大邑商の落日

 いんの都・大邑商だいゆうしょうに、西方から攻め寄せたしゅう軍が迫っていた。その総勢は四十万と言われている。

 かつて冤罪で殷によって投獄された西伯せいはく姫昌きしょうの息子、姫発きはつが周の王を名乗って殷に戦いを挑んだのである。


 開戦に当たって姫発は殷の悪行を列挙したが、その半数以上は事実無根の言いがかりである。要するに最初から殷を滅ぼす事は心に決めており、その理由付けをする為に、あちこちから話を集めただけだ。

 古今東西、開戦理由などである。勝ちさえすれば、いくらでもになってしまうのだから……。


 周軍を迎え撃った殷軍は、牧野ぼくやの戦いで大敗を喫しており、押し寄せる周軍から首都を守る兵力はもはや残ってはいなかった。

 地平を埋め尽くさんばかりの周軍を見た子受しじゅは、妲己だっきの待つ宮殿へと戻ると、愛する妻と最後の言葉を交わす。


「もはや殷はこれまで。そなたは逃げよ」

「我が君はどうされるのですか……?」

「殷が滅ぶというのなら、それは余もまた滅ぶという事だ」


 そう言って燭台を手に取って足元に落とすと、子受の纏う衣に火が燃え移った。自身の身を焼こうとしている意図に気づいた妲己が近づいて消そうとするが、子受は青銅の剣を抜き放って妲己に向けた。

 その様子に、もはや子受の覚悟は本物であると察した妲己は、その場に崩れ落ちて涙を流した。


 思い返せば、西伯の釈放を願い出た時、周囲の家臣から「この女こそ殷を滅ぼす」と揶揄された事を思い出した。子受はその言葉を気にする事は無く、その後も妲己の提案する話を理解し受け入れてくれた。

 だがそれが全て、この結果を招いた原因だったのではないか。


「私のせいで……、こんな……」

「そなたのせいではない。湯王より三十代に渡って継がれてきた殷王朝を滅ぼしたのは余だ……。余が至らなかったのだ……」


 炎に包まれ身を焼かれながらも、子受は泣き崩れる妻に最後まで笑いかけていた。


 夫が業火に焼かれて崩れ落ちても尚、妲己は茫然自失のまま立ち上がる事は出来なかった。自分の居場所は殷の王室にしかない。今更どこへ逃げれば良いと言うのか。


 周軍が大邑商の城壁を突破し、王宮に周の兵士たちが大挙して入ってきた。その最前列にいる外套を羽織った者。まさに周の武王・姫発である。


「そなたが、かの妲己か?」


 妲己は静かに頷いた。その後も虚実の入り混じった色々な事を質問されたが、妲己はそれ以上、何も答える事は無かった。

 どう答えた所で自分は、そして殷は倒されるべくして倒された悪という根底は変わらないだろう。それに沿わぬ答えなど、ただの言い訳として否定されるのは目に見えているのだから。


 そうして妲己は縛り上げられると、大勢の前に引き出された。そこにいるのは各地から集まった兵士たち。ほとんどの者は妲己を見るのは初めてであった。殷の王室を惑わした悪女。そんな噂に聞いていただけである。

 そしてそれは、妲己の横で剣を構えた周の武王・姫発とて同様であった。実態など知らない。ただ話に聞いていた悪女が目の前にいるというだけだ。


「目に焼き付けよ! これが天下を乱し、殷を滅ぼした稀代の悪女・妲己である! 贅の限りを尽くし、多くの命を奪った元凶である!」


 姫発は妲己の悪行を並べ立てた。

 殷王を誘惑し誑かした? 確かに子受は妲己の言う事は何でも聞いた。だがそれは互いに愛し合っていた理想的な夫婦像であったと信じていたし、国政に対する意見も殷を良くしたいが為を思っての事。子受もまた妲己の思いに理解を示してくれていたからこそである。

 先祖の祭祀を疎かにした? その点はそう思う者もいたであろう。

 酒池肉林などと言う宴で国費を浪費した? 確かに大きな浪費であった。しかし大勢の命を奪うよりも遥かにマシであったはず。

 炮烙などという残酷な刑罰を科した? それこそ寝耳に水の話であった。

 そうしてその場に運ばれてきた銅柱は、祭りに際して食肉を焼いた物である。


「これが証拠だ! 焦げた肉片が大量にこびりついておるな。相当に使い込まれたと見える」


 そんな銅柱を見て、「酷い」「何て事を」など悲痛な叫びが各所から漏れていた。

 ただの獣肉に対して大勢が涙を流さんばかりの様子に滑稽さを感じた妲己は思わず口元を歪めた。


「見ろ! あいつ笑ってやがるぜ……」


 そんな妲己の姿に、何か得心した姫発は、剣を振り上げた。


「そんな悪行も、この日を以って最後となる! かくの如く記し、かくの如く伝えるべし!」


 振り下ろされた姫発の剣は、妲己の首を落とした。万雷の如き喝采の中で……。


 妲己の心を理解し得た者は、この時代においてただ夫である子受だけだった。最期の瞬間に妲己が願ったのは、愛した夫と冥府にて再会する事のみであった。



   *****



 こうして、悪逆非道な殷の紂王と、それを誑かした悪女の妲己は、正義を体現した周王家によって滅ぼされた、と後世に語られます。

 実に三千年に渡って、紂王と妲己は悪の代名詞とされてしまったわけです。


 しかし近代の発掘調査によって、紂王の代で生贄の儀式が取りやめになったという金文が出てきたり、周の時代でも生贄の儀式が継続されたりなどの痕跡が出てきた事で、は相当に歪んで伝わっている物だという事が見えてくるわけですね。


 勿論、今回の考察は妲己善人説に振り切った、いわば一般認識へのカウンターですし、再現小説はあくまでも小説です。

 記録が少なすぎる以上、妲己が(史実ほどでは無いにしろ)擁護できない程度に悪女だった可能性は充分にありますが、同時にこのくらい白かった可能性もゼロでは無いという、そんなお話でございました。






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紂王と妲己 水城洋臣 @yankun1984

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