京子

 特別暑い夜だったわけではなかったが、なんとなくその夜は眠れなかった。

 ワンルームの部屋の窓際に置かれたセミダブルのローベッドの上で、オレは何度も寝返りをうっていた。

 十六回目の寝返りを終えて胃が楽になる姿勢で寝ていると、ふと腰のあたりに誰かの手が置かれた感触。


「京子? ……おまえなのか?」


 オレは咄嗟に置かれたその手の上に、自分の手を優しく重ねてみた。柔らかくて華奢な手からはかつて知ったる愛おしさが伝わってくる。


「手が冷えてるじゃん、あとちょっと、この姿勢は苦しいぜ」


 そんなことを思わず呟く。苦笑しながらも、気持ちが少しずつ落ち着いていくのを感じる。そして、いつしか夢の中へと意識が落ちていった。


 翌日、午後から大学で「哲学概論」の講義を受けていると、隣の席に座っていた友人の伊勢崎が話しかけてきた。


「おまえ、まだ京子ちゃんのこと引きずってるのかよ? いい加減にもう忘れろよな」


 意地悪な表情というよりは、困惑と心配が混ざったような表情を浮かべている伊勢崎に対して、オレは勝ち誇ったような表情を浮かべて返す。


「ふふふ、おまえには言ってなかったけど、実はな、京子とオレはとっくに寄りを戻したんだよ! 昨日だってな——」


「――そこ! うるさいぞ! 講義を静かに聞けないのなら、退出してもらってかまいませんよ!」


 興奮気味に話すオレの声が、ライオンの鬣のような髪型をした講師の怒りを買ったらしい。ライオンのかすれた咆哮が教室内に響き渡った。

 伊勢崎はまだ困惑したような表情を浮かべている。

 

 「哲学概論」が終わると、伊勢崎は急用があるらしくすぐに大学を出て行った。

 そのため、京子の話はそれ以上できなかった。


「ちぇっ……」


 オレは一人学食へ向うと、日替わり定食を頼んだ。

 今日は、「サバの塩焼き定食」だった。


——青魚は脳に良いらしいよ。


 いつかの京子の台詞が蘇る。

 ひとりニヤニヤしながら鯖定食を平らげると、オレは真直ぐに自分のワンルームの部屋へと戻った。

 本当は午後から生物の講義があったが、気が乗らないのでサボることにした。


 アルバイトを先月辞めてしまったオレには特にすることもないので、部屋に戻ると無造作に家庭用ゲーム機の電源を入れた。デジタル音と共にタイトルが浮かび上がる。

 オレはスタートボタンを押した。


——とある国を旅していた主人公。成り行きで貴族の娘を助けたことで、そのまま国のごたごたに巻き込まれていく。そのうち魔物やら魔界やらと話がどんどん大きくなっていき、その国の平和のため、世界の平和のため、主人公は魔界とやらへ仲間たちと旅立っていくことになるのだった……。


「なんか、いいよな……。オレも大冒険してえよな……なあ、京子……」


 暫くの間、生物の講義をサボった怠惰な気持ちのままゲームを進めていく。


——ドンドンッ!! 突然、部屋のドアが激しくノックされた。


 鍵を掛けていないドアは勢いよく勝手に開けられた。そこには先程別れた伊勢崎が息を切らせて立っていた。


「た、大変だ! 京子ちゃんが……さらわれた!」


——その言葉に一瞬、オレの周りの時間が凍り付く。

 しかし、オレはすぐに自分を取り戻すと、壁に掛けてあったリーヴァイスのジャケットを掴み取る。

 そして動揺している伊勢崎と共に、京子を探すため、未知なる世界へと旅立つのだった……。


「おい! おい! 起きろよ!」


 半分閉じた瞼のまま焦点を無理矢理合わせると、伊勢崎の姿がぼんやりと映った。


「おい! また怒られ——」


「――そこ! またか!! 講義を静かに聞けないのなら、退出してもらってかまいませんよ!」


 声をあげてオレを起こしてくれた伊勢崎の声が、ライオンの鬣のような髪型をした講師の怒りを再び買ったらしい。ライオンのかすれた咆哮が教室内に響き渡る。

 伊勢崎はまた困惑したような表情を浮かべている。


「あれ? 夢か? 京子は?」


 オレの寝ぼけた声に、伊勢崎はあきれ顔で首を横に振った。


 講義のあと、オレは伊勢崎と一緒に学食へ向かった。

 今日の日替わり定食は、「お刺身定食(梅)」だった。


「なんだよ、鯖の塩焼き定食じゃないのかよ……」


 愚痴をこぼす伊勢崎にオレは思い切って聞いてみた。


「なあ、伊勢崎……」


 伊勢崎は赤い肉片のようなものを必死に噛み切ろうとしていた。


「一緒に京子を探しに行ってくれないか?」


 伊勢崎は噛み切る作業を一旦中断して小皿にそれを吐き出すと、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、すぐに穏やかな表情で静かに言った。


「……もう、忘れろよ、京子ちゃんのことは」   


 そして、彼はそのまま席を立つと、黙って食堂を出て行った。


「お、おい! 待てよ!」


 残されたオレは彼を追うことはせず、ひとりその場に暫く座っていた。

 伊勢崎の吐き出したぐちゃぐちゃに咀嚼された赤い肉片のようなものが、小皿の上でうごめいているようにみえた。


——その夜、特別暑い夜だったわけではなかったが、なんとなくまた眠れなかった。

 ワンルームの部屋の窓際に置かれたセミダブルのローベッドの上で、オレは何度も寝返りをうっていた。

 十六回目の寝返りを終えて胃が下になる姿勢で寝ていると、ふと腰のあたりに誰かの手が置かれた感触。


——来た! 京子が来た! オレはそう思った。


 オレは咄嗟に置かれたその手の上に、自分の手を優しく重ねてみた。柔らかくて華奢な手からはかつて知ったる愛おしさが伝わってくる。そう思っていた。

 オレは暗闇の中、目を開ける。ぼんやりと映る玄関の靴箱の上には、夏休みに伊勢崎からもらった伊勢海老の置物が笑っていた。

 そして、ゆっくりと首を動かして、重ねた手の方へと視線を向ける。そこには……。


 ——一週間後、


 「哲学概論」の講義をひとりで受けていた伊勢崎俊太郎は、ひとり呟いた。


「……また、魔界へ行かなきゃいけないのか、を探しに……」


 伊勢崎の冒険が、今、始まろうとしていた……

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