ふぅ

 こん負けしたのは私のほうだった。


 言い訳じみたことを語ろうと、私は息を吸った。だがその瞬間それをさえぎるように、彼女はくちびるに力をこめ、なめらかにうごかしはじめた。〝ああでもないこうでもない〟というような、困り顔で。はじめて知恵のであそぶ子供のような無邪気さ、はじめて虫を殺すような好奇の目。彼女は、ブツブツとある程度話すと、同意をるような顔つきでこちらに目くばせをよこした。〝ブツブツ、わかってくれた?〟〝ブツブツ、わかってくれた?〟〝ブツブツ、わかってくれた?〟彼女はそんな調子で、えんえんとしゃべりつづけた。


 はたから見れば、彼女のそのようすは異常なのかもしれない。だけど、私としては好都合だった。まるで、彼女が私に忖度そんたくしてくれたみたい。私の考えを読んでくれたみたい。


 ぶつくさと語りつづける彼女に、私はらさず声を吹きこむ。さきほどの〝性別うんぬん〟〝あなたが好きうんぬん〟という話を、異なるニュアンスで、違った構文こうぶんで、はじめての息づかいで、彼女の表情を自分の表情に重ねながら。


 彼女は語るほどにほおを染めていき、やがて、たまらないというように目を細めた。誰かに恋してる目。誰かに欲情よくじょうしてる目。そんな目で、こちらをまっすぐに見つめる彼女。




 いつからそうしていたのか、気がつくと私は、窓枠に転がるハエの屍骸しがいに目を落としながら、左手の親指のつめんでいた。口のなかでは爪の欠片かけらがざらつき、親指は唾液だえきにまみれてれている。私は、親指をくわえ付着した唾液をすすりあげ、爪の欠片といっしょに呑みこんだ。〝チュッ〟と音を立てながら指を吐きだしたとき、公衆こうしゅう電話の彼女のことを思いだした。まだ通話をつづけているのだろうか。〝まだ〟といって、直前までの記憶といまの感覚がまったく噛みあわないから、どれだけの時間が経過したのか、私には見当けんとうがつかないのだけれど。


 顔をあげると血が流れたのか、り固まった首筋に、熱とも、冷たさともつかない感覚をおぼえる。熱いものがうような、濡れた氷にでられるような。


 彼女は、薄明かりのなかに立ち尽くしたまま、じっとこちらを凝視ぎょうししていた。


 自分の記憶の欠落の不可解ふかかいよりも、彼女のその姿に意識をもっていかれる。


 わずかに頭を前に突きだし、やや左に傾け、両方の黒目を上瞼うわまぶたのぎりぎりまで持ちあげたまま、石膏細工せっこうざいく人形にんぎょうのように、うごきをまったくとめている。なのに、私がすこしでも目をそらそうとすると、彼女のひとみはそれを予知するように先回りしてうごく。彼女の両目は、いやに立体的に感じられた。ピントをずらして彼女の姿をかき消そうとしても、彼女の瞳だけはそれを追うのじゃないかと思うほどに。遠くに目をやれば、どこまでも目玉は落ちくぼみ、近くに目をやれば、目玉は、私のすぐ近くまで飛びだしてくる。


 そんな考えにとらわれていたせいか、私は呼吸を忘れていて、気がつけば、視界はせばまりほの暗く沈んでいた。私は息を吸った。その拍子ひょうしのどが鳴る。彼女はそれにあわせるように唇をすぼめ、すぐにそれをはじけさせた。〝チュッ〟という、水っぽい音を想像せずにはいられない、なまめかしいうごき。


『いつもあなたのことを考えているからかしらね。どこにでもあなたを思いえがけそう』

「へぇ、どこにでも? たとえば?」


 酸欠さんけつで目がまわっているにしては、私の口からでる言葉は流暢りゅうちょうだった。


『遠くの山や高層こうそうビル。それから、近くのアパートの一室いっしつだったり』

「アパート?」

『ええ、すぐ近くにアパートが建っているのよ』

「それはどんなアパートだ?」

『古びていて、いまにも倒れそうだわ』

「なぁ、そのアパートにはどんなやつが住んでいそうだ? お前からみて」

『そうね、やっぱり貧乏人びんぼうにんじゃないかしら』

「で、俺がいるとしたらどこらへんだ?」

『……それはまあ、最上階にいそうだわ。いるとしたら、ね。あなたはあんなアパートにぜったい住まないだろうから。潔癖症けっぺきしょうだものね、あなたは。だからせめて、風のとおる最上階に住むのじゃないかしら』


 私は、無意識にシーツをにぎりしめていた左手をほどき、顔の横にもっていくと、彼女に向けてひらひらと手をふった。


『あ』、意表をつかれたような顔、そしてすぐに、それを自分でおもしろがるように笑う彼女。

「どうした?」

『アパートの人の姿が見えた』

「どうだ、俺みたいか?」

『なんだかダブって見える』

「……よく意味がわからないな」

『……いいえ、じっさいにふたりいるみたい』

「ふたり?」

『男と女がいる。……男の人が窓枠にうなだれていて、……その後ろから女がおおいかぶさって、……なにかしてるわ』

「なにか?」

『なにかしらの悪戯いたずらか、なにかのごっこ遊びなのか』

「〝とりこみ中なんじゃないのか?〟」、本物の男のような下卑げびた声がでた。まるで自分の声ではないみたい。

『そういうわけではないみたい』

「どうしてわかる? 窓枠の下で〝なにか〟してるかもしれないじゃないか」

『だって、どちらもすごく無表情なのだもの。男のほうがとくに』

「いったいなにをしてるんだ、そいつら。こんな夜ふけに。気味がわるいな」

『待ってぇ、いまよく見てみるわ……』

「……どうだ?」

『女が、男をあやつってる』

「操るぅ?」

『後ろから手をまわして男の手首を持って、男に手をふらせてる』

「もしかしてお前、俺を怖がらせようとしてるのか? 人形にんぎょう遊びじゃあるまいし……」

『そんなんじゃないわ。私は見たままを言ってるだけ。そんなことより――』

「――そんなことだって?」

『〝人さまの奇行なんて、どうでもいいじゃない〟』


 自分の語気ごきの強さにおどろき、私は、ひとつふるえた。ついで動悸どうきがした。それは鳴るごとに強まり、喉を突きあげるように感じられるようになって、ピタリとやんでしまう。


『私とあなたの話をしましょうよ。生まれ故郷こきょうはどうだった?』

「……生まれ故郷?」

『ほらぁ、このあいだ言っていたじゃない、……ふたごの妹さんが自殺してしまって、それで葬式そうしき帰省きせいしたって……、たしか……海辺の街だったかしら?』

「……ああ、べつに……喪主もしゅってわけでもないからな。どうってことはなかったよ。ただ親せき連中の顔をながめに帰ったようなもんさ。いままでさんざんきるほど見て、それに、ぼんと正月にはかならず帰ってるんだ……つまらない義務が、今年は三回になったってだけのことさ」

『そう』

「ああ」

『どんな妹さんだったの?』

「どんなってこともないさ……どこにでもいる普通のやつだよ。変わったところも、特徴とくちょうも、なかった気がするな。だから印象があまりない。そのせいか、死んだって気がしないよ。ただ……昔から俺にべったりでな……」

『〝普通の子でも自殺しちゃうものなのね〟』

「ははははははははははははははははははは」


 涙をこぼすほど笑ったのはいつぶりだろう。おそらく、成人してからはないように思える。中学、あるいは小学生以来かもしれない。


「お前とおなじだよ」

『え?』

「ふと気を抜くと、そこらに妹を見てしまうよ」

『たとえば?』

「人ごみのなかや、歳のちかい女の顔なんかに」

『あら素敵じゃない。いまでもあなたにべったりなんだわ』

「違いない、間違いなくそうだな」

『……ねぇ?』

「どうした?」

『私のことは見たりしないのかしら?』

「おいおい……みなまで言わすなよ……、見るに決まってるだろ? 俺がどれだけお前のことを思っていると思ってるんだ……。自慰じいのさいちゅうにだって見るんだぜ?」

『ふふ、いやだ、そんなことでおそろいでもねぇ』

「それなら……なにがいいんだ?」

『そうね――おそろいのスマホなんてどう?』

「スマホ? 買いかえたいのか?」

『あなた、なに言ってるのよ、忘れたの? あなたがこわしたんじゃない、私の浮気をうたがって、スマホを浴槽よくそうに沈めて、それでも足りずに画面を割って、で、そのあと、私をさんざんなぐって、って、あんなにかみをひっこ抜いて、マンションじゅうにひびくほどの大声で怒鳴どなって――』

「――なにを言ってるんだ、そんなわけないだろ。防音ぼうおんされているからマンションなんだ。マンション中にひびくなんてこと、あるわけないだろ?」

『私の感覚としては、という話よ』

「ああ、それならわかる、納得なっとくだ」

『よかった』、彼女はれたように笑った。『あなたが言ったのよぉ。「俺のゆるしをるまでスマホは持つな」って。だから私はわざわざこうして、公衆電話からあなたに電話してるんじゃない』

「そうだったな。たしかに覚えてるよ」

『……私、十分反省した。思わせぶりなことなんて、もう、ぜったいに言わないって約束する。け引きなんていっさい考えないから……』

「わかった。俺もわるかったよ。いいスマホ買ってやるからな」


 私がそう言うと、彼女は、勝ちほこったようなみを浮かべた。それを認めた瞬間、とつぜん耳もとで、〝ブチッ〟という大きな音がした。と同時になぜか右腕の力が抜け、私はそのまま右腕を、ベッドのうえに投げだしてしまう。


 彼女から目を切り、私は、自分の右手に目を落とした。


 右手には、黒いなにかが握られていた。すぐに焦点しょうてんが合う。するとそれが、立派なふでが一本つくれるほどの、髪の毛のたばだということがわかった。


 意図せず私は、指に巻きつけていた髪を、頭皮とうひからひき抜いていたようだ。腕に力をこめた覚えはいっさいなかったのだけれど。

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