episode2

 ドアの開く音が聞こえ、ハッとして顔を上げる。耳をまし、座り込んだまま固まる。足音がこっちに近付いてくる。

 ――伊集院だろうか。

 インターホンのベルが鳴る。

 返事ができない。泣いたことに対する恥ずかしさもあるが、なにより今は誰とも話をしたくなかった。俺は身体を小さくしながら、相手が諦めるのを待った。

「三澤くん」

 ドア越しに名前を呼びかけられた。

 ――柊だ。

 俺は、ビクリと身体を震わせた。また涙が込み上げてくる。

「三澤くん、大丈夫?」

 柊が心配そうな声でドア越しに話しかけてくる。

 まるで駄々をこねている子供だ。でも声が出ない。俺は苦しさのあまり小さくうめいた。

「三澤くん? ……からかってるつもりはなかったんだ。すまなかった」

 ドア越しに謝る柊に、苛立いらだちを覚える。

 何故、謝るのか。俺の泣いた理由も分からないくせに。これまでのように、からかわれたことに悔しくて、泣いたとでも思っているのか。それで、謝ってすませようというのか。終わらせようというのか。また同じことを繰り返すのか。俺が、こんなに苦しくて辛い思いをしているのに――

「そう、じゃない」

 俺は膝に顔をうずめながら小さく呟いた。

「三澤くん? そこにいるの?」

「……違うんだ。そうじゃない。そういうことじゃない」

 俺は唇を噛んだ。

 今頃気付くなんて……。それとも、無意識に考えないようにしていたのだろうか。自分を守るために。傷つかないために。

「三澤くん?」

「あんたは俺を見てない。見てないんだ。……彼女たちのように。秋山や伊集院さんのように、俺のことをちゃんと見ていないじゃないか!」

 こらえ切れず、胸の内にあるものを吐き出した。

 柊はなにも答えない。ただ、ドアを挟んだ向こう側にいるのは分かる。

「じゃあ、俺はあんたにどうやって接したらいいんだ?! どんな顔であんたと話せばいいって言うんだ? あんたのいつもの作りものの笑顔で、中身のない会話をしろって言うのか?! これまでのように!」

 溢れる気持ちを押さえきれず、俺は立ち上がると勢いよくドアを開けた。そこには、困惑した表情の柊が立っていた。

「俺を見ろよ! ちゃんとその目で俺を見てくれ! 俺は暇つぶしの道具なんかじゃない!」

 叫びながら、大きく目を見開いたまま立ち尽くす柊に詰め寄った。

 ――そうだ。俺は自分という存在を認められていないのが、悲しかったのだ。

 俺は柊を見据える。柊の顔を正面から見るのは、これが初めてだった。これまで、からかわれるのが嫌でいつも俺は柊から逃げるように視線をらしていた。だから、まともに柊の顔を見たことがなかった。

 けれど、今は違う。

 俺は自分の存在を知らしめるように、柊の茶色がかった瞳を見据みすえ続けた。これまでと違い、たまりかねたように視線をらしたのは柊だった。

「……すまない。そうだな、酷いことをした。君を傷つけてしまって、申し訳ない」

 神妙な面持おももちをした柊が深々と頭を下げた。

「いえ、もういいんです」

 俺は、ずっと自分の中にあったもやもやとしていたものの正体が分かり、すべてを吐き出したことで随分と気持ちが楽になっていた。

「部屋に戻ろう」

 柊の言葉に少し躊躇ちゅうちょする。

「けど、あんな飛び出し方しちゃったし恥ずかしい……。あ、でも秋山いるしな」

 ブツブツと決めかねていると、柊が笑った。

「大丈夫。どうせ今頃、ユキも酒入ってテンション高くなってるだろうから覚えてないさ」

「ユキ?」

「ああ、伊集院のこと。アイツ、雪の都と書いて雪都ゆきとって言うんだ」

「ユキト。綺麗な名前ですね」

「寒そうだろ?」

 意地悪そうに柊は笑う。これまでとは違う、いたずらっぽい笑顔。それを見て俺は、嬉しくてなんだか胸が熱くなった。

「そんなことないです。いい人ですよね、伊集院さん」

「……いい人、か」

 柊が短く呟く。

「そうだな。アイツは優しい。――三澤くん、行こうか」

 柊とともに部屋に戻ると、伊集院がひとりで手巻寿司をせっせと作っていた。皿の上には、いろどり綺麗に作られた手巻寿司が、いくつも置かれている。秋山が作ったモノとは大違いだった。

「そろそろ戻ってくるんじゃないかと思ってたんだ。さぁ、どんどん食べて」

 伊集院が、俺たちに席に着くようにうながした。何事もなかったように接してくれる彼に感謝する。俺は席に着くと、手巻寿司をひとつ手に取りながら、「伊集院さんって、普段料理するんですか?」と尋ねた。

「一人暮らしだから、一応は。じゃないと餓死しちゃう。挙句、孤独死という特典付きで」

 俺はクスリと笑う。

「大袈裟だな。外で食べればいいじゃないか」

 柊が言うと、「そう何回も外食していたら財布がもたないだろ。お前と違って飯を作ってくれる別宅べったくなんてないんだよ、俺は」と伊集院は反論した。そして俺に、「君も料理してる?」と尋ねてきた。

「……時々。まだ慣れなくて」

 一人暮らしをするようになって、初めて母親の存在のありがたみを感じていた。

 伊集院は当時を思い出すように目を細め、「俺も学生時代はコンビニ弁当ばかりだったな」と笑った。

「そうなりますよね」

「昔、冷蔵庫にキャベツしかなくてさ」

「あ、今うち似たような状態ですよ」

 今朝、冷蔵庫を見たらネギしかなかったのを思い出した。

「泣ける。ここの冷蔵庫からなんでも持っていっていいからね。今度、お兄さんがご飯奢ってあげるよ」

 主の了解も得ずに伊集院が言った。

「あはは。ありがとうございます」

 ふと柊を見ると、缶ビール片手にこっちを見ている。ただ、心ここにあらずといった様子で、俺たちを、というよりは、なにか別のものを見ているようにも見えた。考えごとでもしているのだろうか。

「柊さん?」

 気になって声をかけると、「え、あ、何?」と柊が少し驚いたように声を上げた。

「どうかしたんですか?」

「いや、なにも」

 柊はそう言って、手に持っていた缶ビールを口へ運んだ。

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