終章

朱鷺しゅろ。包帯、変えようか?」

「もういい。ほとんど傷も塞がっているし」

「でも、薬は塗らなくちゃ」

 そう、橙燕とうえんに促されて、部屋に引きずり込まれた。


 あの戦から半月がたった。

 あの後、祠篁しこうらんの國と和睦を結ぶと、兵を撤退させることを約束した。和議の席で、祠篁は鸞の國が爆薬を使ったことに対して、何も触れなかった。

 鸞の國の者たちも、戦の勝利に対して笑顔はなかった。碧鸞へきらんは鸞の國の國守として、亡くなったものたちを丁寧に弔うことを約束し、その言葉の通りに塚を作って葬ったのだった。

 こうの國の別働隊と衝突したしんの國は、稜榛りょうしんの卓越した用兵の才により、篁の軍を撃破し、一旦は榛遥しんようまで攻め込まれた戦況をきつの國との國堺まで押し返した。そこへ鸞の國勝利の報が届いたという。鸞の國の勝利、それは、祠篁が敗れたということであった。篁の軍は、桔の國にまで敗走した陣を立て直していたが、ここでこの戦の決着となった。

 戦後の評定において、桔の國は、篁の國の下つ國となってしまったため、負け戦と言えなくはないが、ひとまず國府である榛遥を護りとおすことができたことに、稜榛は胸をなでおろしたという。


 その後、鸞の國に対する労いの文が届いた。

 ようやく、少しづつではあるが、日常を取り戻しつつあった。

 稜榛からの文には、落ち着き次第、翠鸞すいらん白鷹はくように護城の役につくよう命があったらしく、近々出立の予定だ。

 そのときには朱鷺も共についていくつもりであった。

「はい。もういいわよ」

 あの戦で怪我を負ってから、橙燕は付ききりで世話を焼いてくれた。それもあと少しのことだろう。

「それにしても、本当に傷の治りが早いわよね!」

「わたしは『朱鬼』だからな」

「誰もそんなこと言ってないでしょ。朱鷺は朱鷺よ! 鬼なんかじゃないわ」

「ありがとう」

 そう礼をいうと、橙燕は頬を少し染めてうつむいた。

「おいおい、うちの妹、たぶらかしてくれるなよ」

 そう言って、戸を開けたのは橙燕の兄の縹燕だった。

「お兄ちゃん! 勝手に女の子の部屋に入らないでよ!」

 橙燕がぷりぷりと怒ったが、縹燕は気にする様子はみじんもない。

「へえ、朱鷺も女の子のうちに入るのか。そりゃ知らなかった」

「入るに決まってるでしょ!」

 朱鷺もまさか自分が女の子に数えられるとは思ってもみなかったと言うと、三人に笑いがこぼれる。

「朱鷺。若が呼んでたぜ」

「わかった。すぐ行く」


 翠鸞はひとり弓場で鍛錬をしていた。心を鎮めて一矢一矢丁寧に射る。それでも的にあたるのは三本に一本だ。

「弓を持つ手が動いています」

「朱鷺…」

「もう一度、矢をつがえて」

 翠鸞が矢をつがえると、その左手に朱鷺が手を添える。

「わずかですが、矢を放つ瞬間に左手が外へ逃げています。このまま矢を放って」

 朱鷺に支えられたまま矢を放つと、たんという小気味良い音とともに矢が的に当たった。

「大きい弓に変えたのですね。それならば腕と胸の筋肉を鍛えなければ、弦の張力に負けてしまう」

「まだ、早かったかな?」

「いえ、日に日に背も伸びておられるし、早くはないでしょう」

 翠鸞は、朱鷺よりもまだ頭一つ半も低い。それでもこの年頃の少年の成長は早い。すぐに朱鷺に背が追いつくはずだ。

「十日後、榛の國に立つ」

 翠鸞がそう告げた。

「はい。お供します」

「よいのか?」

「ええ」

 翠鸞は、墨烏ぼくうが朱鷺に求婚したという話を聞いたらしい。戦が終わった後、墨烏は懲りずに朱鷺に求婚を繰り返した。朱鷺はすでにそれを断り、翠鸞についていくと答えていた。

「わたしにも、可能性があると思っていいのかな」

「可能性? 何のですか?」

「朱鷺を城の奥に迎える……」

「おく?」

 朱鷺はしばらく考え込んだ。翠鸞の頬がみるみる朱く染まっていったのを見て、それが何を意味するのか思い当った。奥とは國守の正室が住まうところだ。城の奥に迎えるということは、妻にするという意味に他ならない。

「ありません! そのようなこと、絶対にありえません」

「墨烏の嫁になる話は断ったと聞いたけど…」

「それとこれとは話が別です。若には、美しく聡明な奥方を選んでいただかなくてはなりません!」

 普段大きな声を出すことのない朱鷺が、本気で翠鸞を説得した。

 自分が、側仕えでなく奥方として翠鸞の隣に立つことなど、想像したこともなかった。

 この驚きは墨烏から求婚されたときの比ではない。

「返事は急がない。まだこれから数年、護城としての務めが続くのだから、その間に考えておいてくれてかまわないよ」

「え、あの…」

 朱鷺としては、すぐにでも断りたかった。しかし、先に待つと言われてしまっては、何も言えない。

「あ、それからこの話は、藍鷺らんろにもしてあるから」

「義父上にもしたのですか!?」

「父上にも、相談してあるから」

「御館様にまで…」

 朱鷺はがっくりと肩を落とした。しかし、たとえ國守である碧鸞の命があったとしても、これだけは受けるわけにはいかない。

「ここまで、慌てふためいた朱鷺をみるのは初めてだね」

 翠鸞はにっこりと笑って、朱鷺を見あげた。

「あの、もしかしてご冗談だったのでしょうか」

「違うよ」

 そう言うと、翠鸞は背伸びをし、朱鷺の頬に接吻をした。


 あごのあたりまで短く切っていた朱鷺の髪は、もう肩先まで伸びていた。もう少し伸びれば、また編み髪に戻すこともできるだろう。

 榛の國への出立まで、あと十日。

 それまで、朱鷺には義父と話をしなければいけないことが、たくさんありそうだった。

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朱鷺の城 源宵乃 @piros

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