四十一話 名前呼び、愛称呼び

「――落ち着きましたか?」

「他人事かよ。誰のせいだと思ってるんだ……ったく、調子に乗り過ぎだ」


 あの後、滅茶苦茶恥ずかしくなってしまった俺は部屋についているトイレに駆け込み、ほとぼりを冷ましていた。


 ……男のさがというものは実に忌々しいな。

 芹崎さんとの距離が近くなればなるほど下半身が熱くなる。


 と言っても、一人で致したわけではない。

 そもそもやったことなんてないし、第一、芹崎さんが近くにいるのに出来るはずがない。

 時間を置いて、熱が引くのを待っただけだ。


 それと同時に頭の熱も冷まして冷静さを取り戻した俺は、満を持してトイレから出てきていた。


「満更でもなさそうでしたけど?」

「うるさい」


 このままいけば、確実に芹崎さんのペースだ。

 同じ道を辿らないように、何としてもこのペースを崩さなくてはいけない。


 さて、一体どうしたものか……。


 思考を巡らせた俺は、ふと気になることが思い浮かんだ。

 特に会話が続きそうな気配もなかったので、俺はその気になったことを芹崎さんに打ち明けることにした。


「……そういえば、芹崎さんって夜どうするんだ?」

「あぁー……夜、ですか」


 急にぎこちなくなった芹崎さん。


 彼女は午後5時から猫になってしまうため、それ以降は俺や蓮の前以外では姿を見せることが出来ない。

 身代わりがいるわけでもないので、彼女が猫になった後は彼女の姿も見えなくなってしまう。


 今まで特に悩んでいる様子もなかったので大丈夫と思っていたのだが……今の反応を見る限り、どうやらそうでもなさそうだ。


「えっと……もしかして、何も考えてない?」

「うぐ……」


 図星らしい。

 芹崎さんの可愛らしい反応が、それを物語っている。


「ど、どうしましょう……」


 すると彼女は俺の身体に縋りつき、涙目で俺のことを見つめてきた。


「どうするって言っても、今更どうしようもないよな。……俺が猫を連れ込んだってことにするか」

「そ、それはいくらなんでも申し訳ないですよ!」

「でも、もうこれぐらいしか方法がないだろ。それとも、何か他にあるのか?」

「それは……」

「ないだろ? だからこれでいいんだよ」


 あの担任なら話が通じそうだし、ゴキブリもきっと俺に力を貸してくれるだろう。

 俺一人じゃ限界があるだろうけど、信用出来そうなやつに協力を仰げば何とかなる。


「芹崎さんと同じ部屋に泊まる人は誰?」

「泊まる人、ですか。……白銀さんです」

「有紗か!」


 俺は思わず立ち上がる。

 これは好都合だ。

 有紗なら、きっと俺に協力してくれる。

 体育祭から顔を合わせてないのが少々気がかりだが、何とかなるだろう。


 そしたら、芹崎さんの部屋のことは有紗に任せるとして……


「……名前、呼び」


 俺が芹崎さんをどうするか思考を巡らせていると、ふと彼女が何かをつぶやいた。


「何か言ったか?」


 見ると、彼女はぷくっと頬を膨らませている。

 ……ったく、どうしてこういつも可愛いのだろう。


「白銀さんは、名前呼びなんですね」

「ん? あぁ、有紗には名前で呼んでほしいって言われたからな」

「……白銀さんだけ、ずるいです」

「…………」


 今はそんなこと言ってる場合じゃないと思うんだけどなぁ。

 まぁでも、芹崎さんが可愛いからいいか。


「芹崎さんも、名前で呼んでほしいのか?」

「っ……は、はいっ!。出来ればっ!」


 コクコクと頭を縦に振る芹崎さん。


 名前呼びは告白してからと思っていたんだが……芹崎さんがそういうなら、多少早めても問題ないだろう。


「有香猫、さん?」

「『さん』いらないです」

「……有香猫」

「はいっ!!」


 キラキラとした笑顔で元気よく返事する有香猫。

 その笑顔で、俺の胸にある何かが射抜かれたような気がした。


 ……ダメだ、俺。

 ここで抑えなくちゃ、さっきの二の次になるぞ。


「じゃあ……!」

「ゆ、ゆーくん?」


 突然、聞き慣れない単語が俺の耳をついた。


 な、なんだ? ゆーくんって……。


 俺の疑問を見透かしたように、有香猫が喋り始める。


「祐也君のことです! 祐也君が私のことを『有香猫』と名前で呼んでくれましたので、私ももう少し距離の近い名前で呼びたくて……」

「それで、ゆーくん?」

「はい!」


 ……これは、やばい。

 嬉しすぎて、頭がどうになってしまいそうだ。


 そこへ追い打ちをかけるように……


「ゆーくんっ!」


 有香猫お得意のあどけない笑顔で、俺の愛称を口にする。


 もう、歯止めは聞かなかった。


 気づいたら、俺は有香猫のことを抱き締めていた。


「ふぇっ……!? ど、どうしたんですか!?」


 突然の俺の行動に、戸惑いを見せる有香猫。


『ふぇっ』とか……。


「……マジで」


 有香猫の前ですら、俺は悶えを隠すことが出来なかった。

 再度、俺の鼻腔を満たす甘い匂い。

 俺の……好きな匂い。


「えと……ダメでしたか?」


 胸の中から、不安げな声が聞こえてくる。

 それを否定するように、俺は抱き締める力を更に強めた。


「……ダメじゃない。ゆーくんでいい。……ゆーくんがいい」

「……分かりました。じゃあ、これからゆーくんとお呼びしますね」

「あぁ」


 俺が返事をすると、有香猫も俺の背中に腕をまわしてきた。


 有香猫をどうするかは、また後で考えよう。

 今は……彼女と一緒にいるこの時間を噛み締めたい。


「ゆーくんっ、ゆーくんっ」


 俺の愛称を幸せそうに連呼する有香猫。


 ……どれだけ俺の理性を崩そうとすれば気が済むんだ?


 俺は再び理性が崩されないように踏みとどまりながら、彼女の温もりを感じるのだった。

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