三十九話 彼氏の仕事

「……昼ご飯を食べた後はラフティングか」


 ホテルの客室に荷物を置いた俺は、今日寝るベッドに腰を下ろす。

 隣のベッドには、ゴキブリが寝っ転がっていた。


「なぁゴキブリ」

「ん? どうした?」

「あんたって、ラフティングしたことある?」


 俺がそう質問すると、ゴキブリは目を見開いた。

 ……なぜ目を見開く必要がある?

 訝しんでいると、ゴキブリは恐る恐る俺の方に視線を移した。


「誰にも興味を示さなかったあの荒巻祐也が俺に質問だと……!?」

「うるせぇ」


 何かと思えば……くだらない。

 まぁゴキブリの言葉は事実なので否定することはできないが。


「ラフティングは何回かやったことあるな」

「そうなのか……それって、どういうものなんだ?」

「……お前、ラフティングやったことないのか?」


 ゴキブリは身体を起こしながら俺に聞いてきた。


「ない」

「マジか……まぁ川下りみたいなもんだよ。ラフティングのグループあっただろ? そのグループ一つのふねを漕いで川を下っていくんだ。お前なら何でも出来るから、多分大丈夫だろ」

「…………」


 舟を漕ぐなんてやったことがなかった。

 何でも出来るように見えているのは、あくまで練習をしていたからだ。

 練習をしないと、俺は人並みにも満たない下手さを晒してしまう。

 上手く出来るだろうか……。


「……芹崎さんと同じグループになれなくて寂しいのか?」

「馬鹿か、殴るぞ」

「おぉ、怖ぇ怖ぇ」


 身震いをさせながらベッドから下りるゴキブリ。

 そうして廊下に繋がる扉の前へ歩を進めると、こちらに振り返って言った。


「とりあえず、もうそろそろ時間だから行こうぜ」



         ◆



「――はい、じゃあ今からラフティングについて説明します」


 教師の一人がそう切り出して、ラフティングについての説明をし始めた。

 しかし、その声は俺に届いていなかった。


 ……どうする。

 舟は結構揺れるらしいし、漕ぐのにもコツがいるとゴキブリは言っていた。

 初見じゃ俺には絶対無理だ。

 どうすれば、周りに失態を晒さずに済む?

 安全策を取るなら、やはりラフティングを辞退するのが一番いいだろう。

 でも、理由もなしにラフティングを辞退することは出来ない。


 一体どうすれば……。


 ふと視線を上げると、芹崎さんが視界に入った。

 不安げな顔で、どこかそわそわと視線を泳がせている。


 ……そういえば芹崎さん、海にトラウマがあるんだったよな。

 ラフティング、大丈夫なのだろうか。

 舟が揺れるということは、川に身を投げ出される可能性がある。

 それは、確実に彼女のトラウマを刺激することになるだろう。


 きっと今、芹崎さんは怖いはずだ。

 だから不安げな表情で、目を泳がせているのだろう。


「――それじゃあ、それぞれ移動してください」


 教師のその言葉を皮切りに、しゃがんでいた生徒たちが一斉に立ち上がる。

 俺はそれと同時に、脇目も振らず芹崎さんのところへ歩を進めた。


 俺の頭の中には、ラフティングをどうするかという考えは最早なかった。


「芹崎さん」

「……祐也、君?」


 俺の名前を呼ぶ声は震えていて、その様子はおろおろとしていた。

 俺は彼女の右手を俺の左手で包み込むと、優しく微笑みかける。


「……行こう」

「行く、って……どこにですか?」

「いいから、おいで」


 そう言って俺は彼女を先導していく。

 俺たちが向かったのは……担任のいる場所だった。


「先生」


 俺は担任を呼ぶ。


「荒巻か。どうした?」

「芹崎さんの顔色が悪くて……体調も、少し悪そうなんです」

「そういうのは、ちゃんと本人から申し出るものだぞ」

「っ……すみません」


 しまった、不覚だった。

 芹崎さんのことをどうするかで頭がいっぱいで、その他のことを見ることが出来ていなかった。

 いつもならちゃんとそこまで思考がまわっていたはずなのに。


「……芹崎、そうなのか?」


 俺を叱りつけたあと、担任は芹崎さんに視線を飛ばした。


「あっ……はい。ちょっと気持ちが悪くて。だからラフティングが出来そうにないんです」

「そうか、じゃあ休んでろ。ホテルが近いから、自室に戻っていても構わない」

「……すみません、ありがとうございます」

「芹崎が謝ることじゃない。……ただ、少し困ったな」

「どうかしたんですか?」


 俺が尋ねると担任は困った表情をしながら言った。


「俺たちもこれから生徒たちに同伴するため舟に乗り込むんだが、生憎と芹崎に付き添える人がいなさそうなんだ」

「……じゃあ、俺が行きます」


 俺はゆらゆらと揺れている芹崎さんの身体を支え、担任に視線を飛ばした。

 早くここから離れないと芹崎さんが倒れてしまう。

 悠長としている時間はなかった。

 にも関わらず、担任は首を横に振る。


「そういうわけにもいかない。生徒がこの体験をしなければ、修学旅行に来た意味が――」

「ラフティングをしなくても、修学旅行に来た意味は十分にあります! それよりも、今は芹崎さんの体調を第一に考えるべきです!」


 担任の言葉を遮って俺は叫ぶ。

 担任は俺の声に一瞬狼狽うろたえると、芹崎さんの方へ視線をずらした。

 ようやく気づいたのだろう。

 大きくため息をつくと、頬を緩めて俺に言った。


「……こういうのは、彼氏の仕事なんだな」

「っ……そうです」

「俺が悪かった。芹崎に付き添うのは荒巻に任せよう」

「ありがとうございます」


 そうして俺は担任に許可を取ったあと、とりあえずホテルへと向かうのだった。

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