孤闘
私は外へ滅多に出ない。別に怖いわけではなく、興味がないのだ。いつの頃からだろうか。時間の感覚が分からなくなってきているのは……。
「親父、今日の夕飯は買わなくていいぞ、姉貴が持ってくるオカズがあるからな」
つい最近何処からか戻って来て、家に住み着いている中年の男がまた生意気な口を聞いている。
「ああ、一々言わなくても分かってる」
面倒くさそうに白髪交じりの頭の老人が答える。苛立っているようだ。二人はいつも喧嘩をしている。
外は良い天気だった。今日は美容院に行こう。絶対に行こう。そう思いながら新聞のテレビ欄を見ていると、
「お袋、今日は美容院に行ってきたらどう? もうずっと前から行く行くって言って行ってないだろ」
中年の男が馴れ馴れしく声を掛けてくる。
「うるさい! あれこれ指示してくんな!」
何処からか怒鳴り声が聞こえる。それと同時にとても不愉快な感情が沸き上がってくる。誰の声だろう。少なくとも私のものではない。部屋を見回すが私と中年しかいない。
中年は顔を顰めて、私から離れていった。
そう、皆私から離れていくのだ、結局は……。
しかし、私は気づいていた。私から離れていった中年のしかめっ面に、悲愴感のようなものが現れていたことを。
夕食時、白髪交じりの老人が冷蔵庫の中をごそごそと何か探している。
「あれ? おかしいな。確かここにヒジキを入れたはずなのに……」
「さっき、冷蔵庫の中を見たけど、ヒジキはなかったぞ。買ってないんだろ、今日は?」
「いや、確かに買って、ワシはここに入れた!」
白髪混じりは少し苛立ったように反論する。
中年は、外国人のように肩を竦めて首を横に振る。
二人の口論を聞き流しながら、私はテーブルの上のエビのかき揚げと格闘する。エビの尻尾は、喉に突き刺さるのではないかと思えるほど固く、歯でかみ砕くことは不可能だった。
「二人そろって、なんでいつも納豆ばっかり食べるのよ!」
「お袋も食べればいいだろ」
「いまさらもういらないわよ! 誰も、私に聞いてくれない!!」
また何処からか声が聞こえてくる。確実に私のものではない。私はエビと格闘しているのだから。納豆のことなどどうでもいいし、寧ろ納豆は嫌いな方だ。
「おまえは、余計なこと言うな! お母さんが嫌がってるだろ!」
「元はと言えば、親父が悪いんだろうが!!」
仲の悪い二人は、相変わらず喧嘩をしている。
私はいつもひとりで闘っている。誰も理解してくれないし、助けてくれない、そんな気分だ。
もう疲れ果てた。最近は曜日も思い出せないし、足も重たいし、頭もいたい。もうお母さんに会いたい……。
——お母さんに会わせてあげようか?
何処からか声が聞こえきた。しかし、喧嘩をしている二人からではない。
後ろを振り向くと、当然誰もいない。大きな箪笥があるだけだ。
「え? 誰?」
——こっちだよ!
再び声がした。もう一度箪笥の方を向く。
そこには、白いカンガルーがいた。正確には、カンガルーのぬいぐるみがいた。
「え? あんたが今しゃべったの?」
思わず声を出してしまった私に、箪笥の上のカンガルーは返事どころか微動だにしない。私は一人混乱する。そのとき——、
「何? お袋何か言った?」
「おまえ、何を言ってるんだ?」
「あんたらに何も言ってないわ!」
中年と白髪交じりが同時に私を見遣る。二人に同時に見つめられると、責められているようで汗が噴き出てくる。
私は何も答えず、再び箪笥の方へ眼を遣る。
——そこに白いカンガルーの姿はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます