

 

 ギリシャ神話は、おとぎ話ではないのか? 


「あんたの方が、ギリシャ彫刻みたいだな」 


 驚きで動けない槇村に、市ノ瀬も笑う。


 確かに槇村は背が高く、外見は彫刻のようなはっきりとした目鼻立ち。しかし木偶でくぼう…と言うわけではないが責任感ばかりが強く、何をするにも空回りしてしまう。


 今だって、聞きたい事ばかりだ。


 ティターンとは、神々の一族なのか? 

 伝承がいつわりなら真実は? 


  しかし、市ノ瀬から「これ以上の詮索せんさくは不要…」と言われると、自分には関係ない事と言われている気がして、口から出かかった言葉を飲み込むしかない。


「わかった…」


 答えてしまった槇村は、ずくり…と酷く重いものを抱えたような感覚だった。










 

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