第10話 レイラの過去08

 父が死んでから、レイラにとってヴィネアは呪われた街となった。残されたのはギャングとしての人生だけであり、どう考えても破滅的な未来しか待っていない。


──どうしてわたしは逃げ出さないの?


 時々、レイラはそう考えた。自分ほどの力があればヴィネアを飛び出して生きてゆくことができる。狂信者たちの聖夜ギル・デ・バレンタインに追いかけられるかもしれないが、人知れずひっそりと生きてゆくことくらいはできるだろう。


──ああ、そっか。わたしは……。


 そんな時、思い出すのは貧民街のみんなだった。レイラがヴィネアから逃げ出せば、ニコラは貧民街を攻撃対象として暴力を振るうだろう。それも苛烈に。


──わたしとお父さんは貧民街まちのみんなにお世話になった。その借りは返さないと……。


 レイラをヴィネアに繋ぎとめるもの……それは、貧民街に対する恩義だった。受けた恩を忘れないこと。それが、今のレイラに残されたささやかな矜持プライドだった。


──でも、本当にそれだけ……?


 レイラは父のいない部屋で鍵盤に向かった。人差し指で鍵盤をくと、指先から微かな振動を感じると同時に柔らかな高音が響く。レイラは寂しげな音色に耳を澄ませながら目を閉じた。


──わたしをヴィネアに縛りつけるもの……それは貧民街まちのみんなや、お父さんとの思い出だけじゃない。それは……。


 瞼の裏にニコラの面影が浮かんでくる。意外にも、レイラが固執しているのはニコラだった。そのことに気づくと、レイラはゆっくり目を開け、今さらのように自嘲する。



──グダグダ理由を並べているけれど……結局のところ、わたしはニコラが好きなんだ。ニコラ・サリンジャーが好き……。



 そう認めてしまえば幾分か心が軽くなった。ギャングとして敵を殺すたびに感じていた罪悪感も麻痺してくる。レイラは鍵盤を閉じるとそのまま『ネオ・カサブラン』へと向かった。


──音楽家としてだろうが、ギャングとしてだろうが……ニコラが望むなら、わたしはどこまでも一緒についてゆく。


 レイラは急いだ。まとわりつく潮風が父の死を思い出させる。すべてを錆びつかせる潮風が心と身体をむしばむ前に、ニコラの笑顔を見たいと願った。


──きっと、わたしはお父さんと同じで、まともな死に方をしない。それはわかってる。それなのに、覚悟が足りないんだ。


 レイラは沈みゆく夕陽に目を細めながら足早に歩いた。浜辺では遊び疲れた子供たちが家路についている。子供たちはレイラに気づくと「レイラだ!!」と歓声を上げて近寄ってきた。その中にはまだ幼いネイトもいた。


「なあ、レイラ。これ見てよ!!」

「え?」


 ネイトは浜辺で拾った『玩具の銃』を見せた。得意げなネイトを子供たちが取り囲む。


「俺もいつかはレイラのように貧民街まちを守るんだ!! 強いになるよ!!」

「「「俺も!!」」」

「「「わたしも!!」」」


 ネイトが小さな手で銃を掲げると、他の子供たちも一斉に続く。その光景を見てレイラはゾッとした。さっき決めたはずの覚悟も揺らいでゆく。


──な、何を言ってるの??


 レイラが青ざめた顔つきになるとネイトは首をかしげた。


「……レイラ、どうしたの?」

「ううん、何でもない。忙しいから、もう行くね」


 レイラはネイトの頭をなでると逃げるようにしてその場を後にする。ネイトや子供たちはそんなレイラを不思議そうな顔つきで見送った。


 子供たちにとってレイラは生きる伝説だ。誰もがレイラの活躍に憧れている。しかし、それはレイラが暴力の象徴となっていることに他ならない。いつの間にか、レイラは子供たちを暴力へと導く、道標みちしるべとなっていた。



──なんで……。



 残酷な現実がレイラの胸を締めつける。押さえこんでいた罪の意識が再び頭をもたげた。レイラはキュッと下唇を噛み、自分自身に言い聞かせる。



──もう、戻れないんだ。立ち止まるな……。



 ギャングとして生きると決めたレイラには相談相手などいない。苦悩を語れる友人など皆無かいむだった。レイラは振り返らずに歩く。ギャングとしての歪んだ覚悟を胸に秘めて……。


 のち狂信者たちの聖夜ギル・デ・バレンタインの『冷たい死神メルデ・ロサ』として名を馳せるレイラ・モーガン。彼女はこうしてヴィネアの裏社会を駆け抜けていった。

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