みぃ

『笑ってる』、私は慌てて窓の外に目をやった。すると彼女は、電話ボックスの壁すれすれに立ち、左耳にあてた受話器の底に右手をていねいにそえたまま、好奇の目でこちらを見すえていた。


「なんだって?」

『さっきのボロアパートの女がね、笑ってる、ニッコリ、笑いえくぼが浮かんでる』

「そんなにはっきりとわかるものか? こんな夜ふけに、それもガラスごしで」

『私、夜目よめがきくのよ』

「初耳だな」

『だってはじめて言うもの。……思えば、誰かにこのことを話したのもはじめてね』

「まあ、そんな機会がないんだろうさ。そうそう使い道もないだろうからな。停電ていでんのときくらいのものか?」

『意外とそうでもないわよ?』

「というと?」

『男の人としてるとき、相手の顔がはっきり見えるもの』

「はははははははははははははははははははははははは」

『今日のあなたはとても上機嫌じょうきげんね。〝なにか〟あったんじゃない? いつもと変わったこと、それも、いいこと、うれしいこと、いいニュースのような、幸せなこと、胸のはずむようなこと』

「ああ、わかるか? じつはな、別れたんだよつまと、しかもついさっき、お前をおどろかせて殺してやろうと思って黙っていたが、もう我慢できない、お前をいますぐ殺してやりたい――どうだ、おどろいたか? なあ?」

『ええ。私とてもうれしいわ。すごくうれしい。すごいわ。あの奥さまをきふせるなんて。どんな手を使ったの?』

「なに、どんなってこともないさ、ただ、刺身包丁さしみぼうちょうでスッパリやってやっただけのことさ」

『まあ、それが難しいのだけれどね。それにしても。お疲れさま。ごほうびが欲しいんじゃない?』

「ああ、いますぐお前をきたい」

『そっか、そうよね、もう、電話ごしでいることもないのよね。これからはいつでも、どうどうと相手のところに通えるのね』

「だから、俺いま、お前の家の前にいるんだ」

『え、そうなの? やだぁ。私……家の片づけすませてないわよ?』

「そんなの気にしないさ。なんなら俺も手伝うぜ?」

『たしかに、これからいっしょになる相手に、見栄みえをはってもしかたないわね。おねがいするわ』

「まかせろ。……そう言うと思って、刺身包丁も持ってきてあるんだ」

『あなたらしいわ。なんせ、初デートに〝ゴム〟を持ってくるくらいだものね』

「おいおい……それはもう言わない約束だろ……? で、どうする?」

『そうね……さきに家にあがってていいわよ。今晩こんばんはやけに冷えるもの。夫に電話してお茶でもれさせるわ』

「ちなみに旦那だんなには……俺のことなんて説明するんだ?」

『そうねぇ……生き別れた〝ふたごの兄〟ってことにしておくわ』

「はははははははははははははははははははははははははははは」

『じゃあ、切るわね。私もすぐにいくから』

「ああ、せいぜい夜道に気をつけてな」

『あははははははははははははははは』


 突然彼女は、電話機のほうにからだを向け、手に持った受話器をふりあげ、電話機のフックをなぐりつけた。つぎに、いている手を上着のポケットにさし入れた。そしてすぐに手をひき抜く。足もとに、バラバラと、十円玉をこぼしながら。彼女の手には、やはり十円玉がにぎられている。小さな手をいっぱいに使って。スモモほどもある十円玉のかたまり。彼女は、そのほとんどをとり落しながらも、つぎつぎと電話機に入れていった。ポケットに手を入れ、ひき抜き、バラバラ。かたまりを電話機に押しつけ、バラバラ、指をせわしなくうごかしながら、バラバラ。バラバラ。バラバラ。


 十円玉を入れる彼女の手つきは、どこか楽しげだった。カエルのたまごで満たされた粘液ねんえきのかたまりに、ビー玉を挿入そうにゅうするように。一匹。二匹。三匹。となりの家のいイヌのえさに、十円玉をまぜこむように。十円。二十円。三十円。


 満足いくくらい十円玉をいれることができたのだろう、彼女は、ひとつ身ぶるいをした。で、つぎに、形を崩さないよう盛り塩に針を挿入するような慎重さで、プッシュボタンへと手をのばした。


 そして彼女は、こちらにチラと顔を向け、ピンとのばした人さし指で、プッシュボタンを押しこみはじめた。そのうごきにあわせて、くちびるを、〝ピポパ〟〝ピポパ〟というように、はじけさせながら。


 そのとき突然、室内にスマホの着信音が鳴りひびいた。私はそれにおどろき、錯乱さくらんするように後ろにふりかえった。と、その拍子ひょうしにのばした手に、ヒヤリとした感覚をおぼえる。目を落として映るのは、今日手に入ったばかりの〝鶏肉とりにくたち〟。しっかり血抜きされて、きれいなピンク色をした、新鮮しんせんなお肉。それも、無料で手に入れたもの。


 鶏肉たちは、ベッドのうえにきれいに並べられていた。ちょうど、〝人型ひとがた〟になるように。私が触れたのは、人でいうところの頭部だった。脂身あぶらみの少ない〝ささみ肉〟のかたまり。


「うわはははははははははははははははははははははははははは」

 と、誰かの笑い声がして、ベッドからころげ落ちるほどおどろく。しかし、部屋にいるのは私だけだ。なら、笑っていたのは私なのだろう。思いかえしてみると、私のはっした声は、われを忘れるように笑っていた。だとすれば、とうぜん顔だって笑っていたんだろうと思う。笑い声から想像してみる自分の笑い顔は、やけに上気じょうきしていじらしく、なのに男をさそうようにあか抜けていて、女の私でもけがしてやりたいと思うほどだった。


〝自分の顔はいまも、すこしくらいにやけているんだろうか〟、という思いつきから、私は、ベッドの下から首をのばし、窓の暗がりに目を向けてみた。そこに映る自分の顔は、皮のかれたリンゴのように無表情で、心底薄気味わるかった。それがどうにも自分の顔とは思えなかった。〝近くで見てみればなにか変わるだろうか〟、と、私は、ベッドにいあがり、さらに首をのばした。


 すると私の顔は、影のなかに落ちくぼみ、目も、鼻も、口もかき消え、やや面長おもながな黒いのっぺらぼうへと変わった。


 視線を、チラと落とす。

 彼女は姿を消していた。


 顔の向こうに透けて見える公衆こうしゅう電話のなかには、ただ、おびただしい十円玉が残されているだけだった。おそらく、人の膝下までとどくだろうか。びっしりと折りかさなった十円玉は、そのどれもが真新しいどうの輝きをおびていて、わるがわるこちらに目くばせをよこしてくる。


 とまりかけた振り子のようにゆれる緑の受話器は、〝誰かとしたくてしたくてたまらない〟というように、ときおりかすかにふるえるものだから、私にはそれが、声をあげているように感じられるのだった。


 部屋にひびきつづける着信音は、およそ途切とぎれる気配がない。彼の好きなシンガーソングライターの歌。恋の歌。女の声。サビ。サビだけをうたってる。ずっと。ずっとおなじことをくりかえしてる。〝あなたが好きだ〟ってことを、小じゃれたふうに。だけど、そのあまい声の奥底に、切なげな〝なにか〟を感じる。まるで、うたう片手間に、〝なにか〟しているよう。つやっぽくて、あえぐような、男にこびる女の声。エッチな声。自分におぼれる声。えんじてる声。一度だしてしまったら、もう、ひっこみのつかない声。


 私は、部屋の暗がりに視線を向けながら、鶏肉のかたまりに躰をあずけた。ひんやりとした冷たい感触、まるで、冷水れいすいをあびた直後の男の躰のよう。きあっていれば、すこしうごかしてやれば、ぬくもりが戻るように思えるのは、なぜだろう? これはただの鶏肉なのに。

「あは、あはは。あは、あは。あはとあははと、あはとあは」


 ソファーのうえに無造作むぞうさに投げだされたふたつのスマホは、じゃれつくように躰をよせあっていた。着信音を鳴らしているほうは、ほんのりと白い光を放ちながらブルブルと震えている。受け身なほうはどこまでも受け身で、ただ黙って振動に身をあずけている。


 彼と私は、色も形もおそろいのスマホを使っていて、着信音までいっしょにしていたから、どちらのスマホが鳴っているのか、ここからでは判断がつかなかった。まあ、そんなのはどうでもいいことだ。こんな夜けにかかってくる電話なんて、大抵たいていろくな要件じゃない。寝たふりを決めこんで、夜食でも食べてせいをつけて、翌朝白々しく応じてやるのがいちばんだろう。きっとそのほうが、大枠で考えれば、相手だって心おだやかになれるはず。こんな夜更けに電話をよこすなんて、気が触れている証みたいなものだ。なら、誰かと話して頭をはたらかせるよりも、自分の頭のなかにひたっているほうがずっといいはずだ。電話をとらないでいるのは、いってしまえばマナーみたいなもの。


 そう結論づけてしまうと、あんなにうるさかった着信音が、声を落としたように感じられた。そのちょっとした安堵あんどから、ため息がでた。かすれて乾いた音とはうらはらに、鶏肉にあたってかえる私の呼気こきは、ねっとりと湿しめっていた。


 私は腕をまわし、鶏肉のかたまりをそっと抱きしめた。かたくて冷たい弾力にかまわず力をこめると、生臭なまぐささが際立つように感じられた。


 思いがけず手に入った無料の食品。


 いくら肉類が苦手といっても、そのなかでもとくに鶏肉が苦手といって、それで急場きゅうばをしのげるのは、たしかな事実なんだ。


 それを無駄にするなんて、そんな法はないはず。とくに、私にとっては。空腹に目をまわしているというなら、なおさら。


 独りで生きていくというなら、自分の性根しょうねさからわずにいるのが楽だし、なによりも、お得だ。かしこい生き方だと思う。誰かから聞きかじった嫌悪感けんおかんにかまけ、利する機会をみすみす逃がすのは、馬鹿ばかだ。私なりの正気をしっかりたもって、私自身を俯瞰ふかんしてみれば、それは愚行ぐこうでしかない。私はきっと、自分自身を指さして笑うだろう。おそらくつばも吐く。「お行儀ぎょうぎがいいね」、『い子はえらいね』、なんて、そんなことを言いながら。


 私はそうと決めると、鶏肉から躰を離し、遅刻ちこくに飛び起きるようにベッドから立ちあがった。で、鶏肉のかたまりの、人でいうところの両足首を持ち、時間をとり戻すように慌ただしく、それをずるずると、流しのほうへとひきずっていった。




「ごちそうさまでした」

『おそまつさまでした』

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ごし 倉井さとり @sasugari

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