第36話「かわいい妹とはかわいいだけじゃないということ(2)」
「璃亜、起きてたのか。明日も学校だし早く寝た方がいいぞ」
「ごまかさないでください」
「別にごまかしてなんか……」
「自分の気持ちをごまかさないで」
「璃亜どうしたんだ。そんな怖い顔して」
怒気の孕んだ声音に、俺しどろもどろに言葉を紡ぐ。
いつものふざけた調子、余裕のある様子とは違って、彼女の表情は真剣そのものだった。
「蓮くんの話を聞いててさすがに少しイライラしちゃいました。私も我慢できることとできないことがあるんですよ?」
一歩、一歩とこちらに近づいてきて、手を伸ばさずとも届く距離で璃亜は俺の瞳を射抜く。
胸を張って、一歩も引かずに口を引き結んで睨みを利かせた。
「私は蓮くんのことなら我慢できますが、蓮くんのことだけは我慢できません」
「はあ? 何を言って……」
「どうしていつも本心を話してくれないんですか。もしかしてぇ、自分一人でだいたいなんとかなるって思ってます?」
「意味わかんねえよ……なんでそんな機嫌悪いんだ、お前」
「蓮くん、いきなり機嫌悪くなる人なんていないんですよ? わかりますか? 日々の積み重ねです」
俺と璃亜との間に火花が散る。
冷静に努めたつもりだったが、璃亜の煽り口調につい声のトーンが下がる。
「ちょっと、蓮? 璃亜? ちょっと落ち着いて、ね?」
累さんは兄妹喧嘩を止めるため、慌てて俺たちの間に入る。
どうしたらいいのかわからないといった風に、視線を泳がせる累さん。
思えば、璃亜とここまで直接的に険悪になったのは初めてかもしれない。
「お母さんは黙っててください」
「…………璃亜」
しかし、累さんは璃亜の苛立ちをふんだんに含んだ声に委縮してしまう。
もしかしたら、累さんからしても、璃亜がここまで怒りの感情を表に出すのは珍しいことのかもしれない。
「蓮くん、本当はやりたいことがあるのに、私の、いえ、私たちのために我慢してるんですよね」
「勘違いだろ」
「この前の美術館楽しかったですか?」
「…………っ」
なんでこいつが知ってるんだ。
小町先輩と璃亜が何か企んでるとは思っていたが、あれまでそうだったと言うのだろうか。
「部活勧誘のポスターを描いてたとき、すごく楽しそうにしてましたよね。適当に終わらせてもよかったはずなのに」
「別に……それは……」
引き受けたからには、いいものに仕上げる努力はしたいし、それ以上の意味はない。
「入れば、いいじゃないですか。美術部。描けばいいじゃないですか」
璃亜はついに直接的にそれを口にする。
「興味ないって何度も言ってるだろ……」
「そんなわかりやすい嘘他にあります? 家事に関しては……私が悪かったです。どんな理由があるにせよ、蓮くんに任せきりだった私が悪かった。だから、これからは私に任せてください」
「……璃亜こそ我慢しないでいいんだぞ。別にもうクセになっちゃったし、今まで通り俺はやるつもりだし」
璃亜から視線を外し、まるで言い訳でもしてるようにぽつりぽつりと言葉を漏らす。
「やりたくないバイトなんてやらなくていいじゃないですか」
「…………うるさい」
現実問題お金が十分にあるわけじゃない。
それを補おうとするのは家族として普通のことじゃないのか。
「そんなに私が信じられませんか!? 頼れませんか!? どうして自分ばかり我慢しようとするんですか! 私たちは家族なんじゃないんですか!」
璃亜は一気に距離を詰め、両腕で襟を掴み上げる。
そのまま体重をかけられ、押し込まれて……背中が壁にぶつかる。
俺は抵抗する気にも慣れなくて、視線は逸らしたままズルズルと座り込んでしまう。
「いい加減頭に来てんですよ! 何が不満なんですか! 誰かが蓮くんに強制しましたか!? やりたいことやれよ! 意味わかんねえ気の使い方すんな!」
璃亜はそのまま俺に馬乗りになって、声を荒げた。
目端に涙を浮かべて、訴えかけるように。
「……………………うっせえ」
俺には璃亜が、どうしてこんな小さなことで怒ってるのかわからないよ。
別にどうだっていい些細なことだろ、これは。
「それしか言えないんですか。言いたいことがあるならちゃんと言ってくださいよ!」
言えるわけがない。
何を言えというのだ。
俺が気にせず自由にできるくらいお金を稼いで来いとでも言えと?
そもそも俺の生活費までかかるせいで不自由をしてる人がいるのにか?
描けるなら描きたいに決まっていると叫べばいいのか。
そんなことして何になる。
その行為も、望みも、何の意味もないことだって誰より俺は分かっている。
「…………勘弁してくれ」
璃亜のことを信じてない? そんなのことはない。
ただ、俺は俺のことを信じてないだけだ。
俺の価値を信じていないだけだ。
何ができるわけでもなく、金と時間を食いつぶすだけの自分。
それならば、少しでも力になれる方法を選んだ方がいいに決まってる。
無償にここに居ていいよ、なんて言ってくれる人はもういないのだから。
俺にここに居て欲しい価値なんてあるはずもないのだから。
「私、蓮くんの妹ですよね」
璃亜は襟を掴む拳に力を入れ、強く押し付けてくる。
「ああ、そうだな」
だから、少しでも兄としてできることをしたいんだ。
璃亜がお兄ちゃんと呼んでくれるように…………家族だと認めて欲しいから。
それを自覚すると、なんだか妙に情けなくて、滲み出そうになる涙を堪えて奥歯を噛みしめた。
「私、今の蓮くんを見てるとすごくイライラします」
「…………ごめんな」
無理やり璃亜を引きはがし、立ち上がる。
累さんに軽く会釈をしてから、俺はリビングを後にした。
璃亜の言葉受けて、吐き出しそうになって自分の言葉を吟味して気づいてしまった。
とどのつまり、俺はただ寂しいのだ。
血の繋がった家族がいなくなって、自分を証明できる人がいなくなって…………俺は、居場所がないように感じていたのだ。
それと同時に、優しく接してくれる璃亜と累さんのことが好きだから、離れたくないと思っている。
ここに居ていい理由を探している。
血の繋がった家族じゃないから、それにはきっと条件が必要で、それを満たす何かを昔からずっと探しているのだ。
そんな俺がワガママなんて言えるはずないじゃないか。
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