第30話

ゴホッ……ゲホッゴホッ……ガァボォッ……


 痰が絡まった激しい咳と、海の中で溺れているような唸り声が、脚下厳密に言えば対面するベッドの方から聴こえて来る。呼吸は荒れ、布団が絶えず擦れている。


 その異常な様子に、体を起こした。カーテン越しにだが、そこに眼を向ける。


 右手に持たされたナースコールを押すべきか迷っている内、一切の前触れも無く声は途切れてしまった。


 踠いている様子も無く、静寂が訪れた。


 そこで初めて、安らかな二つの寝息に気付いた。隣と対角からだ。


 尿意を覚えたのは、備え付けのデジタル時計が、「PM11:21」と表示された頃だった。


 いつの間にか忘れてしまった頭痛もぶり返し、眩暈も少々。何とかベッドから起き上がる。


 カーテンを抜け、部屋の全貌が明らかになった。四つのベッドが並ぶ、至って普通の正方形の病室だ。それぞれがカーテンで覆われているお陰で、十字路の様になっている。


 先程の咳は気掛かりだが、そのまま病室を出た。


 長い廊下が続いている。神委の病院は、学校からでもその広い外観が伺える。果てが見えないのは、単に暗闇の所為だけでは無い。


 消防の赤いランプはまるで人魂だ。不気味を見事に演出している。ただ、トイレに辿り着くのは容易だった。


 302号室の文字を忘れず、蛍光色で示されたトイレの扉を開く。自動で明かりが付き、げっそりとした自分が鏡に映っていた。


 一瞬病院に取り憑いた幽霊でも見たのかと、驚いてしまったが、この冴えない顔は間違い無く自分だった。


 案の定、眼帯が着けられている。今だに左眼が開いているのか分からない。麻酔が効いているからか、痛みが無いのは救いだった。


 流石にこれを取る勇気は生まれなかった。


 溜息ついで、脚元に眼をやると、小皿が見えた。何かが山の様に添えられている。


 持ち上げると、この形状からして盛り塩だった。


 所謂魔除けに使用される代物だが、病院に設置されているという点に於いて、恐怖を煽るには充分だ。


 何故こんな物が、という疑問は解消される筈も無い。さっさと用を済ませてトイレから出た。


 また廊下を歩き、302号室の扉を開けて入室をする。十字路のような通り道を丁度真ん中まで進んで、気付いた。


 対面に寝ていたであろう、年老いた男性が立っていた。そう思ったのは、単純に対面のベッド側のカーテンに寄り添って為だが、それに加えて先程の唸り声の印象が強かった。


「……あ、あのぉ」


 こっちを見ている気がして、呼び掛けるも、応じる気配は無い。


 月明かりが僅かに入り込んで、薄闇に眼が慣れた頃、その老人の顔がくっきりと見え始めた。

 

 白目を向き、口は半開きになって穴という穴から体液が洩れ出している。


「あっ……」


 ただの直感だった。彼は生きていない。


 唸り声が不自然に途切たあの瞬間。多分というか、やはり彼は亡くなっていたのだ。


 果たしてその状態に自我があるのか定かでは無い。だが、目的も無く突っ立ている訳では無かった。


 老人は突如動き出す。


 その速度は異様に速く、俺が後退り、床に伏した頃には風圧も無く通り過ぎて行った。


 自身の呼吸は小刻みに且つ荒い。心臓の鼓動に肋骨が圧迫されている。目的が俺で無くて良かった。その安心からか、立ち上がるのも儘ならない。


 人間の歩き方では無かった。内股で、足を踏み出すというよりは、体を左右に振って進んでいた。


 しかし彼は、今扉の前で停止している。


 扉を開ける事が出来ないのか、その行動の意図は不明だ。良く凝らして見ていると、トイレにあった盛り塩が扉の脇に置いてあるのが見えた。


 四つんばいになって近寄り、皿を持って直ぐに離れた。これは直感的な行動だ。


 これで効力が無くなるのかも、よく分かってない。そもそも効力なんてあるのだろうか。


 ただ、老人の幽霊は不気味な歩行で扉を擦り抜けて行った。それを見るに、魔除け、今回は幽霊除けとして効力があった。


 戻って来られるのも怖いし、取り敢えず盛り塩を戻して、自分のベッドに着いた。


 目先に死体があるその威圧感は不思議と無い。それは、幽霊謂わば魂が何処かへ行ってしまったからだと思う。


 余程体力を消耗していたからか、俺は直ぐに眠りに付いた。


⭐︎


 病室に充満する悲しみの声により、目覚めた。


 家族、医師、看護師、だろうか。沢山の人が集まっている。少しして、誰かが運び出された。


 あの瞬間、ナースコールを直ぐに押していれば、少しは延命出来たのだろうか。突然の出来事だった。仕方が無いと自分に言い聞かせても、一時の迷いが後悔に繋がる事を、改めて身に染みた。


 朝食の後、若い医師と話をした。


 結論から言うと、失明だそうだ。三階から落下した硝子の破片は、瞼を突き破り左の眼球に刺さった。左眼の機能は完全に消失した。瞼は再生するそうだが、当分は眼帯を付けて生活する必要がある。


 俺はそれを、まるで他人事の様に聴いていた。実際、今もショックは受けていない。楽観的に捉えている。呪い、神委家は磁場と呼んでいるそうだが、あの状況下で死ななかった事の方が奇跡と言える。


 退院は三日後だそうだ。週一の通院が必要との事だった。


 最後に、

「扉の盛り塩って、何なんですか?」


 と医師に訊いてみる。


「あーあれねぇ。神栖さんは命に別状は無いから言うけど、取りに来る奴が居るらしいよ」


「な、何をですか?」


「魂をだってさ。死神なんて女の子達は言ってるね。だから、それ除けかな。まぁ、気にしなくていいよ。院長の方針で置いてるだけで、ただの迷信だから」


「そうですか…………最近、患者多いですか?」


 医師は笑って、

「神委高の生徒が特にね」


⭐︎


「やっほー、調子はどうかなぁ」


 カーテンの間から顔を出した白鷺めいは「入っていい?」と許可を求めてきた。


 承諾すると、ピョンと横に跳ねた。清楚な白のレースを纏ったその姿は、院内だと天使と見紛う程、美しく見える。


「今日学校は?」


「休んで来たに決まってるじゃんない」


 此れでも一応、次期生徒会長筆頭だ。


「さっき無人君のお父さんとすれ違ったけど、来てたの?」


「ああ、丁度入れ違いになったみたいだな」


 元気な姿を見せると、仕事中の父親は安心した様で直ぐに帰ってしまった。最近は凄く忙しそうだ。桜木の件は、まだ聴けていない。


 「ふーん」と彼女が言って、背後に隠していた小瓶を差し出した。はみ出る数本の花が、綺麗な花弁を咲かせている。


「此れは?」


「クラスの皆んなからだよ。私が代わりに買って来たけど」


「そっか……態々済まんな」


「考えたくないけど、雨後君の件があったから。彼、容態が急変したみたいで……枯れない方がいいかなって思って、造花にしといた」


「な、何か急に怖くなってきた……」


「だから御守りにしてね。ごめんね」


「あ、ああ。有難う」


 彼女はそのままベッドに腰掛けた。細い背中が直ぐそこにある。彼女の右手は、俺の左の甲に乗せられた。


「元気そうで良かった」


「う、うん。一応ね」


 体を捻り、此方を見る。


「その眼帯って、取ったらどうなるの?」


 二つの眼が、俺の右眼に集中した。肉食獣に睨まれたが如く、俺の体は動かない。


 いつの間にか俺の頬に手が触れていた。


「取っていい?」


 返事を待たず、眼帯は外された。失明した俺の左眼に光は映らない。ここで漸くその事実に実感が湧いてくる。


「ど、どんな感じ……?」


「一層悪役っぽくなったね」


「まるで元々そうだったみたいな言い方をするな」


 彼女はクスッと笑った。


「カッコいいよ」


「白鷺さんが言うと、あんまり本気になれないな」


「失礼ね。前から思ってたんだけど、どうして苗字で呼ぶの?」


「そんなぁ、今更言われても」


「だって葵さんは呼び捨てだし、昔は名前で呼んでくれたじゃない…….」


「あ、いやそれは……」


「そもそも十年以上も友達やってんのに、さん付けってのも可笑しな話よね。あー、無人君にとっては友達じゃなかったか。そういや、樹咲とは友達になったんだよね。ねぇ、私は? 私と無人君って……」


「ちょっと待って」


「何よ」


「そ、そんなに虐めないで下さい。これでも心は疲弊してるんだ」


「あら、私は昔からいじめっ子だったの忘れたの? 私を振った理由を忘れるなんて、最低な男ね」


「な、何が望み……?」


「葵さんばっかりズルいじゃない。ぽっと出の癖に……ちょっと可愛くて無口だからって生意気よね、あの子」


「あ、あのなぁ……」


 白鷺が悪魔の様に見下ろす。


「し、白鷺さんだって……俺の事、君付けで呼んでるじゃないか」


「そ、それは無人君も、もうすっかり大人だし」


「そういう白鷺さんこそ、昔と比べて……だ、大体中学辺りから美人になったと言うか……頑張ってたのも耳に入ってるし」


「ふ、ふーん。あっそぅ。で、葵さんとどっちが……あ、いや何でも無い」


「えっ?」


「と、兎に角。元気そうで何より……また学校でね」


 そう言って、彼女は最後にカーテンから顔を出して、

「それ、実は皆んなの代わりってのは嘘だよ。私からの……私だけのプレゼントだから!! じゃあね」

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神に委ねられた街 真昼 @mahiru529

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