第一章 ユウエウタ王国・王都

一 別れと再会


 その少年は、現在目の前で繰り広げられている光景が、信じられなかった。

 十七年の人生の中で、騎士となった年月は浅くとも、このような状況は、初めて遭遇した。いや、これほどの危機は、国としても最初で最後だろう。


 この王都の壁の外には森が広がっている。その一角に佇むある廃屋の上に、化物が現れたのを、少年は偶然目にした。

 巨大な芋虫のように長い体は古木のような焦げ茶色で、そこから十六本ずつの人の手足が伸びている。その胴体のあちこちから、ぱちりと深緑の目が開いて、何かを探すようにきょろきょろと見回した。


 他の騎士たちも、あれはなんだと騒ぎだし、王都の住民たちも道に出てきた頃、風船のように浮かんでいた化物は、ゆっくりと王都の方へ動き出した。

 副団長が、化物の襲撃に備えるようにと叫ぶ中、化物は、王都の壁のすぐ内側に建つ、劇場の上へ辿り着いた。そして、体から巨木の幹ほどの大きさの手を伸ばすと、劇場の屋根を破壊しながら差し込んでいった。


 城門を守る少年は、「あっ」と声を挙げた。現在、あの劇場には、この国の王と王妃が舞台を見学しているはずだった。

 今すぐ、あの場に向かうべきなのか、一瞬を悩む少年が見つめる中、化物は劇場の瓦礫から、差し入れた手を抜いた。遠目でぼんやりとしているが、何かを握っている。


「王様……王妃様……」


 隣に立っている先輩の騎士が、そう呟くのが聞こえた。少年はまさかと思い、彼を見ると、魔法で視力を強化した先輩が、絶望に染まり切った顔をしていた。

 それでも、少年は先輩に尋ねずにいられなかった。


「嘘、ですよね……?」

「……」

「あそこには、団長も、一緒にいるはずなのに、そんな……」

「……」


 先輩は何も答えず、瞬きすらしない。混乱と恐怖に陥る寸前の騎士たちを、叱責する副団長の声が、櫓の上から降り注いだ。


「総員! 攻撃初め!」


 少年が前を見ると、化物はまた、ゆっくりとこちらへ向かってくる。この城の中には、王の一人娘である姫がいる。化物の目的は、彼女以外にあり得ないだろうと、彼は考えた。

 騎士たちは、各々に矢を放った。しかし、化物の体に矢が刺さっても、それは痛がる様子も苦しむ様子も見せない。


 それならばと、少年は番えた矢に火の魔法を付与して、放った。腕に自信のある少年の矢は、真っ直ぐに、化物の胴体に突き刺さる。しかし、火は燃え広がることなく、石の上の火花のように、勝手に鎮火してしまった。

 まさかと、驚愕する少年を嘲笑うかのように、化物は自身に刺さった矢を全て、ずぶずぶと飲み込んでいった。次の瞬間、化物が、刺さっていた矢を騎士たちに向けて、全て放ってきた。


 少年は、こちらに飛んでくる矢を見て、思わず目を閉じた。矢は、彼の頬を掠めて、血を流させた。

 だが、次の矢が飛んでこない。少年は、恐る恐る目を開けた。


 自分を守るように、騎士団長が立っていた。その厚い胸板は、化物の足が貫通している。

 ボタボタと真っ赤な血を滴らせながら、化物がその足を持ち上げる。騎士団長の足が地面から離れるのを、彼の手が力なくぶら下がっているのを見て、少年は悲痛と後悔の声を挙げた。


「父さん!」


 普段は「団長と呼ぶように」と口を酸っぱくして言われていたが、そんなことは関係なかった。そんな息子の思いが届いたのか、騎士団長の指がほんの僅かだけ動いた。

 まだ生きている。少年は希望に縋るように、騎士団長の足を掴んだ。


「…………アルベルト……やめろ……」


 しかし、騎士団長はそれを制した。アルベルトと呼ばれた少年は、思わず手を離してしまう。


「……私のことなど構うな……」

「で、でも、父さんが……」

「ハマンピス家の子息として……お前が、真っ先に、守らねばならぬのは、姫様だ……」


 アルベルトは、その心に剣が突き刺さったかのような衝撃を受けた。騎士として、自分が何を本分にすべきかを理解した彼は、きっと覚悟を決めた顔で、頭上高くに登っていく騎士団長を見上げる。


「分かりました。団長。この命に代えて、姫様をお守りします」


 騎士団長は、小さく頷いただけだった。

 いや、今の瞬間に、彼は息絶えたのかもしれない。アルベルトはそんな思いに駆られたが、涙を必死にこらえる。


 辺りは、阿鼻叫喚だった。城へ近付いていく化物を倒そうと、武器や魔法を放った騎士たちは、全て返り討ちに遭い、重症の体や屍が転がり、悲鳴と絶叫が絶えず響く。

 アルベルトは、集中するために目を閉じた。姫のいる部屋の近くを脳裏に思い描きながら、瞬間移動の呪文を詠唱する。それが途切れた時、僅かなオーブを残して、彼の姿が消えた。






   ###






 その少女は、何がどうなっているのか分からぬまま、怯えていた。

 自室で勉強をしている時だった。外の方が騒がしくなってきたと手を止めた直後、転がり込むように、一人の騎士が入ってきた。彼は酷く青褪めた顔をしていて、息を整える暇も惜しんでこう告げた。


「決して、部屋の外へは出ないでください」


 聞き返す間もなく、その騎士は外へ飛び出していった。間髪を入れずに、怒号や爆発音が、野外から響いてきた。

 一体何が起きているのか。椅子から立ち上がった形の少女は、恐ろしくてその場から動けなかった。


 すると今度は、城全体が大きく揺れた。思わず尻もちをついた少女の耳に、瓦礫が崩れていく大きな音が届く。

 顔を上げると、壁の一部に穴が開き、そこから木で出来た巨大な腕が、少女に向かってくる瞬間だった。少女は短い悲鳴を上げたが、一瞬で、魔法の防御壁を繰り出した。


 呪文の詠唱が短かったとはいえ、最大の強固さを誇る半透明の青い壁は、半球状に少女を包んで守ってくれた。巨大な腕も、それに阻まれている。

 だが、腕は諦めずに、鋭い爪を立てて、壁を引っ掻き始めた。通常ならば、このような物理的な接触は、この防御壁には通用しない。その筈なのに、壁は青い欠片少しずつ落としながら、削られていった。


 少女は血の気が引いた。ただ、そのお陰で冷静にもなれた。今度は詠唱を長くして、防御壁の魔法の呪文を唱える。

 しかし、僅かに間に合わなかった。バリンという音を立てて、防御壁は木っ端微塵に割れた。五本の指を大きく広げた手を見て、少女は頭が真っ白になり、詠唱を辞めてしまった。


 ――そんな少女の部屋の扉を開けて、一人の少年が現れ、氷結の呪文を腕に飛ばした。


 凍り付いた腕が、床に落ちて粉々になった音で、少女は我に返った。

 そして、自分を助けてくれた少年の騎士が走り寄ってくるのに、目を向ける。


「ジェンスエトさま、ご無事ですか?」

「ええ……。ありがとう、アルベルト」


 突然名前を呼ばれて、少年騎士・アルベルトは、虚を衝かれた顔をしていた。しかし、少女・ジェンスエトは覚えていた。三年前、就任式の日に、城の裏庭で彼と出会い、言葉を交わしたことを。

 同じ城で生活しているとはいえ、こうして言葉を交わしたのはあの日以来だった。だが、懐かしさを抱いている場合ではないことを、アルベルトは理解していた。ジェンスエトに状況を説明する。


「あの化物は、どんな魔法も武器も跳ね返してしまいます。氷結の魔法は、効果のあったようですが……腕と足はまだ残っているので、すぐに次の攻撃が来るでしょう」

「……あの、お父様とお母様は?」


 この混乱が始まった瞬間から、懸念していたことをジェンスエトは口にした。アルベルトはそれに応えない……だが、下に向けられた目線が、何よりも雄弁な返答だった。

 ジェンスエトは、心が握りしめられたかのような悲しみを抱いた。何故、私達がこんな目に――理不尽を嘆いて慟哭したかったが、状況がそれを許さない。


「姫様。私と共に来てください。あの化物を倒す突破口を探し出します」

「それは構わないけれど……どこへ?」

「王都の外、あの化物が最初に現れた廃墟の中です。何故、あの化物が生まれたのかが、分かるのかもしれません」


 アルベルトの提案に、ジェンスエトは頷いた。そこへ、再び城全体が揺れ出す。二人が見上げた天井に、罅割れが走る。

 「移動します」という一言の直後、アルベルトは瞬間移動の呪文を唱えた。そして、天井が崩れ、新しい巨大な手が伸びてきた瞬間、この部屋にはもう、ジェンスエトとアルベルトの姿はなかった。




































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