最終話

 本当ならば、彼はその日、老いぼれ馬の引く荷馬車に乗って、隣村に住む上の娘の家に行くはずだった。

 毎週そうしているように、老妻と娘と三人の孫と一緒に、昼食を取るはずだったのだ。

 けれど、昼前になって、古い知人が訪ねてきた。驚いたことに、荷馬車に林檎を満載していた。

 どうしたんだね、と彼はきいた。一体全体どんな理由で、こんな丘の上まで林檎を運び上げて来たものか、彼にはとんと判らなかった。――街のお屋敷に勤めるトニオは、彼と同郷の幼なじみで、今でも行き来のある仲なのだ。

 いやあ、困ったことになってねえ、とトニオは言った。

 古馴染みが憲兵隊に追われとるんじゃ。すまんがお前さん、ちょっくら馬車を出してやってくれんかね。

 見れば、馬車の御者席に男が一人、そして林檎箱の中に子供が一人。しかも、追われているのは子供の方だという。

「こないだの戦争で、山向うから攫われてきた子なんだよ」

 そう、トニオが言う。

「この男が面倒見ていたんだが、今になって、憲兵の手がかかってね」

「ははあ……」

 彼はうなずいた。なるほど、いかにもありそうな話だ。

 二人の方でも、こちらを見る。少女がぺこりと頭を下げる。その姿を見やり、トニオが言う。

「――あのアルベルトには、儂も、ずっと助けられてきたでなあ。どうにかして、力を貸してやって欲しいんじゃ」





 相談のすえ、いくらかの荷代と引き換えに、国境の向こうまで馬車を出すことになった。

 彼はまず、老妻に言って、三人に食事をふるまわせた。三人とも、朝食も食べずに出てきたらしいのだ。

 それから、馬車の荷台に干し草を積む。ふもとの農場まで、飼い葉を運ぶふりをするのだ。

 今の時期、飼い葉はどこでも不足している。疑われにくいだろう。

「トニオお爺さん……」

 別れ際、女の子は泣き出した。来たときから泣き腫らした目をしていた。聞けば、同郷の娘たちが何人も、憲兵に連れていかれたのだという。むごいことだが、国境の近くに住んでいると、戦争のたびに、こういう話は見聞きする。

「――ありがとうございます。本当に、なんてお礼を言えばいいか」

「なあに、長い付き合いじゃ。じゃあ、マルティナ、元気でな」

 トニオはそう言うと、林檎を積んで戻っていった。

 これから丘を下って、醸造所に向かうのだそうだ。





 春の山あいの街道は、澄んだ空気が爽やかだ。

 午後の陽の光を浴びながら、老人はゆっくりと馬車を進める。

 若葉が芽吹き始めた渓谷は、野の花が咲くにはまだ早い。けれど、吹く風からは、刺すような冷たさが消えている。

 一年近くも続いた戦で、このあたりの村もすっかり荒れてしまった。街道が止められ、放牧地に軍隊が駐留すると、草を求めて移動する家畜の群れは行き場を失う。大勢の農民が家畜を減らした。食うに困って軍隊に加わり、そのまま戻らなかった若者も多い。

 都の豪華な王城に住まう、尊き身分の方々には、地べたで暮らす民の嘆きなど聞こえないのだろう。

 老人の背中の後ろ、荷台の上の、干し草の山の向こうからも、ときおり、泣き声が聞こえてくる。

「――そんなに泣くな」

「……」

「あんたが泣いても、どうしようもないだろう」

「……」

 諭されても、諭されても、娘は泣き続ける。これもまた、戦のたびに見る光景だ。不憫だが、どうすることも出来ない。

 一つ息をつき、男が続ける。

「……夕方には、国境に着く。その先までは、憲兵も追ってこない」

 励ますはずのその言葉で、娘の嗚咽がいっそう大きくなる。

「でも、アルベルトさんは……、アルベルトさんのお仕事は……っ」

 ごめんなさい、と泣く。

 わたしのせいで。そう言って泣く。

「仕方ないだろう」

 男が答える。

「あんた一人で、どうやって逃げるんだ」

 その言葉で、娘がさらに泣く。よほど申し訳ないと思っているのだろう。



+ 



 ……しかし、この二人、一体、どういう間柄なんじゃろうの?


 と、揺れる馬の背を見ながら、老人は一人、考える。

 詳しい話は聞かずに来たが、考えてみれば、奇妙な二人連れだ。

 親と子ほどに年が離れているが、親子という雰囲気ではない。

 かといって、ただ拾っただけの子供のために、それまでの暮らしを全て捨てる人間も、そうはいないだろう。お屋敷の小作というなら、一生、食べるには困らない。

「わたしっ、このご恩はかならず返しますから……! 今はこんな役立たずですけど、一生かかっても返しますから……っ!」

 泣きじゃくりながら、娘が言う。もっともな言葉ではある。

 ところが、男の返事は煮え切らない。

「いや――その。……あんたはあんたの、好きにすればいい。せっかく、命拾いしたんだろう」

 そんなことを、ぼそぼそと口にする。

「まだ若いんだ、行きたいところに行けばいい。まだ子供でも、そのうちに――」

「――わたしはどこにも行きたくないです!」

 突然、娘が声を張りあげた。

「よそになんか行きたくない、アルベルトさんのところにいたいです……! わたしの好きにすればいいって言うなら、ずっと一緒にいさせて下さい……!」

 切々と訴える。

「大体わたし、子供じゃないです。小っちゃくたって、もう十五なんです……! でもアルベルトさんは、他の方のほうがいいですか? もっと年上の人のほうが――」

「――そういうことを言ってるんじゃない」

 ふいに、男が娘の言葉をさえぎった。

 そのまま、しばらく黙り込む。念を押すように、問い返す。

「あんたこそ……いいのか。……こんなのが相手で」

「だから、アルベルトさんがいいって、さっきから言ってるじゃありませんか……っ」

 なぜだろう。そこで、娘の言葉が途切れる。まるで、何かに驚いたように。

 ――ふいに、抱き寄せられでもしたかのように。


 ……ふむ。これは一体、どうなったんじゃろうかの? 


 いたずら心を起こして、干し草の山の後ろをのぞいてみたい気持ちを、老人はこらえる。

 せっかくくっついた若いもん同士を、驚かすのは可哀そうだ。





 春先のこととて、道はあまり良くない。街道は雪も溶けているが、山から流れる清水は多く、ところどころにぬかるみもある。

 それでも、まだ日があるうちに、眼下に、越えるべき国境が――去年の秋、新しく国境に定められた、小さな川が見えてきた。

 茶色い放牧地と、耕され始めた畑。そして、その中をうねうねと曲がりながら続く、細い流れ。その川面は、傾き始めた日を受けて、金色に輝いている。ごくありふれた、美しい景色。

「マルタの街は、避けたほうが良いじゃろう」

 山の裾野、小高い丘の上から行く手を眺めて、老人は言う。

「橋は石造りで立派だが、街なかに騎士どもがたむろっとる。少し遠回りじゃが、レックまで下って、その先の木橋を渡るほうが安心じゃ。いっぺんは戦で燃えたらしいが、なんでも最近、掛け直されたという話じゃ」

「あんたの判断にまかせる」

 男がうなずく。

「レック……」

 娘が、つぶやくように繰り返した。

「あんた、知っとるのかね?」

「住んでいた尼僧院が、レックの町の近くにあるんです」

 娘が答える。

「そこで育ったんです、わたしたち」

「――そうじゃったか。あんた、尼僧院育ちかね」

 どうりで礼儀正しいはずだと、老人はうなずく。



 そこからは、三人で御者席に座って進んだ。人里に入ったら、その方が、かえって目立たないだろうと思われた。老農父とその息子と孫娘、といった案配だ。

 娘は男と老人の間に座っていたが、レックの近くまで来ると立ち上がり、小高い丘の上に立つ、古い石造りの聖堂を指差した。

「あれです……!」

 聖堂の扉は板が打ち付けられ、封鎖されていた。窓にも板が当てられている。このあたりの住民は旧教徒だが、新しく赴任した領主は新教徒なのだ。

 娘が目をこする。涙をこらえて、育った場所を見つめている。

 やがて、建物が木立ちの向こうに隠れる。男が、泣いている娘を抱き寄せる。

 その様子は親子のようでも、恋人同士のようでもあって、老人はそれを好ましく思う。



 


 レックの小さな町を過ぎると、その先の木橋が見えてくる。

 時刻は夕暮れの少し前、そろそろ人通りも少なくなってくる。

 橋の手前には二人の兵士がいた。一人は橋のたもとの土手に座り、もう一人は橋の手すりにもたれている。何をするでもなく、退屈そうにしている。

「大丈夫じゃよ。心配はいらん」

 怯えた顔をする娘に、老人は言った。

「あの様子じゃあ、誰かを探しとる訳じゃない。びくびくしなければ大丈夫じゃ」

 言う間にも、荷馬車は進む。

「大丈夫だ」

 男が淡々と言う。

「いざとなれば、俺が殴る」

「えっ」

 本気なのか冗談なのかわからない口調に、娘が驚く。その間にも、荷馬車は進む。

 橋の間近まで近づくと、兵士達がこちらを見た。一人が馬車を停め、もう一人が声を掛けてくる。

「どこに行くんだ、こんな時間に」

「この先で、息子が農場をやっとりましてな」

 老人は答える。

「ようやっと橋が掛かかりましたで、久しぶりに顔を見ようと思うちょります」

 老人は帽子を取り、会釈した。続いて、男と娘も頭を下げる。

 二人の兵士は顔を見合わせた。再びこちらを向いた時には、その顔に、最初と同じ退屈そうな表情が浮かんでいた。一人が、行ってよし、とあごをしゃくる。

 がらがらと車輪の音を立てて、馬車は真新しい橋へと踏み出した。

 橋の中程まで来たあたりで、娘が肩を震わせるようにして、大きく息をついた。

 老人は笑った。

「なんもびくびくする事なかったじゃろ」

 その言葉に、娘が小さくうなずく。それから、ようやくほっとしたように、ちらりと笑顔を見せた。そうして、後ろを振り返る。二人の兵士はまた、川の端の土手に腰を下ろしている。

 夕暮れの川の上にかかる、小さな橋。その上に、斜めに差し込む西日。二人の兵隊の姿がなければ、ここが国境であることすら判らないような、のどかな光景だ。

 

 戦が起こる前、ここは何もない、ただの田舎だった。

 戦さえなければ今も、人々が行き交い、羊の群れがのんびりと歩く、ただの田舎のままだっただろう。


 




 川向こうの小さな村のはずれにたどり着くと、そこで老人は馬車を止めた。

 男は馬車から降りると、約束通り、ここまでの馬車賃を払おうとした。が、老人は断った。

「あんたたちには、これからいくらでも入り用じゃからの。金は大事じゃ」

「でも、昼に――」

「いや、ええ、ええ。それはあんたらで取っておきなさい。それじゃ、儂は帰るでの」

「……すまない」

「あっ、有難うございます……!」

 男が頭を下げるとなりで、娘が慌てたように、ぴょこんとお辞儀する。そんな二人に見送られながら、老人は馬車を回し、引き返す。

 新しい土地で暮らしを始めるのは大変なことだ。

 でも、あの二人なら大丈夫だろう。





 ぽくぽくと、馬は歩く。

 ごとごとと、馬車は進む。

 来たときと同じ道をたどって、老人は帰る。

 国境の橋にたどりついた頃には、あたりは暗くなっていた。橋のたもとに立っていた兵隊も、いなくなっていた。

 老人はカンテラに火を灯した。黄色い明かりがぼんやりと照らす夜道を、ごとごとと進む。

 金を持った旅人にとっては、こんな夜道は、安全とはいえない。長い戦のあとだ。追い剥ぎや泥棒が出ないとも限らない。

 けれど、老人には関係ない。老いぼれ馬の引く、おんぼろ馬車に乗った貧乏人など、わざわざ襲ったところで、なんの得もない。貧乏なことにも、利点はあるのだ。


 それにしても、ずいぶん遅くなってしまった。

 夕闇に沈みつつある山々の稜線を、老人は見やる。


 今夜は久しぶりに、山のふもとに嫁いだ、末の娘の家に泊まるとしようか。

 そう考えて、老人は微笑む。

 しばらく戦が続いたせいで、顔を見るのは一年ぶりだ。孫も、大きくなっていることだろう。



 終

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マルティナ――十五歳の尼僧見習い、三十五歳の小作男の嫁になる 青猫 @kuroneko77hiki

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