episode9

 結局、急に用事を思い出したと秋山に嘘を言って月宮館に帰ってきた。文句を言いたげだった秋山に申し訳ないと思いはするが、どうしても柊には会いたくないという気持ちが勝ってしまった。

 コロコロと態度が変わり、掴みどころのない柊。これ以上、からかわれるのはご免だった。

 溜め息をつきながらエレベーターから降りると、自分の家の前に男が立っているのが見えた。

 黒いポロシャツにホワイトデニムというちで柊くらい上背うわぜいのある男。よく見ると、顔も柊に負けず劣らずの整った顔立ちをしている。

 そのちからしてセールスマンでないのは分かった。それとも、今のセールスマンはスーツを着ないのだろうか。よく分からない。

 誰だろう、といぶかしみながら「なにか用ですか?」と声をかけると、男は俺を見てニッコリと笑った。

「ふーん」

 まるで品定めでもするかのように、男は俺の頭から足先まで視線をわせた。気味悪く感じた俺は、この付近で不審者が出没しているというニュースを思い出す。対峙たいじしている男がそうかもしれない。いや、絶対そうだ。

 直感的にそう思った俺は、「あっ、しまった。大学にノート忘れた」と取りに行くフリをしてエレベーターへきびすを返した。

 自分でも下手な芝居だとは思うが、逃げてもすぐ捕まる自信があった。まず足の長さからして俺には勝ち目がない。悔しく思いながら、競歩のごとくエレベーターへ向かう。男が追いかけてくる気配はなく、代わりに「ハヤトイナイノ?」という謎の言葉を投げかけられた。

「はい?」

 なんのことだか分からず、警戒しながら振り返ると男は首をかしげた。首をかしげたいのは俺の方だ。

「あれ? 柊隼人の家じゃないの? ここ」

 男が、俺の家のドアを指しながら聞いてきた。

「ああ、柊さんなら隣ですよ」

 なんだ、変質者じゃなかったのか。そういえば、引っ越しの挨拶に行った時に〈ヒイラギハヤト〉と名乗っていた気がする。すっかり忘れていた。

 ホッとしつつ、柊の周りはこんなんばかりか、と心の中で突っ込んだ。

「え、そうなの?! あらら、間違えた。ごめんね」

「あ、いえ」

 俺はそのまま部屋へ向かいかけると、「君、気をつけてね」とすれ違いざまに男が言った。

「え?」

「アイツの好みのタイプだから。隣なんだろ?」

「あの、好みって……」

 困惑する俺に男は意味深な笑みを浮かべながら、「ところでノートはもういいの?」と言ってエレベーターに乗り込んだ。

 取り残された俺はわけが分からず、立ち尽くすしかなかった。

「なんだ、あれ」


 リビングのソファに腰を下ろし、大きく息をつきながら天井を見上げた。

「なんだったんだろ、あの人……。柊さんの知り合いみたいだから、関わらないほうがいいな」

 昨日、床で寝たせいであまりよく眠れなかった。首もまだ少し痛む。後頭部も痛い。痛みを意識すると色々思い出してしまう。落ち着くために静かに目をつむる。

 もう振り回されるのはうんざりだ。からかわれるのも嫌だ。関わりたくない。……いい人だと思ったのに。いい人だと秋山も言ったの、に……。

 ……次第に、意識が遠くなる。

 ああ、眠い――。


「……ん」

 音が聞こえる。

 小さな……。

 ――遠くで。

 なんの音だろう……。

 夢うつつの中、意識を耳に集中させる。音はだんだん大きくなり、やがてそれがインターホンのベルの音だと気付く。

「……誰だろ」

 まだ覚醒かくせいしきれていない身体をゆっくりとソファから起こし、立ち上がる。時計を見ると午後七時を少し回っていた。

 二時間も寝ていたのかと頭をかきながらインターホンのモニターを見ると、秋山の姿が映っていた。通話ボタンを押し「今ドア開けるよ」と伝えて玄関に向かう。

 ドアを開けると秋山が、「なんだよ、寝てたのか? 柊さんに夕飯誘われたんだ。お前も来いよ」と早口でまくし立てた。

「な、なに?」

 一気に目が覚めた俺は狼狽うろたえる。

「だから、柊さんの家に」

「行かない!」

 思わず声を張り上げる俺に、「はぁ? どうしたんだよ、急に」と秋山は怪訝けげんな顔をする。

「いや、ちょっと今、体調悪くて……」

 咄嗟とっさに誤魔化すと、「そうなのか?医者行ったか?」と心配そうな秋山。

 俺は胸が痛みながら「うん。少し横になれば大丈夫だから」と視線をらし、答えた。さすがに、秋山の顔をまともに見ることができない。

「診てあげるよ」

 声がしたかと思うと、秋山のうしろからさっきの男が顔を出した。どうして彼がここにいるのか。

「あの……」

「俺、医者だから診てあげるよ」

 男は言う。

「え、伊集院さん医者だったんですか?」

 秋山が驚いた様子で男に尋ねた。

「なんでお前、この人のこと知ってるんだ?」

 今度は俺が驚く番だった。状況が理解できない。

 秋山はきょとんとしながら、「え、だってさっきまで一緒に柊さんとこでお茶してたから。なに? お前、伊集院さんのこと知ってんの?」と逆に尋ね返された。

 すると、俺が答える前に伊集院が「ついさっき知り合ったんだ。彼の家と隼人の家を間違えちゃってね」と秋山に説明をし始めた。秋山は納得したようにうなずき、「祐一、せっかくだから診てもらえよ」と俺に言ってきた。

 困ったのは俺だ。

 柊の友人だという伊集院。絶対に関わり合いたくなかった。それなのに「じゃあ、お邪魔します」と伊集院は俺の横をすり抜けて玄関に入り込んできた。

「ちょっ」

「よかったな。俺、ちょっと柊さんに言ってくるわ」

 制止する間もなく、秋山は柊の部屋へと駆けていった。

「忠告、遅かったみたいだね」

 秋山のうしろ姿を力なく見送っていた俺は、「なんなんですか? いったい」と伊集院に、怒気をはらんだ眼差しを向ける。

 彼は肩をすくめ、「俺をにらまないでくれよ。アイツの悪い癖なんだ」と断りもせずリビングの方へ歩いていく。

「ちょっと、なに勝手に」

 伊集院を追いかけてリビングに入ると、彼はさっきまで俺が寝ていたソファに腰を下ろしていた。図々しいにもほどがある。やはり柊の知り合いなんてロクなヤツじゃない。

「隼人になにかされた?」

 伊集院はソファにもたれかかり、顎を人差し指でさすりながら、観察するように俺を見ている。まるで自分の部屋にいるかのようなくつろぎぶりだ。

「毎回、からかわれて迷惑してますよ!」

 撫然ぶぜんとしながら答えると、伊集院は声を上げて笑った。柊とは違った、人間味のある笑い方だった。それが意外で俺は笑われたことも忘れて見入ってしまった。

「あ、そう。そりゃ分かんないよな」

 伊集院はうんうんうなずきながら、「それすべて本気だから。アイツ、バイなんだ」と続けた。

 俺は意味が分からず、首をかしげる。そんな俺の様子をおかしそうに見ながら、「ああ、分かんないか。男も女もイケるってこと。バイセクシャル。分かる?」と伊集院。

「えっ?!」

 伊集院と目が合い、俺は慌てて後ずさる。

「俺は違うよ。ま、アイツの場合、女があまりにも簡単に落ちるから男に手を出したって感じなんだけどな。もう一度言うけど、俺はアイツとそんな関係じゃないから」

 伊集院は念を押すように言った。

 そういえば、前に柊がそんなことを言っていた。あの時は意味が分からなかったが、そういうことだったのか。

 ようやく合点がてんがいった俺に、なおも伊集院は続ける。

「だからさ、気をつけてね。ま、こんなこと言ったあとで言うのもなんだけど、いい奴ではあるんだ。嫌わないでやってくれ」

 言っていることが矛盾している。それに、あの人は本気ではない。全部、遊びで暇つぶし。他人ひとを傷つけて楽しんでいるだけだ。

 俺が顔をしかめると伊集院は立ち上がりながら、「世の中にはそういう人間もいるんだ。受け入れるかどうかは別として、それは知っておいた方がいい。君は特に、ね」と諭すように言った。

「え……」

「検察官目指してるんだろ? だったら、偏見は持つべきじゃないよ」

 伊集院は玄関に向かう。

「秋山くんには、少し熱があるから休ませたと伝えておくよ。隼人は君が仮病だと分かってるだろうけどね。じゃ」

「……あのっ」

 咄嗟とっさに俺は伊集院に声をかけた。

「なに?」

 振り返る伊集院に、「え、っと、柊さんとは、どれくらいの付き合いなんですか?」と尋ねた。いきなりの俺の問いかけにも嫌な顔をすることなく伊集院は「十年くらいかな」と答えた。

 十年――。

「どうして柊さんと?」

「言っただろ。いい奴なんだよ、アイツ」

 これまでになく優しい声で伊集院が言った。

 彼が柊のことを信頼していることは、その声を聞いただけで俺にも伝わった。

 ――俺の知らない柊は、伊集院や秋山の信頼を得る人間なのだ。

「おいでよ」

 伊集院が手を差し伸べてきた。戸惑いながら差し出された手をじっと見つめる。

「隼人のことが知りたいのなら、一緒にいこう」

「俺は、別に……」

「でも、気になるんだろう?」

「けど……」

 足が動かない。偏見を持っているつもりはない。けれど、柊に会うのが怖かった――。

「大丈夫。秋山くんも俺もいる。怖がる必要はないよ」

 伊集院は、まるで俺の心を読んでいるかのように、抱えている不安を取り除いていく。彼の言葉に、というよりも温かみのある彼の声に、俺は引き込まれていた。

「……はい」

 俺はようやく、柊の家に行く決心をする。そんな俺に伊集院は優しく微笑みかけた。

 一緒に廊下に出ると、「今日は手巻寿司らしいよ」と伊集院が愉快そうに言った。

「手巻寿司ですか?」

 俺は思わず聞き返した。男四人で手巻寿司って。秋山の提案ではないかと伊集院に尋ねると、そうだと彼はうなずいた。やっぱり。

「ただいま」

 伊集院とともに柊の家に入ると、ドタドタと自分の家のように秋山が駆けてきた。他人ひとの家なのに。それとも、もうそこまで打ち解けたのだろうか。

「祐一、大丈夫なのか?」

 秋山が俺の顔をのぞき込んできた。

「もう平気」

 俺が答えると、「でも少し顔色悪いぞ」と心配げな秋山。そんな彼に、「大丈夫だよ。熱もないし、寿司食べれば元気になるさ」と伊集院が言った。

 医者である伊集院の言葉に秋山は安心したように表情を緩め、「じゃあ、食おーぜ! 用意できてんだ」とリビングに向かってまたドタドタと駆けていく。

 俺は少し躊躇ちゅうちょする。奥には柊がいる。そう思うと、なかなか一歩が踏み出せないでいた。

「行こう」

 伊集院が俺の肩に手を置く。彼の手の温もりが伝わり、緊張が解れていく。俺は深呼吸をする。

「……はい」

 まっすぐ前を見据える。ひとりじゃない、そう思うと勇気がでた。

 俺は伊集院と一緒にリビングに向かって歩き出した。

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