episode8

「いないな」

 秋山は館内を見回しながら短く呟いた。

 レポートの提出期限間近となり、図書館にはギリギリまでさぼっていた多くの生徒たちが押し寄せていた。備え付けの机はすべて埋まり、皆、黙々とレポートを書いている。

 俺はそんな彼らを横目で見ながら、「だな。事務所にいるのかもしれない。もうすぐ時間だし、講義が終わってからにするか」と秋山に向かって言った。

「そうだな。教室に行くか」

「ああ」

 きびすを返して出入口に向かいかけた時、「おはよ」とすぐ横の棚から赤井が顔を出した。小花柄のワンピースを着た彼女は、「三澤くんたちもレポート?」と可愛らしく笑いながら首を少しかたむけた。それと同時に彼女の長い髪の毛が肩から流れ落ち、シャンプーの香り――かどうか分からないが、とにかくいい匂い――が鼻孔びこうに届いた。

「いや、俺たちはもう書いたよ」

 俺が答えると、「そうなんだ。私、今から本読むところなんだ」と赤井は照れ臭そうに笑った。

「え、今から?!」

 思わず俺は声を上げる。

 笑っているが大丈夫なのだろうか。あと二時間で完成させることができるのか。さすがの秋山も呆れた顔で赤井を見ていた。

「コレ読むか? 俺まだ返してないけど」

 助け船を出すように秋山が鞄から本を取り出した。俺たちが昨日まで世話になっていた本だ。

「でも、時間が」

「俺たち、これをほぼ丸写ししてレポート書いたぞ」

 言うや否や「貸して下さい」と赤井が秋山に向かって両手を伸ばした。

「じゃあ、カウンターに行くか」と秋山。

「俺、少しこの棚見てていいか?」

 俺がそう言うと秋山は苦虫にがむしつぶしたような顔になり、「じゃあ、カウンターで待ってるぞ」と赤井とともにカウンターへと歩いていった。

「ああ」

 二人を見送ると、すぐうしろの棚の本に手をかける。前から読みたかった本だった。他にも面白そうな本を何冊か見つけ、どれを借りようかと思案していると「可哀相に」と背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 振り返ると、あれほど探して見つからなかった柊が数冊の本を抱えて立っていた。

「あ、昨日はどうも」

 柊を探していたはずなのに、いざ本人が目の前に現れるとなにを話していいのか戸惑い、言葉がうまく出てこない。頭の中で色々な言葉を思い浮かべたが、結局、出てきた言葉は無難で当たりさわりのないものだった。

 口下手な自分が嫌になる。そして、どうして秋山と一緒にいるときに出てきてくれなかったのか、となにひとつ悪くない柊を恨めしく思った。

「いいえ、こちらこそ。にしても、あの女の子。君の姿を見つけて駆け寄っていったのに」

 柊は、カウンターで手続きをしている秋山たちの姿を見ている。

「そうなんですか?」

「そうなんですよ。名残惜なごりおしそうな顔してたでしょ、彼女。君は彼女より本なのかい?」

 呆れ気味の柊に俺は肩をすくめる。

「そんなつもりは……」

「嫌いなの? 彼女のこと」

「そんなことは、……可愛いと思いますよ、彼女のこと。でも、今はあまり……」

 言葉をにごす俺に、柊は目を細める。

「失恋でもした?」

 答えないでいると、「分かりやすいね、君」と柊が苦笑する。

「違います。今は、勉強だけに集中したいんです」

 ムキになる俺に柊は棚に寄りかかりながら、「でも昨日、たくさんの他人ひとと付き合うって言ってなかった?」

「それは……。そういう意味の付き合うじゃなくて」

 げ足を取られて、しどろもどろになる俺に柊が顔を寄せる。

「忘れさせてあげようか?」

「は、あの?」

 困惑する俺に柊はさらに顔を近付け、「さすがにこれ以上は、マズいかな?」と意地悪く言った。柊の息が顔にかかり、驚いた俺は反射的にうしろに顔を引いた。それがいけなかった。うしろに本棚があるのを完全に忘れていた。俺は思い切り頭を打ちつけた。後頭部に激痛が走る。

「っつぅ」

 あまりの痛さに頭を抱えてしゃがみ込む。

 クスクスと柊の笑い声が聞こえたかと思うと、「どう? 忘れた?」と彼は俺の顔をのぞき込んできた。頭の痛みもあってか、柊への怒りが一気に込み上げる。

「なにすっ」

「しー、静かに」

 柊が人指し指を唇に当てた。

「図書館ではお静かに」

「いい加減にして下さい!」

 悪びれた様子もなく微笑んでいる柊をにらみつけ、俺は声を抑えながら怒りをぶつけた。そんな俺に「可愛いね」と柊が目を細める。俺は悔しさのあまり顔をゆがめた。

 この人は他人ひとを怒らせる天才かもしれない。

「……もういいです」

 前言撤回ぜんげんてっかい。やっぱりダメだ、この人。柊と話をするのも嫌になり、顔をそむけると「あれ、もう終わり? 怒ってる?」と柊はつまらなさそうな声を出した。この状況で、怒らないでいられる人間がいるのなら会ってみたいものだ。人をからかうのもいい加減にしてほしい。

 頭を押さえながら立ち上がると、「もういいの?」と首をかしげながら柊も立ち上がった。

「もういいって……」

 振り返ると、柊は意地の悪そうな笑みを浮かべながら、さっきと同じように棚に寄りかかって俺を見ていた。

 彼が何を考えているのかサッパリ分からない。俺は困惑しながら、「いったいなに考えてるんですか?」と柊に尋ねた。聞いても無駄だと思ったが、柊がどう答えるのか気になった。

 すると柊はクスリと笑った。

「三澤くんのこと」

「は?」

「三澤くんの反応見るのが楽しいんだよね」と柊。

 俺は泣きそうになった。

 ああ、本当にこの人は他人ひとを傷つけることになにも感じない人なんだ。そういう人もいるんだ。

「もう、いいです」

「君にはまだ、理解わからないよ」

 柊は意味深に笑うと、フロアの奥へと消えていった。


「どうした?」

 頭をさすりながらカウンターまで行くと、壁に寄りかかって待っていた秋山が声をかけてきた。

「ちょっと棚に」

「ばかだなぁ。で、仏頂面ぶっちょうづらなのか? あはは」

 おかしそうに笑う秋山を俺はにらんだ。

 他人事ひとごとだと思って。少しくらい心配してくれてもいいではないか。今日は散々な日だ。

 こぶのできた頭を撫でながら息をついた時、借りようとしていた本をあのまま棚に置きっぱなしにしてきたことを思い出した。俺はたまらず壁にヨロヨロと倒れかかった。

「おい、大丈夫なのか、頭?」

 打ちどころが悪かったかと心配になったのか、秋山が不安げな顔でのぞき込んできた。

「大丈夫」

 俺は額に手を当てて溜め息をつきながら、壁から離れた。柊のことをうまく秋山に説明することができない。俺でさえ、よく分かっていないのだから。それに、説明できたところで秋山に理解してもらえるとは思えなかった。

 俺はもう一度深い溜め息をつき、顔を上げる。

「……赤井は?」

 赤井の姿が見当たらないことに気付き、辺りを見回しながら尋ねると秋山は肩をすぼめてみせた。

「先に行ったよ」

「そっか」

 レポート書かなきゃいけないもんな。納得していると、「そっかじゃねぇよ。ったく、気を遣わなきゃいけない俺の身にもなれよな」と今度は秋山が俺をにらみ返す番だった。

「悪い悪い」

「ラーメンの話はチャラな。それより、さっきカウンターの人に柊さんが奥の事務所にいるか聞いたらさ、どうも館内にいたみたいなんだよ。だから、講義終わったあとまた来よーぜ。どした?」

 柊の名前に反応して思わず顔を引きつらせると、「なんだよ、ラーメンそんなに食いたかったのか?」と秋山が笑った。

「なんでもない。それより、教室に急がなきゃ」

「おうよ」

 ここに居続けるのが苦痛になっていた。やはり、柊とは合わない。関わりたくない――本気でそう思った。

「赤井もなぁ」

 教室に向かいながら秋山が呟く。

「え?」

「ん、いや。なんでもない」

 言葉を濁す秋山に、俺は足を止める。

「もしかして、お前……」

「あ? 違う違う。そうじゃねぇよ。んー、いや。さっきさ、同じクラスの田村がさ、いたんだよ」

「ああ、あのいつも一人でいる?」

 入学当初から、ずっとひとりを貫いている猛者もさ。俺には真似できない。そういう意味では、一目置いちもくおく存在だった。

「そうそう。その田村見つけたらさ、赤井のヤツ、田村んとこに一目散いちもくさんに走り去っていったんだよね」

 秋山が気まずそうに言った。

「なんじゃそりゃ」

「ま、お前も田村も赤井のタイプなんだろ? 相手にされてなかったけど」

 秋山は溜め息をつき、

「女って、強いな」

「……だな」

 その瞬間、二人の女性の顔が脳裏に浮かんだ。何故このタイミングで彼女たちの顔が急に浮かんだのか分からない。タイプの違う二人の女性。けれど、何故か同じタイプの人間に俺には思えた。

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