episode3

「う、んしょ」

 講義で使う本を見つけたのだが、よりによって本棚の最上段に収まっていた。背伸びをして手を伸ばしても、かすりもしない。男性の平均身長ギリギリの身である自分には、どう頑張っても無理だった。

「なんであんな高いところに置くんだよ」

 辺りを見回すが、踏み台が見当たらない。もうすぐ講義が始まる時間だ。出直すか、とあきらめかけた時、「その赤い背表紙の本?」と背中越しに声がした。振り向くと柊が立っている。

「柊さん。はい、あの、すみません」

「いいさ。今、踏み台使用中だからね」

 長身の柊は、いとも簡単に本を取り出した。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 身長があるのがうらやましい。

 上目遣うわめづかいに柊を見ると、「物を取る時と待ち合わせの目印くらいしかあんまり重宝がられないよ。三澤くんくらいで十分だよ」と、また見透みすかされた。

 そんなに分かりやすいのだろうか、俺って。頬をさすりながら軽くショックを受けていると、「もうすぐ講義始まるんじゃないか?」と柊が時計を指差した。

「あ、ほんとだ。ありがとうございました」

 柊にもう一度礼を言い、俺はカウンターに向かった。

 あの日以来、柊にからかわれることはなくなった。秋山と同じように俺とも接してくれるようになり、ちょくちょく柊の家に酒を飲みに行くようにもなっていた。その都度、酔い潰れる秋山。少しは学習してほしい。

 カウンターで本の貸出手続きをしていると、「三澤くん」と赤井が駆け寄ってきた。彼女とは、よくここで会うようだ。

「おはよう、赤井」

「おはよ。あ、それ。手の届かない場所にあって取れなかった本だ」

 彼女は俺の手元の本を見ながら、持っていた二冊の本をカウンターの上に置いた。

「司書の人に取ってもらったんだ。届かないよな、あそこ」

 赤井は「無理、無理」とうなずいて笑った。

「じゃあ、読み終わったら知らせるよ。いるだろ?」

「うん、ありがと。そういえば、秋山くんは?」

 赤井は辺りを見回す。俺のそばにはいつも秋山がいると思っているらしい。

「アイツはバイト。午後から来るって」

「じゃあ、お昼一緒に食べない?」

 赤井が俺の顔をのぞき込んできた。予定も入っていないので「いいよ」と答えると彼女は「やったぁ」と声を上げる。

「じゃあ、教室まで一緒に行かない?次の講義、出るでしょ?」

 赤井は、せがむように俺のシャツの袖口を少し掴んだ。じっと俺を見つめる赤井に、「いいよ。もうすぐ始まるから急ごう」と答えながらも、頭の中では秋山から聞いた田村の話を思い出していた。

 ふと、さっきまでいた棚に目をやると、柊がこっちを見ている。顔色が悪いように見える。声をかけようとすると、彼は背を向けて奥の棚の方へ行ってしまった。

 ……どうしたんだろう。

「どうかした?」

 貸出手続きを済ませた赤井が、本を鞄の中に仕舞いながら聞いてきた。

「あ、いや。行こうか」

 柊のことが気にはなったが、講義に出るために赤井と二人で図書館をあとにする。


 講義が終わり、学生たちが教室の出入口に流れ込む。混雑する出入口を横目で見ながら、悠々と鞄にノートや筆記具を片付けていると、赤井が席までやってきた。

 教室から大半の学生が出るのを待ってから、俺たちはラウンジへと向かった。

「ねぇ、三澤くん」

「なに?」

「あのね、私も秋山くんみたいに祐一って呼んでいい?」

 赤井が伏し目がちに聞いてきた。

 ……まぁ、名前くらいいっか。

「いいよ」

 そう答えると、赤井は嬉しそうに「ほんと?」と俺の顔をのぞき込んだ。その時、彼女の肩からサラリと落ちた髪の毛に意識を取られ、返事をするタイミングが遅れてしまった。慌てて「いいよ」と答えると、赤井は「ふふ」とさっきよりも嬉しそうに顔をほころばせる。

 彼女があまりにも嬉しそうにするものだから、俺もいつの間にか笑顔になっていることに気付く。

 ラウンジは学生たちで賑わいを見せており、キョロキョロと空いている席を探す赤井に俺は「中庭で食べようか」と提案した。

 賑やかなラウンジを出て中庭に着くと、数人の学生が各々芝生に寝転がって日光浴をしている。俺たちは少し離れた場所に座り、買ってきたサンドイッチを広げる。

「ねぇ、祐一」

「なに?」

「私たち、なんか恋人同士みたいだね」

 赤井が恥ずかしそうに顔を伏せながら言った。

「あのね。私、祐一のことが好きだよ」

 彼女は顔を上げ、「付き合ってくれる?」と俺を見つめた。

「ありがとう。――でも、ごめん。今は誰とも付き合うつもりないんだ」

「どうして? 私、祐一の勉強の邪魔しないよ」

「そういうことじゃないんだ」

「私のこと嫌い?」

 赤井は俺を見つめながら、俺の手を握りしめた。

「違うんだ。赤井、ごめん」

 そう言いながら、もう片方の手で赤井の手をどけようとすると、彼女に両手を握られてしまった。手を握り合い見つめ合う俺たちは、周りから見たら恋人同士にしか見えないだろう。

「赤井」

「いや、諦められない。祐一、私のこと嫌い?」

「赤井は……可愛いと思うよ。でも、ごめん。付き合えない」

「どうして? 私こんなに祐一のことが好きなのに」

 俺は今にも泣き出しそうな赤井から、逃げるように視線をらした。

 どう言えば分かってくれるのだろう。何故、分かってくれないのだろう。俺の気持ちが、赤井に通じていないこの時点で、彼女とは合わないと思うのだが、それを伝えることすらできない気がする。

 このままだと、彼女に押し切られて付き合うことになってしまいそうだ。

「しつこい女の子は嫌われるよ」

 いきなり背後から声がした。振り返ると、柊が本を一冊持って立っていた。

「自分の気持ちを伝えるのは自由だが、押し付けるのは迷惑だよ」

「そんな、私……」

 突然の闖入者ちんにゅうしゃに驚いた赤井は、握っていた手を離した。

「柊さん、言い過ぎです」

 苦言くげんする俺に、「君がキッパリと断らないからいけないんだよ」と少し強めの口調で柊が言った。

「知り合い、なの?」

 柊と俺を見比べながら尋ねる赤井に、「うん、まぁ。――赤井、ごめん。俺、君とは付き合えない」ともう一度、気持ちを伝える。

 彼女は黙って俺を見つめた。

「……これからも、友達でいてくれる?」

「もちろんだよ」

 すると彼女は安心したように顔をほころばせ、「分かった。じゃあ、私行くね」と言って立ち上がると、柊を一瞥いちべつして駆けていった。

 柊は、何事もなかったように俺の隣に寝転がると目を閉じた。

「君も横になれば? 気持ちいいよ」

「柊さん、さっきのは……」

「言うべきことはきちんと言わないと彼女が逆に傷つくよ。まだ脈はある、と彼女は思ってる。今後も、彼女はそのつもりで君のそばに来るだろう。君はそれでもいいの?」

 柊は目を開け、俺を見る。

「よくはないですけど」

 俺は口ごもる。

「じゃあ、きちんと断らないと」

「断りましたよ」

「断れてなかったよ」

「……じゃあ、どう断れと言うんですか?」

 何を言っても伝わらず、空しい気持ちにさえなったというのに、あれ以上、どう言えというのか。

 ――あ。

 俺はふと、以前、柊の部屋に押しかけてきた女性のことを思い出す。状況がまったく違うのに、何故か彼女と赤井が重なって思えた。

「さぁ。それは君が考えないと」

 柊は素気なく言うと、再び気持ちよさそうに目を閉じた。俺は柊の綺麗に整った顔を見つめ、そのまま勢いよく寝転がった。

「あー、面倒臭い」

「恋愛は苦手?」

「苦手ですね」

「そんな感じがするよ」

 柊がクスクス笑った。

「ひどいな。まぁ、当分恋愛とかは遠慮したいですね」

 俺は寝転がったまま伸びをする。

「……どうして?」

 柊が俺の方に顔を向けた。

 俺は少し考え、「気持ちが伝わらないのがしんどいです。俺には向いてないんですよ」と淡々とした口調で答えた。なによりも今は、秋山や柊たちと酒を飲んでいる方が楽しかった。

「それは本当の恋愛をしてこなかったからじゃないか?」

 柊の言葉に俺は紗織の顔が頭に浮かんだ。ここ数か月、思い出すこともなかった彼女のことを、彼女との日々を、俺は思い巡らせる。

「……本物か偽物かなんて、分かりません。でも、今までのものが偽物だったていうのもなんだか悲しいじゃないですか」

 楽しい思い出だってもちろん残っている。辛いことだけではなかった。それが偽物だったとは、思いたくない。

「……そうだな」

 柊はそのまま口を閉ざした。俺は、午前中に見た顔色の悪い彼を思い出す。

「大丈夫ですか?」

「なにが?」

「いや、さっき顔色悪かったから」

「そう? ――全然平気だよ。今は、すごく落ち着いている」

 彼は穏やかな声でそう言うと、俺に笑いかけた。

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