第50話

 目が覚めると、そこはベッドだった。昨日は確か、窓際でお酒を飲んでいたはず、と海の見える窓へ目を向ける。そこには、珍しく僕より早く起きて窓の外を眺める詩音くんがいた。


「詩音くん?」


 つい、口が動いてしまった。慌てて両手で口を抑え、肩をすくめる。なんとなく、気軽に話しかけてはいけない気がした。

 しかし、詩音くんはゆっくりと振り向いて、それはそれは優しい顔で微笑んだ。


「起きたの、楓」


 その声があまりに柔らかくて。まるで、僕のことが好きなようだ。でも。これはきっと僕の気の所為で、彼ならきっと誰にでもやるのだろう。

 僕は彼の問にただ頷いて応えた。

 彼は僕の首肯を見てふっと息を吐いた。


「楓、海綺麗だよ」

 

 そう言って再び詩音くんは海へ視線を戻す。その流れるような視線の動きはとても綺麗で。昨日あんなに泣きじゃくっていた人と同一人物とは、まるで思えない。だからこそ。なんだか、まるで再び恋に落ちたようで。

 気がついたら、僕は彼が誘うがままにベッドを降りていた。


 ふと、スリッパの隣にあったゴミ箱へ足が当たった。倒れたゴミ箱からは、大量のティッシュが溢れ出した。


「うわっ」


 思わず声を上げて、それを拾うべくかがみ込む。しかしティッシュへ手が触れる前に、いつの間にか駆け寄っていた詩音くんが僕の伸ばした手を掴んでいた。


「いいって後で。それより、おいで」


 彼はそう言って強く、僕の手を引いた。


 手を引かれて向かった窓の外には、太陽に照らされて光り輝く黄金の海があった。夜の雰囲気とはまた違うそれが綺麗で、思わず息を呑む。

 そんな僕の横で、詩音くんはふっと息を吐いた。


「なんかいつも通りだね、楓は」


 何を思ってそう言ったのかは分からない。でもきっと、いい意味ではない気がして。僕は目を逸らして踵を返した。


「詩音くん。朝ごはんに間に合わなくなるで」

「大丈夫、服だけ着替えたらもう行けるから」


 確かに、と思う。彼の顔なら、髪の毛のセットなんてしなくても人前に出られそうだ。


「顔面ええ人は楽やなあ」


 嫌味をこめてふっと笑う。背後からは、ハハと笑いが返ってきた。しかし。


「俺は」と、詩音くんは言った。


 しかし、僕が振り向くと下唇を噛んで俯き口篭ってしまう。よく分からないけれど、彼が話したくないのならそれでいい。

 彼の言葉を無視して再び前を向くと、背後からは小さな、消え入りそうな声がポツリと響いた。


「楓も美人だし、顔いいと思うけど……」


 ふはっ、と、思わず声が漏れる。喜んだ訳では無い。ただ、無責任な、と思った。

 ひなたの顔の方が好きなくせに。


「詩音くんには負けるわ」


 でも。僕は敢えて否定することも無くただ、笑ってそう言った。その方がきっと、友達っぽく笑い合える。

 そう思ったのに。詩音くんはひとつも笑い声を返すことなく、ただ「そうかな」とだけ呟いて窓際の椅子へ腰を下ろすのだった。

 

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