四十話 私は……いいですよ?

「――すみません、付き添わせてしまって」

「芹崎さんが謝ることじゃない。それよりも、今は自分の心配をしたほうがいい」


現在、芹崎さんは俺のベッドで横になっている。

俺はゴキブリのベッドに腰を下ろしながら芹崎さんの手を握っていた。


「でも、やっぱり申し訳ないです。折角のラフティングが……」


暗い顔をしている芹崎さんに、俺は苦笑してしまった。


「……実を言うと、俺もラフティングはあんまりやりたくなかったんだ」

「えっ、そうなんですか?」


俺の言葉を聞くなり、芹崎さんは目を見開く。


「ほら、この前俺は運動神経がいいわけじゃないって言っただろ? ラフティングも上手くやれるか不安で、可能ならやりたくないなって思ってたんだ」

「そうだったんですか」

「だから、芹崎さんに付き添えてよかったと思ってるんだよ」

「ってことは、元々祐也君はそのつもりで私に付き添おうとしたんですか?」


ニヤけにも似つくような微笑みを芹崎さんは見せた。

その言葉に、俺は否定の意味を込めて首を振る。


「そんなつもりは全然なかった。結果的にそうなっただけで、本当に芹崎さんが心配だったからついてきたんだ。嘘に聞こえるかもしれないが――」

「嘘には聞こえませんよ。だって、あれだけ必死に担任の先生を説得してくれていたんです。自分に酔っていなくても祐也君が本気で私のために行動してくれたんだって、そう思います」

「……ならよかった」


ただ、もう少し早めに気づくべきだったのかもしれない。

俺がもう少し早くに気づいていれば、芹崎さんが苦しむこともなかった。


……海と川。

名前は違えど、そこで起こる事故には何ら変わりない。

少し頭を捻ればすぐに考えついたはずだ。

にも関わらず、俺は気づくことが出来なかった。


まだまだ、彼女のことを考えられてないな。


「……あの、祐也君」


俺が自分の行動を反省していると、不意に芹崎さんが俺の名前を呼んだ。


「どうした?」

「……私、まだ怖いんです。川が近くにあって、どうしてもトラウマが蘇っちゃって。だから……」


そうしてベッドから身体を起こすと、熱のこもった瞳で俺を見た。


思わず、息を呑んでしまう。

それほど、今の芹崎さんは魅力的だった。

こういう目で芹崎さんのことを見るのも久々かもしれない。


俺が心臓をバクバクと鳴らしていると、やがて芹崎さんは言った。


「……甘えて、いいですか?」


彼女の声が俺の耳朶を叩いた瞬間、俺は彼女のことを抱き締めていた。


「いっぱい甘えろ。芹崎さんの気が済むまで」

「……ありがとうございます!」


そう言って、彼女も俺のことを抱き締め返す。


……とても、甘い匂いだった。

今までちゃんと意識したことがなかったが、これほどまでに甘い匂いだったのか。

果実にも菓子にも似つかない彼女の甘い匂いは、確実に俺の理性を崩し始めている。


このままいけば、理性が崩壊するのもそう遠くないだろう。

そう理解はしていたが……俺は腕の中にいる彼女を離したくはなかった。


「……祐也君のことですから、きっと私が苦しまないで済んだかもしれないことを悔やんでいるんでしょうね」


芹崎さんの言葉に、俺は思わず笑ってしまった。


「流石、芹崎さんだ。俺のことをよく分かってらっしゃる」

「伊達にいつも祐也君のそばにいませんから」


くすくすと、芹崎さんの笑う声が聞こえる。


「……でも、案外これで正解だったのかもしれませんよ?」

「それは、どうしてだ?」


俺が問うと、芹崎さんは……


「だって、こうして祐也君と一緒にいられるんですから」


そう言って、俺の首元に顔を埋めた。

少しくすぐったかったが、芹崎さんが幸せならそれでよかった。


「――祐也君の匂いです」


とろけきったその声に、俺はとうとう限界を迎えそうになっていた。

これ以上行ったら、俺は芹崎さんを傷つけてしまうかもしれない。

まだ抱き締めたい気持ちもあったが、それを優先させるわけにもいかなかった。

だからこそ、俺は言った。


「……な、なぁ。もうそろそろ離れないか? 俺もうやばいんだが」

「やばいって、何がですか?」


素っ頓狂な言葉を発する芹崎さん。


「いや……だから、それは……」


言って、いいものなのだろうか?

いやダメだろう。

何言ってんだ俺。


……ダメだ、確実に思考能力が低下していっている。


「とにかく、俺もうそろそろ限界――」

「祐也君」


俺の言葉を遮るように、芹崎さんは俺の耳元で艷やかな声を出す。


「私は……いいですよ?」

「な、何を言って……」


急な芹崎さんの声に、俺の頭は沸騰しかけていた。

正常な判断がもう出来ない。

今俺が出来るのは、ただただ踏みとどまることだけだった。


「……こういうの、女の子の口から言わせるんですか?」

「いや……その……」


訳が分からなくなってきた。


お願いだ芹崎さん。

お願いだから、俺を離してくれ――。


「……なんて、冗談ですよ」


そう言って、芹崎さんは俺からようやく離れた。

どうやら俺の心の中での訴えが届いたらしい。


……とりあえず、助かった。


俺は息を切らしながら芹崎さんを力なく睨みつける。


「……ったく、調子に乗りすぎだぞ」

「甘えろって言ったのは祐也君です。だから私は甘えただけです」

「そうだけど、限度ってものがだな……」

「祐也君は、私に言い寄られて嫌でしたか?」


潤んだ瞳で不安げに見つめてくる芹崎さん。

最早、彼女は俺の扱いを完璧に掴んでいた。


「……嫌ではなかったけど」

「それにしても祐也君。私はもうちょっと祐也君に甘えたいです」

「おいおい、もう勘弁してくれよ」


俺は思わず頭を抱えてしまう。

まさか、これほどまでとは思っていなかった。

もちろんこの状況は俺にとっても願ったり叶ったりだったが、流石に順序というものがある。

全部すっ飛ばして行為に至るのは、いくらなんでもダメだ。

……この捉え方をしてるのは、芹崎さんもだよな?

俺だけじゃないよな?


「じゃあ、最後に一回だけ甘えさせてください」

「一回……だけ?」


俺が彼女の言った言葉を反芻させると、彼女は俺に顔を近づけてきた。


そうして、頬に柔らかな感触。

それがキスだと分かったのは、されてから約10秒後のことなのだった。

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