第34話「ジーパンのチャック」

「あれっ、なんで上がらないんだ?」

 武田がジーパンのチャックを上げようとするが上がらない。

 何日か前からチャックの動きが悪く、ロウソクでロウを塗ったりしたが、すぐに動きは悪くなった。


「有名メーカーのジーパンなんだから、チャックが不良品なんてことはないだろう……」

 力いっぱいチャックを上げたら、取っての部分がチャックから外れてしまった。


「何してるの?」

 娘のマナミが不信そうに見ている。


「チャックが上がらないから、思いきって上げたら壊れちゃった……」

「安物?」

「違う、違う。ちゃんとしたメーカーのだよ」

 武田はジーパンの後ろにあるメーカーのマークを見せる。

「本当だ、サビたのかしらね?」


 ❃


 早坂さんの健康法教室。

「こんにちは」

 武田が早坂さんにあいさつをしている。

「いらっしゃい。仕事は上手くいってますか?」

 早坂さんは武田の就職先を心配している。

「まだまだ、見習いで上手くいかないんですよ。今日は、ジーパンのチャックも壊れるし、最近は良いことなしです」


「ほう、ジーパンのチャックですか!? 整体のお客さんでも同じ事を言ってた人がいたんですよ」

「それじゃ〜 不良品が出回っているんですか?」

「いや、いや。不良品ではないようです。武田さん、失礼ですが、そのジーパンは洗濯をしたことがありますか?」


「いえ、ジーパンは普通、洗わないでしょう」


「え〜〜っ、お父さん、ジーパンは洗わないの!?」

 マナミが驚いている。


「ジーパンって洗ったら色落ちするから洗わないんだよ」

 当然だろうと言う顔をしている武田。


「それは、お母さん出ていくわ……」

 あきれ果てたという感じのマナミ。


「いや、いや、みんなそうだって、たぶんだけど……」

「お父さん、布団のシーツは洗う?」

「シーツ? 自衛隊ではちゃんと洗っていたよ」

「家では?」

「……家のシーツは、あれだよ、あれ。別にいいじゃないか、多少汚れたってなんともないよ」

「女性は不潔なのは嫌なのよ……」


「そうか……俺はあんまり気にならないけどな……」


「武田さん、時代が変わったんですよ。私も子供のころは一週間風呂に入らないなんて普通でしたし、洗濯も洗濯機がないから服もズボンも洗わないでいましたよ」

 早坂さんの言葉にマナミは驚く。

「お風呂って昔から毎日入っていたんじゃないんですか?」


「私の子供の頃は銭湯なので、週に1回がいいところですよ。世の中がそんなものだったと思いますよ」

「そうだよ。俺が小学生の時、市営の団地の奴がいっぱいいたが、団地の部屋には風呂はついてなかった。最近のは付いてるらしいがな……」


「お風呂も付いてないの?」

「お風呂の有る家は金持ちだろう、俺達の家には風呂なんか無かった」

「俺達ってだれ?」

「俺達ってのは、当時、遊んでいた近所の奴らだ」

「その人たちの家には、お風呂は無かったの?」

「無いよ、昔は、それが普通だ。近所に毎日、風呂屋に行くおばさんがいて、毎日、風呂に行くなんて変な人だって皆んな言っていたくらいだ」

「なに、それ!? そんなに違うの?」


「戦前だったら、もっと違うはずだぞ」

 武田は早坂さんを見る。


「えっ、戦前ですか、それは全然違いますよ。戦前は男性が威張っている時代ですからね。三歩下がって師の影を踏まずって言って、女性も男性の後ろを歩いてました。お風呂も一週間入ってないって言っても別に普通でしたね。だいたい湯沸かし器なんてないですからね。家庭にお風呂の有る家でも、お湯を沸かすのは、薪や石炭ですから一苦労ですよ」


「あたし、お風呂の無い生活は考えられない」

 マナミはお風呂好きなようだ。


「昔は、女性は生理の間はお風呂に入らなかったんですよ。お風呂で温めると生理が途中で止まってしまい体に残って、頭痛や肩こりの原因になると言ってた人もいました」

「そうなんですか、確かに頭痛や肩こりは生理の後にあるような? それじゃ〜生理中は、お風呂は入らないほうがいいんですか?」

「シャワーくらいにしたほうがいいと思いますよ」


「そうなんですか、初めて知った。毎日、お風呂に入るのがいいと思ってました」

「本当にそうなのかはわかりませんよ。自分の体調をみながらいろいろやってみるといいと思います」

 早坂さんは、あくまでもやんわりと言う。

 体験的に、これが絶対に正解と言えるものではないと分かっているからだ。

 年齢や体力、家庭環境や体質によっても変わることを知っていたし、病院の指示でさえ、時代が変わると治療法が全く変わることも経験していた。



「それで、ジーパンのチャックが壊れたお客さんの原因は何だったんですか?」

 武田が早坂さんにたずねる。


「その人は、糖尿病だったんです。高齢で尿の切れも悪くなっている男性だったので、糖分の多い尿でチャックが動かなくなったんですね。ジーパンを洗濯したら、スムーズにチャックが動くようになったそうです」


「糖尿病ですか……」

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