第26話「憧憬を描く乙女の作法・小町サイド」

 きっと彼は、自分が私にどれだけ強い影響を与えているか気づいていないと思う。


 それだけ彼の絵は鮮烈で、衝撃的で、数ある色の中で彼の物だけが輝いて見えたのだ。


 父がいて、母がいて、きょうだいはいない。

 優しい両親に愛されて、これまで何不自由なく過ごしてきた。

 お金持ちという程ではないけれど、金銭的に困ったことはない。

 母が作る料理は美味しくて、夜ご飯は毎日家族三人で食べていた。


 絵を描き始めたきっかけとかは特になくて、なんとなく好きだったのだ。

 そしたら母が、小学五年生の時にお絵描き教室に入れてくれた。


 特別高いモチベーションがあったわけではない。

 面倒だと思うこともあったけれど、確かに楽しいと思える瞬間もあって、なんとなく続けていた。続けていると上達はするもので、それを実感できるのは嬉しかった。


 中学二年生の時のこと。

 とあるコンクールで佳作を受賞した。

 大きなコンクールの一番小さな賞。

 ホールの一番端に飾られる程度だったけれど、その場で飛び跳ねるくらいに嬉しかったのを覚えている。


 その時だ、蓮くんと出会ったのは。

 出会ったというには一方的すぎるものだったけれど、それは確かにこれからの私の生き方を変えるほどの出会いだった。


「蓮、すごいじゃないか! こんな目立つところに飾られて!」


「本当ね、さすがだわ! ね、璃亜。お兄ちゃんすごいね」


「う、うん。お兄ちゃんの絵きれいです」


「べ、別にこれくらい普通だよ」


 父と母と妹に囲まれて照れくさそうにはにかむ少年――青柳蓮くん。

 私に熱を与えてくれた、憧れの人だ。


 蓮くんたちが去った後で、私は盗み見るように彼の絵の元へ行った。


「わぁ……っ」


 私の絵と違って、目立つところに飾られた一枚の絵。

 彼の絵の前に立つ。

 飲み込まれそうだった。

 熱の籠った色を全身に浴びて、一歩も動けずただただ崇めるように見た。

 身体中に熱が宿るのを感じた。

 柔らかな緊張感。心の臓が鮮明に鼓動を鳴らす。


 私はこの感情を正確に言語化できなかった。

 ただただ、胸を打たれた。体が震えた。憧れた。

 思わず手を伸ばして、口を開いても意味のある言葉は発されず、笑えた。


「私のと全然違う」


 私の絵はただの色の付いた平面でしかなかった。


 絵とは、本物の絵とはこれほどに人の心を揺さぶるものなのか。

 描き手の熱は、ここまで鮮烈に伝わってくるものなのか。


 ただ、なんとなくで描いていた私。


 きっと、彼はそうじゃないのだ。

 本当に絵を描くことが好きで、私が持っていない熱を持っている。

 その正体が私には分からなかったけれど、今も分からないけれど、強い想いを載せて筆を振るっている。


「…………私も描きたい」


 この時、彼の熱が私に伝播したのだ。

 早く真っ白なキャンバスに絵の具を躍らせたいと、この右手を思うままに動かしたいと、今ならこれまでにないような素晴らしいものが描けるとそう思った。


 激情がこの身を支配する。


 たった一人、たった一枚。

 出会ってしまった。

 消えることのない熱を灯されてしまった。


 いつか、彼と出会うことがあれば、この想いを余すことなく伝えたい。

 いつか、彼に並び立てるほどの絵を描いて叩きつけてやりたい。

 そして、いつか彼のために、ありがとうって一枚の絵を描きたいのだ。


 ただ、それだけのために私は描ける。

 もう、これからはなんとなくで絵を描くことはないだろう。


 熱を知ってしまったから。

 今までの自分のままなんて恥ずかしすぎる。


「待っててね、きっと私は描いてみせるよ」

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