episode4

誰かが呼んでいる気がする。

 ――誰だ。

 俺を呼んでいるのは誰。

 ――心地いい。

 まだこのままでいたい……。

 もう少し。

 あと少しだけ――。

「……祐一! 起きろって!」

 身体を激しく揺すられ、俺は強制的に現実の世界に引き戻された。目の前に秋山の顔があり、思わず声を上げると秋山は呆れ顔で「やっと起きたか」と言った。

 さっきから俺を呼んでいたのは秋山だったのか。まだ覚醒しきれていない中ゆっくりと起き上がると、隣で片膝を立てて本を読んでいた柊が「よく眠れた?」と本から顔を上げて俺を見た。

 ぼんやりしていた意識が徐々にはっきりとしていく。ここは大学の中庭だ。ああ、あのまま俺は――

「あの、俺、寝てました?」

「ぐっすりと」

 柊がクスリと笑う。

「もう授業始まるぞっ!」

「あ、おい。待てよっ」

 歩き出す秋山に俺は慌てて立ち上がり、

「柊さんは、まだここに?」

「俺ももう行くよ」

 柊は本をパタンと閉じて立ち上がり、「勉強頑張って」と図書館へ戻っていった。俺は柊の背中を見送り、先を歩く秋山を追った。

 走りながら時計を確認する。柊の休み時間はとっくに過ぎているはず。それなのに、どうして。

「秋山、待てって」

 やっと秋山に追いつき息を整える。

「なに怒ってんだよ」

「怒ってねぇよ」

「怒ってるだろ。なんかあったのか?」

「お前、あんなところで爆睡するなよ。いくら校内だからって、柊さんがいなかったら確実に財布抜かれてたぞ。日本の安全神話は崩壊してんだからな」

 秋山はブツブツ言いながら俺の不用心をたしなめた。

「それで怒ってたのか?」

「だから怒ってねぇよ」

「怒ってんじゃん」

 俺は口をとがらせる。

「すまん」

「俺に謝るなよ」

「じゃあ、撤回する」

「ばか」

 やっと秋山が笑った。

 ……だから柊は、そばにいてくれたのだろうか。でもそれなら、起こしてくれればよかったのに。

 俺は振り返り、静かにたたずむレンガ造りの図書館を見つめた。


 講義も上の空で、俺はさっき見た夢のことを考えていた。

 夢の中で一緒にいた相手。夢の中の俺は笑っていた。その相手と色々な話をした気がするが、どんな話をしたのかは思い出せない。

 それどころか、その相手が誰なのかも覚えていなかった。ぼんやりとした顔の輪郭りんかくが浮かぶだけではっきりとしない。思い出そうとすればするほど輪郭りんかくおぼろげになり、煙のように消えてしまう。

 覚えいているのは、その相手とこのままずっと一緒にいられたらと望んでいたことくらい。そして、その人の唇が俺の唇と――

「……誰だったんだろう」

 頬杖をつきながら呟いた。

 もしかしたら、赤井か。あんなことがあったから、そんな夢を見たのだろうか。俺は二列前の席に座る彼女の背中を見つめた。

「なにが?」

 突然、隣の秋山が前を向いたまま尋ねてきた。秋山の視線の先では、若い講師が憲法の解釈に関して持論じろんを熱弁しているところだった。

 聞こえてたのか。内心ないしん、しまった、と思いつつ、それを表に出さないように、「なんでもね。にしても眠いな」と話をらした。

「お前、さっき寝てたじゃねぇか」

 秋山が渋顔じゅうめんになった。

「まだ眠い」

「贅沢いうな。俺なんかバイト後もこうして講義でてんだぞ」

「そりゃ、お前が日にち間違えてシフトに書き込んだからだろ? 自業自得だっての」

「ちぇっ、堪んねぇな。腹減った。あとでラウンジ行こーぜ」

 秋山はお腹をさする。さっきから秋山の腹の虫が食べ物を催促さいそくしていた。バイトが思いのほか忙しく、昼飯を食べる時間がなかったらしい。

「そうだな。俺も腹減った」

「お前、食ってないの?」

「いや、食った。でも、なんかあんまり味わえなくてさ」

「は?」

「いいんだよ」

 講義が終わると、一目散いちもくさんに出入口へと向かう秋山について教室を出た。ラウンジへ向かう間、秋山はなんかおかしいとブツブツぼやいている。

 なんでそういう時だけ鋭いんだ。俺は秋山に気付かれないように小さく溜め息をついた。

「あ、赤井だ」

 俺は一瞬ドキッとして立ち止まる。あの夢のせいだろうか。秋山の視線の先を目で追うと、同じ法律学科の早瀬と赤井が仲良さそうに歩いている姿が目に入った。

「アイツも忙しい女だな」

 呆れる秋山。俺は拍子抜けした。

 あの夢は、いったいなんだったんだろう。

 俺は、先を歩く赤井の背中を見つめながら、そっと唇に指をあてた。

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