二 契約と出立


 ジェンスエトを連れて、アルベルトが降り立ったのは、壁の外の廃墟の一階の玄関と思しき場所だった。天井には大きな穴が開き、三階まで貫く吹き抜けのようになっている。薄暗い中でも、雑草が生えていた。

 確か、この場所は危険な魔法の実験を行う場所だったはずだと、ジェンスエトは思い出す。ただ、安全な結界の張り方が確立された五百年前からは、誰も使っていないので、中には何もないはずだった。


「……誰かが住んでいた形跡がありますね……それも、複数」


 手元に松明ほどの灯りを出したアルベルトは、周囲を見回しながら呟いた。彼の言う通り、今日まで使われていたようなテーブルと椅子や、いくつかのカップが一階に置かれている。

 ジェンスエトは、緊迫の表情を浮かべるアルベルトを見上げた。


「最初、ここにあの化物が現れたの?」

「ええ……。正確には、この建物の上にですが……」


 短く呪文を唱えて、アルベルトはこの建物内にいる生物の気配を精査する。結果、自分とジェンスエト以外は、植物と虫の反応しかなかった。


「姫様。私が他の部屋を調査します。ここは安全ですので、動かないでください」

「分かった。気を付けてね」


 ジェンスエトは震える声でそう返す。彼女の気丈な振る舞いを気付かないふりをして、アルベルトは小さく微笑み、踵を返した。

 一階の廊下に出たアルベルトは、先程とは別の精査の魔法を使ってみたところ、二階のある一室に、強力な魔法を使った痕跡があった。それも、普通の魔法とは異なる魔力を用いている。アルベルトは、そこに危険性がないことを充分に確認してから、移動魔法を使った。


 その部屋は、まだ魔法のランプが灯っていて、中は見回せるほど明るかった。広さはあるものの、置かれているのは机の一式だけで、物寂しい雰囲気がある。

 その机の手前の床には、魔法陣が描かれていた。だが、アルベルトの知らない魔法陣である上に、書かれている文字にも見覚えがない。翻訳魔法を唱えたアルベルトは、下を向いたまま、みるみる青褪めていった。


「悪魔の召喚陣……!」


 国の禁術に手を出していたのかと、アルベルトは身震いする。神に背いた悪魔を呼び出す方法は、誰も知ってはならないと封印されている。よって、召喚陣を手にした時点で、罰せられてしまう。

 だが、悪魔の召喚に成功すれば、どんな願いでも叶えられる。願いに相応しい代償を払えばという条件が付くが。では、ここに暮らしていた者たちは、何を願い、叶えてもらったのだろうか?


 他に手掛かりはないかと、改めて辺りを眺めたアルベルトは、机の上にある一冊の手記を見つけた。床に刻まれた魔法陣を跨ぎ、その手記を手にする。

 掌に収まるほどの大きさの手記は、半分以上使われている様子だった。アルベルトは、その一番最後に書かれた頁を開く……こちらも知らない言語だったが、翻訳魔法によって、内容を読むことが出来た。そして、一番上に書かれているのが、今日の日付だと気付く。


『 今日、僕たちの宿願が叶う。

  何度も話し合って、全員が納得できる道を見つけた。

  呼び出した悪魔と契約し、僕たち全員の理性を代償に、ロレニトレ王家を断絶  

 させるまで、僕らを無敵の怪物と変えてもらう。

  後悔や恐怖はない。むしろ、清々しい気持ちだ。

  これが最後に日記になる。

  醜くも美しき世界よ、さようなら』


 日記と思しきその一ページは、それ以上の言葉は書かれていなかったが、アルベルトは咄嗟に、それを閉じてしまった。その場から動いていないのに、呼吸が荒くなる。手記に触れている手は、細かに震えだしていた。

 はじめ、契約者が悪魔の力を借りて、あの化物を呼び出したのだと、アルベルトは思っていた。だが、事実はそれ以上に異常で、絶望的だった。


 この手記に書かれた通りに、契約者たちが理性の無い、無敵の化物になってしまったのなら、どうやってもあの化物を斃すことは不可能だ。悪魔との契約は、契約者か悪魔が破棄することも可能だが、理性を失っている化物に、説得することは出来ない。

 出来るかどうかは分からないが、契約書を破いてみようとしたが、机の引き出しには無かった。契約書は他の場所か、契約者が持っているのかのどちらかだろう。


 早くしなければ、化物がここにやってくる。無敵の怪物に、二度も防御壁や冷凍魔法が通用するというのは、楽観的すぎる予想だ。

 焦るな。こんな時こそ冷静に……。窮地に陥った時の、父の口癖を心の内で唱えたアルベルトは、唯一の妙案を思いつき、召喚陣を見下ろした。


「悪魔、サンスーン・ユゴーよ。地獄より顕現し、我の願いを叶えたまえ」


 召喚のための文言と陣の中の名を唱えると、魔法陣から青い煙が噴き出した。この部屋を満たしてしまうほどの量だが、煙の中に、人のシルエットが立っているのをアルベルトは認めた。


「――俺を呼んだのは、お前か? さあ、何を願うのか、」


 ユゴーという名の悪魔が、話し終える前に、アルベルトは剣を抜き、その切っ先を悪魔の目に向けた。右目を貫く直前の一で、ピタリと止める。

 煙が晴れ、やや長身で灰色のスーツを着、曇りのないほど真っ白な髪の悪魔は、赤い左目に驚きの色を浮かべた。


「どういうつもりだ?」

「あんたが今日、結んだ契約をここで破棄しろ。言う通りにしなければ、お前の目を切り裂く」


 高い魔力によって、心臓や頭が攻撃されても、たちどころに回復する悪魔だが、その魔力を保持する目を失うと、消滅してしまうことをアルベルトは知っていた。このような脅し方でなければ、あの化物を倒せないと思ったのだった。

 しかし、悪魔・ユゴーは全く動揺せず、むしろ目細めて唇の端を持ち上げるようにして笑った。


「お前は、この国の騎士か。そんなに焦っているということは、俺の契約者は、本懐を果たしている途中なのか?」

「黙れ。悪魔など、躊躇なく殺してやれるぞ」

「先に断っておくが、悪魔を殺したくらいでは、契約は破棄されない。理性を失った契約者ではなく、俺に契約破棄するように脅したのはいい案だが、それぐらいでは、破棄しようとは思わないな」

「……消滅するのが恐ろしくないのか?」

「ああ、全く」


 驚愕したアルベルトの言葉に、ユゴーは何故か嬉しそうに返す。自分の存在よりも、契約の方を大事にするのはどうかしているとアルベルトは思ったが、姫を守るためならば、命も惜しくないと思っている自分も、大雑把に分類すれば同じものかも知れない。

 一方、黙り込んだアルベルトを、興味深そうに観察していたユゴーは、目を細めて提案する。


「俺と契約して、化物への対抗手段を手にしないか?」

「何?」


 予想外の一言に、アルベルトは思わず剣をユゴーの瞳から逸らした。同様に目を泳がせながらも、彼に尋ねる。


「そんなことを行ってもいいのか? 敵対する二組の、どちらとも契約をするなんて……」

「それを禁止する規則はないから、安心しろ。あっちの契約者は、そうするとは思ってもいないだろうが、気付いたところでこっちの契約を破棄させることは不可能だからな。有効な方法だと思うが」


 確かに、無敵の化物を倒すのならば、これくらいしなければいけないのだろう。あの化物を生み出すのに手を貸したこの悪魔のことを、憎らしく思う気持ちもあるが、そうも言っていられない状況だ。

 顎に手を当てて、そう考えていたアルベルトは、決意を固めて、顔を上げた。


「分かった……代償ならば、何でも払う。だから俺に、あの化物から姫様を守れるような力をくれ」


 アルベルトは、決死の気持ちでそう頼んだが、ユゴーは初めて渋い顔をした。


「つまりは、お前も無敵の化物になっても構わないということか」

「ああ。そうだ」

「しかし、無敵同士がぶつかり合えば、いつまでも決着がつかないだろう。延々と、お前たちは戦い続けることになるが、それでもいいのか?」

「……構わない」


 ユゴーの忠告にも、アルベルトの心は揺らがなかった。ジェンスエトが無事だったら、自分の身などどうでもいい、そんな強い気持ちがあった。

 だが、ユゴーは呆れたように、首をゆっくりと降る。


「あっちの契約者は、八名分の理性と引き換えに、あのような姿となった。お前も同じ土俵に立つならば、理性以外にも、記憶やら言語力やら、ありとあらゆるものを支払う必要があるだろうな」

「覚悟の上だ」

「ただ、その状態でも、姫様を守るために戦い続けることが出来るか? あっちの契約者は、何が何でも王家を滅ぼすという気持ちで結びつき、理性を失おうとも、願いを忘れることなく動いている。お前は、そんな奴と何年、何十年、いや、何百年も、戦い続けることが出来るという、本能に近い衝動はあるか?」

「それは……」


 アルベルトは言い淀んだ。自分にある騎士の誇りというのは、父の最期の瞬間の叱責によって芽生えたものだ。矢が飛んできた時、死ぬかもしれないという恐怖に、思わず目を瞑ってしまった自分が、全てを捧げてでも王家を滅ぼすと団結した八人と、戦い続けることは出来るのだろうか?

 再び、思い悩んだアルベルトを、腕組みしたまま眺めていたユゴーは、口を開く。


「戦っても斃せないのならば、発想を変えればいい。あの化物から、何としてでも逃げ切るという道がある」

「に、逃げる?」


 再び、予想だにしない角度からの提案に、アルベルトは素っ頓狂な声を挙げる。

 それを見て、ユゴーは満足げに頷いた。


「姫様と一緒に、逃げるんだ。地の果て、なんて生ぬるいことは言わない。異なる時空間へまで、逃げることのできる力を、俺が与えてやろう」

「つまりは、その化物がいない世界まで、逃げるということか」

「いや、相手は無敵の化物だ。王家を滅ぼすためならば、どんな環境にも適応してくる。恐らく、世界を渡る力も手にするだろう」

「それじゃあ、意味など、」

「そうなれば、また逃げる」


 激昂しようとしたアルベルトの口をふさぐかのように、ユゴーは彼の鼻を指差した。思わず黙ってしまったアルベルトに、ユゴーは目をギラギラさせながら続ける。


「化物が現れる、十分前にそれが分かるようにしよう。その十分間に準備をして、手を繋いでいる相手と共に時空間を渡る。もしも、海の上や空の上だったら、困るだろうから、両足は何かの上に乗っかる形になれるように着地する。そうやって、逃げて逃げて逃げ続けて、その姫様の寿命まで逃げ切れば、お前たちの勝ちだ」

「……俺が、この話に乗った場合、何を代償にすればいい?」


 アルベルトは体を固くしながら、そう尋ねた。

 すると、ユゴーはじっと腕を組み、彼を見据える。ただそれだけなのに、体中を触られているようなおぞましさに、アルベルトが耐えた後、彼が口を開く。


「お前が持つ全ての魔力、それが代償だ」

「魔力か……」


 生まれつき持っていて、聖地での風浴によって底上げされた魔力を失うのは、確かに痛手だった。これから異なる世界に行くのなら、様々な困難が待ち受けるであろう。

 だが、これが一番妥当だというのは、アルベルトにも理解できた。剣の腕があれば、姫様を守れる。アルベルトは、緊張に喉の渇きを覚えながらも、頷いた。


「分かった。契約を結ぼう」

「よし。あとは、契約書の作成だな」


 ユゴーはどこか嬉しそうにそう言うと、懐から取り出したメモ帳に、何かを書き連ねた。それとペンをアルベルトに手渡し、空いている位置に名を書くように言う。

 アルベルトの魔力を代償に、彼に化け物から姫様と逃げるために時空間を渡る力を授けると書かれた二枚の契約書は、アルベルトの名を刻むことで完成した。そのうち一枚切り離し、ユゴーは持っておくようにと話した。


「この契約書は、お前が破棄しようと思わなければ、破くことも燃やすことも出来ない。紛失しても、いつの間にか手元に戻ってくる」

「そうか」

「とは言え、この契約を破りたいと思った時点で、燃えてしまうのだがな」

「そんなことは決して起きない」


 そう言い切ったアルベルトを見て、ユゴーは感心したように頷いた。そして、意味深に手を一度だけ叩く。

 直後、アルベルトの頭の中に、秒針が動いているような音が鳴り響いた。なんだと目を見開いた彼だが、あと九分後にあの化物が襲ってくるのだと、直感する。


「さあ、契約は結ばれたから、お前には今、化物が来ることが分かるはずだ」

「い、今まで、何も前触れもなかったのに……」

「悪魔との契約を結ぶまでは、第三者の干渉は不可能になる。これまでお預けをされていた化物は、充分に牙を研いでいるだろうな」


 ぐっとアルベルトは奥歯を噛みしめる。早く姫様の所に行かなければ。

 彼の焦燥を見て、ユゴーは青い煙にまた包まれながら、嬉しそうに叫んだ。


「少年よ! 理不尽に抵抗する力は手にした。何が何でも足掻いてやれ」

「言われなくても、そうするつもりだ!」


 薄ら笑いを残して、消えたユゴーに腹立ちつつ、アルベルトはすぐにジェンスエトの所へ行こうと、移動魔法を唱える。しかし何も起こらなかったので、魔力を引き渡したことを思い出し、一階へと駆ける。


 想像以上に、自分の中から魔力を失われたことに対して、アルベルトは動揺していた。早く慣れなければと、もどかしさを感じながら足を動かす。そして、ジェンスエトのいる一階の玄関へ辿り着いた。

 血相を変えたアルベルトを見て、何か悪いことが起きたのかと、ジェンスエトも青褪める。瓦礫の一つに座っていた彼女は立ち上がって、アルベルトへと走り寄った。


「どうしたの? 大丈夫なの?」

「姫様。私は悪魔と契約によって、あの化物から、異世界に逃げる力を手に入れました。あの化物は、どうやっても斃せないので、こうするしかなかったのです。代償として、魔力を失いましたが、後悔はしていません。そして、あと七分で、ここに化物が来ますので、その前に逃げなければなりません」


 アルベルトは、一気にそれだけを説明した。突然すぎる話に、ジェンスエトは目を白黒させるが、必死に彼の言葉を飲み込む。


「ここには、戻れないの?」

「恐らくは……どこへ行くのかは、私も決めることが出来ないようです」


 契約の際に、行き先を決められるようにすれば良かったと、アルベルトは後悔したが、それももう言っていられない。後悔も振り切って、生きるためには逃げ切らないといけない。

 一方、ジェンスエトは、動揺していた。アルベルトに聞きたいことはたくさんあったが、それも許されない状況だということだけは分かる。とりあえず、どこかに逃げるということを想定すれば、何をすればいいのかが見えてきた。


「……あと、何分?」

「六分を切りました」

「もしも、国から逃げ出すような状況になったら、持っていくものが決まっているから、それを出してもいい?」

「大丈夫です」


 アルベルトの許可を得たので、ジェンスエトは引き寄せの魔法を唱える。すると、城の中にあったいくつかの大小さまざまな鞄が目の前に現れた。破れてしまったものもあるが、その大半は無事であった。

 鞄の中には、日常品や食料や服があり、王家の者だけが開けられる袋には金銀財宝が入っていた。これを、さらに小さくする魔法などを使って、三つの鞄にまとめる。そのうちの二つをアルベルトが持ってくれた。


「準備はよろしいですか?」

「……うん」


 頷いたものの、ジェンスエトの中には戸惑いがまだあった。これから旅立つことを、国民や城の召使たちにも伝えたかったが、そんな時間もないのは分かっている。自分は、無念の内に亡くなった両親の代わりに、何が何でも生き延びなければならない。

 隣のアルベルトには、彼女の逡巡が十分に分かっていた。王家として、国を離れなければならないというのは、大きな屈辱だ。それでも、彼には姫を逃がして守り抜くという使命がある。


「姫様、私の手を取ってください。そうすることで、共に時空間を渡ることが出来ます」

「分かった……お願いね、アルベルト」


 銀色の大きな瞳が、アルベルトを見上げる。息詰まる思いのまま、アルベルトは、差し出していた手をジェンスエトが握ったのを感じ取った。

 化け物が来るまで、あと二分を切った時点で、時空間を渡る力により、アルベルトとジェンスエトはこの世界から消えた。
































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