三 デザートは歯が溶けそうに甘い

 彼を表通りに面したテラス席に案内したウェイトレスが、デザートとコーヒーのお代わりを運んできた。

 白すぎる歯が眩しすぎて気づかなかったが、彼女の唇はピンク色だ。目立つ色ではない。うっすら、仄かに。殆どそれと分からない程度に化粧を纏っているらしい。

 白い歯とピンク色の唇を残してウェイトレスが去っていった後に残されたのは、フレッシュなコーヒーとしっとりとしたチョコレート色のケーキ。ティースプーンで上から押せば切り口から汁が滲み出てきそうなしっとり具合だった。小さな欠片を口に含んだだけで歯が溶けそうだ。ケーキに添えられたアイスクリームの方は甘さ控えめで交互に食べると丁度よい。

 ブラックコーヒーで口内を濯いで、彼は一息ついた。

 通りの向こう側、激しく行き交う人と車の間をぬって垣間見える彼岸の街灯の傍らに、男が立っていた。男は彼に見られていることに気付くと、素早く目を逸らした。

 彼は眼鏡を外し、目頭を押さえた。

 誰も彼もが刺客に見えて酒浸りになったのは遠い昔の話だ。

 女子供にも爆弾を括りつけて聖なる自爆戦士にしてしまうような連中だ。心の休まる時がない。

 チワワを散歩させているサンダル履きの女が通過していく。あの無害そうに見える小型犬が彼の命を奪うかもしれない。だが、二十五年間は、怯えおののき続けるには長すぎる時間だった。

 昨日、ホテルのバーで会った女は、三十そこそこに見えた。酒を奢らされて、二人ともしこたま酔っぱらって、二人きりになれる場所へ行こうと彼女の方から誘ってきた。

 彼の部屋まで行き、鍵をかけて、チェーンをかけ、中に誰もいないことを確かめ、彼女の着ている物を全て剥ぎ取った。あとは長い爪で目玉をほじくり出されるか、ストッキングで首を絞めるか、灰皿で頭を――全裸の女に実行可能な殺害方法をいく通り思いつけるか試していたところを、女に押し倒され、ベッドの上に転がった。

 下から見上げながら、皮膚のたるみ具合からして、彼女は四十前後であろうと彼は査定を修正した。女は若いに限ると思っているわけではないが、わざわざ金を払うのであれば、もう少し若い方がよいと彼は思った。

 そう、金を払う気満々だったし、実際そうしようと試みた。

 憤慨した彼女が感動的ですらある速さで彼が毟り取って放り投げた衣類をかき集め身に着け出て行く後ろ姿を呆然と見送りながら、刺客じゃなくとも怒り狂った女性に殴り倒されていたかもしれない可能性に彼は肝を冷やした。


 今日は本当にいいお天気ですね、とケーキとコーヒーを運んできた彼女は言った。


 彼のテーブルはシェードによって直射日光から守られていたが、彼女の立っている位置は、その庇護からぎりぎり外れていた。彼女は眩しそうに目を細めている。そうすると目尻に皺が寄るが、キメの細かい白い肌の輝きから、まだ二十代であろうと推察された。

 かつては、このぐらいの若い女性と関係を持つことは、驚くほど簡単だった。彼は新進気鋭の作家で、結婚していたが、そんなことを相手は気にしなかったし、彼の方はその時だけそれを考えないように努めればよかった。クリエイティブ・ライティング・コースの大学院生とか、読書好きの看護師、彼のインタビューはファッション雑誌にも掲載されたし、出版パーティーにやって来る有名人や業界人、選り取り見取りだった。

 とはいえ、チャンスが比較的多かったというだけで、それほど頻繁にその恩恵にあずかっていたわけではない。彼は妻を愛していた。少なくとも、長年連れ添ったパートナーとして。武装警官から二十四時間警護を受ける羽目に陥っても、彼と共に十年は耐えてくれた相棒だ。

 二人に子がなかったのは幸いだった。自分はともかく、親の因果で子まで残虐な方法で処刑されるかもしれない、そのような恐怖に怯えながら日々暮らすなど、想像もできないことだった。

 今となっては、最初の十年以内に暗殺されていればよかった、と思わないでもない。そうすれば彼は、間違いなくレジェンドとなっただろう。少なくとも、二十一世紀の間ぐらいは。文学史だけでなく、宗教的文脈や西と東の対立の観点からも語り継がれる歴史。

 だがそれは彼が望んでいたことではない。彼は自分のルーツと西洋を対立させる気などなかった。一方の古い考え方を少し改めさせ、他方の何事にも自分達の基準を用い、そこから逸脱するものを平気で批判する傲慢な姿勢を改めさせる、彼の意図したのはせいぜいそんなところだった。

 それなのに、下手すれば戦争が勃発するところだった。彼は彼の生まれ故郷の人々が信じるような悪魔ではないから、そのような事態は、いくら自作が売れて有名になろうとも、到底喜べない。

 長きにわたる逃亡生活の末に疲れ果てた妻に、内心で死を願われていると想像するのは辛いことだった。彼女は最悪の喧嘩をした時ですらそんなことは一言も口に出さなかったが、彼にはわかる。


 さっさと、始末されてしまえばよかったのに。


 あらゆる否定も空しく、目がそれを認めてしまっていた。

 失われた十年が、会えなくなった友が、家族が、普通の暮らしが、オペラを観る夕べが、バーで酔っぱらう夜が、レストランでロマンチックに食欲とそれ以外のものを満たす時間が。

 全部あなたのせい。あなたがあんな小説を書いたばっかりに、と彼女の目が何よりも雄弁に物語る。殺害予告を受けたのはあなたなのだから、あなたが死ねばいいのに、と。


 気持ちの良いお天気ですね、と彼女は言った。ラッシュさん。テラス席はいかがですか、と。


 断ってもよかったのだが、表の明るさのせいで薄く翳っている店内に比べて、眩しいぐらいの光に包まれたテラス席は、いかにも開放的に見えた。

 そうだな、そうしよう。と彼は言い、往来する人々との距離が近すぎるテラスのテーブルへと案内された。

 正午が近づくにつれ、店内もテラス席も人が増えてきた。アイスクリームで舌を休めながら、フォークにねっとりと絡みつく歯が溶けそうな甘いガトーショコラを平らげ、二杯目のコーヒーも八割方飲んでしまった。そろそろ店を出なければ、とスパークリング・ウォーターを口に含みながら彼は思うが、開放的なテラス席でシェードの影に守られ日光の直撃を受けている通りの人々の短い影を眺めていると、動く気になれなかった。

 通りの向こうから彼を見張っていた男はいつの間にか姿を消していた。


 いや、そもそも彼を見張ってなどいなかった。

 いや、見張っていた。


 誰も彼もが刺客に見えるパラノイアの季節はとうの昔に過ぎ去った。

 いや、実際に人が亡くなっているのだ。彼のように二十四時間警護で守られなかった自由の騎士達。

 そんなに意固地になって守るべき様なことだったのか、と血なまぐさい事件が実際に起きた後で、誰もが考えたに違いない。

 表現の自由とは、そんなたいそうな物なのか、と。

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