四 君はいくらかね、とラッシュ氏は尋ねた

 暴力行為による言論の抑圧は、許し難い蛮行である。だから死刑宣告を受けて命の危険にさらされても、そこでやめる訳にはいかなかった。既に世界中で彼の「問題作」の翻訳作業が進められていた。そしてその結果、作者の彼だけでなく、件の作品の出版にかかわった全員に死刑宣告がなされた。

 誰も引き返すことはできなくなっていた。

 こんなことになるとは、最初の死者が出るまでは、誰も思っていなかった。狂信者の暴走だと言うのは容易い。だが、果たしてそうなのだろうか。信仰する神を侮辱されたと腹を立てて報復行為に及ぶことが。この時代にそぐわないなどという理屈は、勝手にこの時代を担っている気になっている我々の都合であり、あちらには関係のないことだ。彼に神を冒涜する意思があったかどうかなど、彼等にはどうでもよいことなのだから。

 だが、彼等の神は、かつて彼の神でもあった。


 今でもそうだ。

 いや、そうではない。


 彼は十代で信仰を捨てた。

 信じる自由があるのなら、信じない自由もあるはずで、彼の家族、父親は、信仰心の篤い人間ではなかった。彼が神を信じなくなったのは旧宗主国の寄宿学校に入ってからだった。彼は若く、傲慢であった。

 だが、他者の信仰を馬鹿にしたり批判したりするつもりはなかった。それは信仰の対象が何であれ、同じであった。

 表向きは無神論者を気取っている彼も、そんなに簡単にこの世に神などいないと断定することはできなかった。いないことの証明は、いることの証明と同じぐらい困難で、本当のところはせいぜい、信じていると大っぴらに認めることをやめた、という程度のことだった。

 少なくとも、敬虔な信者からはほど遠いとはいえ、こんな目に遭ってもまだ完全には信仰を捨てきれない程度には、彼も神を必要としていた。

 とどのつまりは、自分は彼らの仲間だから、この程度の悪趣味な冗談は許されてしかるべきという甘えがあったことは否めない。だがそれは、死刑宣告と三人の翻訳者の死傷と二つの出版社の襲撃、更に彼の二十五年に渡る隠遁生活とそれに伴う二度の離婚に値するほどの罪だったのだろうか。

 彼に死刑宣告を下した宗教的指導者は、それを取り消すことなく亡くなった。そのため彼の死刑は、それが執行されるまで有効となった。その宗教的指導者の国の大統領が、後に国際的世論を鑑みて、彼に対する死刑宣告を国家としては支持しないことを表明したが、多くの信者は、それに耳を貸さなかった。

 後継の宗教的指導者は、死刑宣告は有効であると改めて宣言し、賞金を上乗せするスポンサーまで現れた。お陰で、二十五年が経過した現在も、ひところの勢いは失われたものの、彼の殺害予告が不定期的に出版社宛に届けられている。

 あの小説以降の彼は、何を書くにせよあの時の二の舞にならないように、配慮せざるを得なくなった。表向きは違うように振る舞っていても、実際はそうだ。彼の中で、言論や表現の自由は、彼を敵と見做す人々の思惑通り、消滅した。

 だが、この世に何の制限も感じずに自由に書ける者など果たしているだろうか。

 きっかけさえあればSNSでたちまち世界中に拡散されてしまうような現代において、それが例え純善たるフィクションであって、どこかの誰かから死刑宣告を受け実際に命を狙われることは万に一つもないとしても、何かしらのリミットは存在するはずだ。表現の自由などという元々ありもしない幻想のために、彼の小説の翻訳者達は、無残に喉首をかき切られて死んだのだ。

 刃物が首に押し当てられて、容赦のない力を込めて横に引かれる瞬間、一体どんな感じがするのかと、ひと頃の彼は頻繁に想像を巡らせたものだ。悪趣味極りない一種の自傷行為だが、仕方がない。彼には二十四時間の警護がついていたが、国家権力は、自らの命を顧みない者達に対しては結構無力だ。彼等は子供を戦士にすることさえ厭わないし、彼のように不敬な輩を抹殺することは徳を積む善行だと信じている。

 莫大な額の賞金もあった。

 体に爆弾を巻き付けた子供が、女が、犬が、彼を道連れにするべく狙っている。高額な賞金目当ての貧しい信者が彼に刃物を突き立てるかもしれない。飛行機が高層ビルに突っ込むとか、公共交通機関に爆弾が仕掛けられるとか――当然酒の量は増えるし、睡眠薬はどれだけ呑んでも効果が薄かった。


 サーモン。


 今日彼は、人通りの多い表通りに面したテラス席でサーモンを。いいお天気ですね、ラッシュさん。ウェイトレスのピンク色の引き締まった尻が。

 いや違う、ピンクの唇が。

 いや、サーモンだ。

 サーモンピンクのサーモン。溶けたバターの海に溺れる。

 たかだかフィクションを書いただけなのに。

 二十五年ぶりに、彼は一人でカフェのテラス席に座った。そろそろランチアワーで混み始める時間帯だ。

 ポストコロニアリズムとマジックリアリズム。

 帝国主義への懐古と批判、回帰と脱却、移民問題、被植民地問題……


 お食事はいかがでしたか、とウェイトレスは言った。


 様々な期待と不安を胸に旧宗主国に到着した移民はまず、水漏れがするじめじめする家に押し込められ、待機を命じられる。極めて劣悪な環境で、滞在が長期に渡れば深刻な健康被害も懸念される。移民の故郷である旧植民地は大概暖かい国であるから、夏が異常に短い新天地の寒さ、暗さ、物理的日照時間の少なさに彼等はまずやられる。

 地元の人々は移民に冷たい。自国民同士でさえも階級意識で分断されている彼等は、全般に旧植民地の人々に対する根強い差別意識を抱いている。特に下層階級の人々は、移民によって自分達の仕事が奪われると思っているし、実際そのような事例が発生している。

 移民への仕事はすぐには斡旋されないが、されたとしても低賃金の肉体労働だ。それでも自国にいるよりははるかにマシだと彼等は思う。雨漏りのせいで壁や天井に黴の生えた劣悪な生活環境で、彼等は夢を見る。国に置いてきた家族を呼び寄せ、より平和で、恵まれた環境で教育を子供達に受けさせ、自国では絶対に敵わない豊かな暮らしを手に入れる夢。

 だがそれは、ファンタジーだ。

 家族を呼び寄せるという願いは叶うかもしれないが、豊かな暮らし? Ha Ha Ha.

 程なく母親は街頭に立ち、物乞いをするようになる。幼子でもいれば尚よい。地下鉄への通路にシフト制で座れば、そこらのビジネスマンより良い稼ぎを得られるという噂だ。

 もっとも、そのような縄張りは地元のプロフェッショナルな物乞いが牛耳っているから、移民が入り込む余地はない。だから移民はできるだけ人通りの多い通りを選んで、乳児を胸に抱き、幼児の手を引いて、メッセージカードを手に、立つ。母親の腕の中で静か過ぎ・大人しすぎと評判の赤子は、商売の邪魔にならないように一服盛られているという噂だ。

 それ以外の選択肢としては、国の斡旋で安い労働力として買い叩かれ、社会保障制度をひっ迫させる寄生虫と呼ばれる道がある。

 移民の待遇の改善を。

 それは彼のあの問題作にも盛り込まれていたテーマだ。彼は自らの立場、影響力を利用して、メディアでもそれを熱心に訴えた。他の移民達は彼ほど恵まれていないから。彼なりのノブリスオブリージュだったのかもしれない。旧宗主国の寄宿学校を経て最高学府で学ぶことなどできない弱い立場の人々への。

 だがそれは彼の驕りだった。

 彼らは同胞であるはずの彼を、いとも簡単に排除した。これまでの彼の良い行いを、一瞬で忘れることにしたのだ彼らは。

 善い行いだなどと思っていたのは、彼だけだった。

 ねえ、二人きりになれる所に行かない? 昨晩ホテルのバーで一緒に酒を飲んだ女は、上目遣いでそう言った。

 一体何の話をしていたんだったか。胸の谷間を強調するドレスの上に薄い上着を羽織っていたが、太い腕がたくましくて、この腕なら運動不足気味の彼の背後からがっちりと首と頭を捕え、頸椎をへし折ることなど容易いように思えた。カクテルグラスを持つ節くれだった指と肉厚の掌――彼に馬乗りになって、両手で首を絞めることもできる。よく見ると、分厚いファンデーションの下で、上唇にうっすらと髭が生えていた。

 この女は実は男で殺し屋である。そんな想像を振り払うためにも、飲んだ。飲みすぎて立たなくなったら元も子もないと頭の片隅で思いつつ。


 いや、思わなかった。

 いや、思った。


 どうしてもベッドに連れ込みたいような女ではなかった。ただ単に――

 何を飲んでるの。同じものをいただいていいかしら。女はカウンターで飲んでいた彼の隣に座ってそう言った。

 断るのも悪いと思ったのだ。

 きつい化粧で諸々ごまかしているが、もうこんなところで商売をするような年齢ではなかったから。

 結果として、彼女は売春婦ではなかったのだが。

 お食事はいかがでしたか、と彼女が言った。

 ああ、とてもおいしかったよ。特にあのサーモン。君のアドバイスを聞いてよかったよ。

 それはよかったですわ。シェフが喜びます。他に何かお持ちししましょうか、ラッシュさん。

 いや結構。

 彼はすぐに間違いに気づき、お勘定を、と言い直した。

 彼女は気づかなかったふりをして、伝票を彼のテーブルの上に置いた。彼は気前のよいチップを含む札を何枚かホルダーに挟み、彼女に手渡しながら笑顔を見せた。

 一瞬、ほんの僅かながら、彼を冷たい目で見おろす彼女の素の顔を捕えた気がして、彼はたじろいだが、それはすぐに消え、彼女は例の白すぎる歯を見せ、目尻に皺を寄せて、またのお越しをお待ちしております、と愛想よく言った。

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