銀色の十字架


「――恋と愛は違うんだよ」


 犬居は突然口火を切った。

 

――私は久しぶりに大学時代の知人と一緒に酒を飲んでいた。家の近くの居酒屋。


 個室になっていて、二人で落ち着いて話すことが出来る。


 小さな四角い窓の外は、既に真っ暗だった。


「恋は、脳内に恋愛ホルモンと呼ばれる物質が分泌されているだけのこと。お酒に酔っているのと同じなんだ」


 犬居は、私の方を見ながら話し続けている。


 私は時折、彼に相槌を返しながら運ばれてきた鯛の刺身に箸を伸ばす。プリプリとした身が、口の中で新鮮に踊る。


 ペスカトリアンの私は、犬居がこの店を選んでくれたことに心から感謝していた。


 しかし、犬居は何故私がペスカトリアンであることを知っていたのだろうか……。


「テレビや雑誌などが、『恋は素敵なものです』と、必要以上にアピールし過ぎた結果、恋した勢いで不倫や浮気へ走る人がいる。そういった行為を有名人がすると、報道される。そして、謝罪したあと何事もなく復帰させる」


 そこで、彼は一旦ジョッキをテーブルに置いた。座敷なので低い木のテーブルだ。


 犬居の目は座っているように見える。既にビールが回ってきているのかもしれない。


「これによって、『まあ不倫や浮気なんてよくあること』、『離婚なんて今時珍しくない』という考えが、知らない間に人々の潜在意識化に浸透していっていることは、明らかだろう」


「テレビや雑誌のニュースが、人々の道徳観を少しずつ変えていっているんだよ。悪い方向へな」


「お互いフリーなら恋に落ちて、恋が愛に変わるまで一緒に頑張って行けばいい。でも恋が冷めた後が、本当の戦いなんだよ。恋に落ちているうちは、お酒に酔っているのと同じで、相手のことはすべて良く見えるし、すべて許せるんだ」


 酔っ払いは捲し立てるように一人で勝手に話し終えると、自嘲気味に鼻で笑った。そして、茹蛸を箸先で突き刺そうとした。しかし、茹蛸は滑って受け皿から飛び出していった。


 私は茹蛸と格闘する犬居をぼんやりと眺めながら、先程の彼の言ったことを考えていた。


 若いうちの恋は、たしかに可愛らしくて素敵なものかもしれない。そして、何度も恋の経験をしてから結婚している大人でも、再び恋に落ちてしまうことは仕方がないのかもしれない。


 しかし、抑制が効かないとか、激しい恋に落ちたとかを言い訳に、不倫や浮気をする大人はどうだろう。そういった大人たちの言動に寛大な世の中になったことが、本当に良い事なのだろうか。陰で泣いている子供たち。傷ついた元パートナー……。


 ふと私は、犬居が先程からじっとこっちを見ていることに気が付いた。


「おい?」


「あ?」


 彼は、少し驚いたような反応を返す。


 彼の瞳の奥には、しっかりと「動揺する私の瞳」が映っていた。


 そのとき、私は気付づいてしまった。彼が、恋に落ちていることに。しかし、一体誰に……? まさか……。


「おまえ、まさか……私のことを……」


 私は思わず身体を起こした。犬居から距離を取るために。そのとき……。


「あおおぉぉぉぉぉーーーん!!!!」


 甲高い犬居の遠吠えが個室に響き渡る。遠吠えが終わるや否や、彼は私に向かって飛び掛かって来た。


 私は咄嗟に犬居の攻撃を躱すと、片腕で身体を支えながら両の足で思い切り蹴りを放った。犬居の脇腹辺りに足が食い込んでいく感触を知る。


 彼が壁に激突して咽ている間に、私は自分のバッグの中から銀の十字架を取り出す。その間、約10秒。 


「オ、オレは、おまえのことが、おまえのことが……ずっと、ずっと前から、大学時代から……」


 態勢を整えた犬居は、呂律の回らない口調で口説き始める。


「犬居! 今何時か!?」


「え? 今?」


 不意の質問を喰らった犬居は、咄嗟に左手の腕時計に目を遣る。彼のG-Shockは濃い体毛で覆われていた。


「じゅ、十時か?」


 次の瞬間、犬居は世界で一番好きな人から、世界で一番嫌いなのもを受け取った。


「ぎゃわぁぁぁぁぁーーーん!!!!」


 銀色の十字架を見せつけられた犬居は、情けない叫び声と共に瞬く間に灰と化した。

 私は、その場で片膝立ての姿勢を作ると一息つく。


「まさか、犬居までもがモンスター化していたとはな……そして、私に気があったとは……迂闊だったぜ」


 私は乱れた長い黒髪をくくり直すと、銀色の十字架をバッグに仕舞い立ち上がった。


「あ、あの、大丈夫ですか!」


 騒ぎを聞きつけて店員がやってきた。


 私は店員が入るより先に個室を出ると、素早く扉を閉めた。


「大丈夫です。お会計をお願いします」


 背後にある小さな四角い窓には、大きな満月が輝いていた。

 

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