苦悩と告白

唯人が現れてから三週間程経った頃、私が昼食を持ち彼の部屋を訪れると、彼は窓辺に片ひざを立てて腰掛け、外を眺めていた。外はしとしとと雨が降っていた。


「珍しく感傷に浸っちゃって、どうしたのよ」

私はからかったつもりだったが、意外にも唯人は真面目な顔をして私を振り返った。

「ちょっと昔のことを考えていてね」

「昔のこと?」

私が聞くと、唯人は少し迷ってから続けた。

「・・・僕がつくられた時のことや、その後のことだ」

私が黙っていると、彼は言葉を続けた。


「『彼』は幼い頃から父親に暴力を受けていてね。父親は酒が入ると大抵彼と母親に暴力をふるっていたんだ。彼はそれに耐えかねて僕をつくり出した。

それから暴力を受ける度に、僕が引っ張り出された。

そういった生活がしばらく続いて、ようやく『彼』の両親の離婚が決まると、奴は僕に消えるよう言ったんだ。悪いけど、もう出ていってくれないかって。

散々僕を利用したくせに、とんだ非道い扱いだよ」


唯人の話に対して、私は言葉を返すことができなかった。確かに、利用された挙句お払い箱というのはひどい話だ。しかし多重人格を患っていたくないという春生の気持ちもわからないでもない。

私に気の利いた言葉を期待したわけではなかったのか、彼は自嘲的に続けた。

「だから僕は意地でも出て行かないつもりなんだ。僕が納得するまでとことん居座ってやる。あいつにも、僕をつくり出したことと、良いように利用した罪を自覚させてやらないと」


「・・・本当に、春生さんがあなたを利用したの?」

私が言うと、唯人はゆっくりと私を振り返った。

「・・・人格の切替の主導権はあなたにあるのよね。もし昔からそうだったなら、あなたは春生さんが暴力を受けそうになると自分から表に出て来て、暴力を受けることを買って出ていたんじゃない?・・・それが、自分の役割だと思ってた?」


私が尋ねると、唯人はいつの間にか正面を見ていた。その視線は空を仰いでいた。

「・・・突然『異常なもの』として造り出されて、どういたらいいのかも分からない。・・・『偽物』に発生した意味があるのか、生きる意味があるのかも分からない・・・。だったら、とにかく目前にある『生きる意味』を遂行していくしかないじゃないか」

正面を向いたまま語る彼の声は珍しくかすれていて、弱々しかった。

私にはおそらく彼の気持ちの半分も理解できてはいなかったが、それでも自分が普通でないことや、存在意義の危うさといった彼の葛藤は感じることができた。


私は唯人に近付き、気付けば彼を横から抱きしめていた。唯人は身じろぎせず、私に抱きしめられたまま、ただただ虚空を見つめていた。


そのまましばらく、部屋には雨の音だけが響いていた。



 唯人が現れてから、四週間が経とうとしていた。


相変わらず彼は治療に非協力的で、状況は何の変化も見せていなかった。医師達はそんな彼に少々苛立っているようであったが、唯人本人はそ知らぬ顔で施設に居座り続けていた。


私はと言うと、春生の多重人格が治るに越したことはないが、唯人に消滅してほしいかと言われると、複雑な気持ちだった。この四週間で、私達は当初の予想よりも絆を深めてしまっていた。

 


 その日の夕方は、夏にありがちな雷雨だった。

私は自室で洗濯物を畳んでいて、外出の予定は無かったものの、早くこのひどい天候がおさまってくれないものかと考えていた。


その時、廊下から何かを言い争うような声が聞こえてきた。声は唯人と、彼の担当医師のものだった。

私が慌てて飛び出すと、予想通りそこには二人が向かい合っていた。

「唯人君、落ち着いて、一回部屋に戻ろう」

「うるさい、お前らの言うことなんか聞いてやるもんか。どうせまた僕を無理矢理消そうとするんだろう!」

医師が諭すも、珍しく唯人は激昂していた。どうやら中々治療を受けようとしない彼にしびれをきらし、医師が彼に無理強いをしたのだろう。

(そんなのって、あんまりだわ)

私が無言で見つめていると、医師が私に気付いた。

「ほら、明智さんも何事かと驚いているだろう。ここは一旦部屋に―」

医師が唯人に手を差し出したが、彼はその手を振り払い、私を一瞥すると、雷雨の中に一人飛び出して行ってしまった。

 

私が慌てて後を追って外に出ると、唯人は古民家の前で立ち尽くし、空を仰いで雨に打たれていた。医師達が追ってくる様子はなかった。


「―唯人・・・」

私が声を掛けるが、彼は反応しない。もう一度声を掛けてみる。

「そこに居たら風邪、ひいちゃうから、中に戻ろう?先生達もこれ以上は構って来ないって」


ややあって、唯人は口を開いた。

「・・・みんな、僕に消えろ消えろって、・・・そりゃあ、僕だって、そうしなきゃいけないことくらい分かってるさ・・・。でも・・・どうしろって言うんだ・・・僕の今までやってきたことは?僕の人間としての価値は?・・・れっきとした一つの魂なのに、存在することすら認められないっていうのか・・・!?」


彼の前髪が長いことに加えて、大雨に降られているため、彼の表情は分からなかった。

しかし彼の安定しない声音から、もしかしたら彼は泣いているのかもしれないと思った。


「・・・・・・二人居たって、いいじゃない」


私がつぶやくと、彼は少し驚いたように私を振り返った。

「二人居たって、いいじゃない・・・!貴方は貴方なんだから!・・・ちょっとひねくれていて傲慢だけど、貴方が本当は優しい人なんだってこと、私は知ってるから・・・!貴方には貴方の良い所があるんだから、消える必要なんてない、・・・消えなくたっていいわ!」

私は泣きながら叫んでいた。私の言ったことは、正しい道理からは外れているのかもしれない。本来の望ましい形ではないのかもしれない。それでも、私は唯人に消えてほしくなかった。今ならはっきり自覚できる。私は彼に消えてほしくなかった。


私が想いの丈を叫ぶと、彼は目を見開いて私を見つめた。激しい雷が鳴り、彼のその顔が一層よく照らされた。そのまましばらく、私達は無言のまま大雨の中に立ち尽くしていた。


遠くで再び雷が強く鳴り響いた。

 


 その夜、私は風呂でよく温まり、念入りに髪を乾かすと、早めに床につくことにした。夕方あんなにも雨に打たれたので、風邪をひかないようにしなければいけないと思った。


あの後唯人の部屋に夕飯を持っていったが、部屋の襖に「立入禁止」と書かれた紙が貼ってあったので、仕方なく彼の部屋の前に夕食を置いておいた。私としても先刻あんなことがあったばかりだったので、あまり彼と顔は合わせたくなかった。


布団に入って眠ろうとしたが、どうしても夕方の出来事が頭から離れなかった。

それでもしばらくゴロゴロとしていると、疲れのせいかうとうとしてきて、私は眠りについていた。



 ―それから数時間ほど経った頃、私の肩に優しく何かが触れ、私は目を覚ました。

暗い中目をこらすと、そこには唯人が居た。

「・・・みや」

浮かんでいる表情は切なげで、また名前を呼ばれたのも初めてだったため、一瞬彼が春生なのかと思ったが、何となく私は唯人だと確信した。

「・・・な、」

何してるのよ、と私は咎めようとしたが、彼に唇を塞がれたため、それはできなかった。

「ん、」

驚いて唯人を見上げると、彼は私に覆い被さった状態で、切ないような、苦しそうな顔で私を見ていた。

「―いいか」

彼が私に聞いた。私は突然のことで驚いていたが、その言わんとしている事は勿論理解できた。

そこで初めて彼への感情を正確に理解した私は、ゆっくりと頷いた。

この時初めて、私達は身も心も一つになった。


そしてそのまま私は眠りについてしまい、唯人は私の横で肘をついて寝そべりながら、私の寝顔を眺めていた。

月明かりに照らされたその顔に表情は無く、ただ静かに眠る彼女を見下ろしていた。

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