第49話

 結局、あの後詩音くんは何も話してはくれなかった。気まずい沈黙の横たわるタクシーを降り、煌びやかな建物に足を踏み入れる。大きなシャンデリアの下を通り受付へ立つと、詩音くんは泣きはらした目を隠すべく俯いて僕のコートの袖を握った。どうやら、助けを求められているらしい。

 僕は雪で乱れた前髪を直しながら詩音くんを隠すように前に立ち、キッチリとした制服に身を包んだ受付の女性と目を合わせる。


「ご予約はされていますか?」


 彼女は、その一見きつく見える濃いアイラインの引かれた目を優しく和らげた。詩音くんが好きそうな風貌だ、と思う。もっとも、彼はそれどころではないのだろうけれど。

 はい、と答えた僕に彼女はタブレットをタップしながら小首を傾げた。


「お名前伺ってもよろしいでしょうか」

「如月です」


 僕が詩音くんの苗字を名乗ったのに対して、隣の詩音くんが顔を上げたのを感じる。横目に見た彼の表情はなんとも言い難い、複雑なものだった。


 すぐに、彼女の手元の機械から2枚のカードが飛び出してくる。渡された『key』と印字されたカードを手に、僕は軽く頭を下げてエレベーターへと向かうのだった。




 そうしてたどり着いた部屋は茶色に統一された、二人で泊まるにしてはあまりにも広いお部屋。海の見える大きな窓の傍に設置されたガラステーブルの中央に置かれた名も知らぬ真っ白な花は、いかにもな高級感を醸し出していた。きっと、あそこでお酒を飲んだらさぞ美味しいことだろう。


「ごめんね」


 詩音くんは、ある一点を見つめて初めてそれらしい言葉を発した。なるほど、と思う。そこには、大きな枕が6つも並んだダブルベッドが鎮座していた。


「ええよ、別に。詩音くんが嫌なら僕ソファで寝るし」

「……嫌じゃない」


 低い声で返す彼はなんだかまるで傷ついているようで、少し可哀想に思う。もしかして、僕が何か間違えていたのだろうか。そう、考えてしまいそうになる。だから。


「僕、風呂入ってくるわ。詩音くんも来る?」


 僕は虚勢を張った。まるで気にしていない風に。もう、ただの幼馴染に戻ったように。

 もちろん、詩音くんが首を縦に振ることはない。彼はぶんぶんと首を横に振り、そのままベッドへ倒れ込むようにして横になった。

 彼に断られることが分かっていた僕は、安堵の息をついて部屋の風呂場へと向かった。大浴場に行く気力は、流石の僕にも残されてはいなかった。




 室温のせいで少し躊躇う気持ちを抑えて、服を脱いでカゴへ放り込む。いつもなら畳んでから風呂へ入るところだけれど、今日はもういいだろう。僕は、二の腕を擦りながら急いで浴室の扉をくぐった。

 シャワーから出るお湯はごく普通の温度であるはずなのに、冷えた肌にはあまりに熱いものに感じて思わず飛び上がる。鏡の向こうにいる僕の顔は、案外普通の顔をしていた。

 一茶やひなたがいてくれたら、心置きなく泣けたのに。




 風呂を出ると、棚の上には1人分のタオルと部屋着の浴衣が用意されている。確かに畳まれているそれらだけれど、角が揃っていなかったり、下のものとズレていたり。おおよそホテルの人がやったとは思えない。きっと、忘れていった僕を見かねて、詩音くんがやってくれたのだろう。あんなに落ち込んだ様子だったのに。

 そんな健気な彼がなんだか可哀想で。僕は髪と体を入念に拭いてから浴衣を羽織って肌が見えないように整えた後、脱衣室から顔を覗かせた。


 「詩音くん、帯結んで欲しいんやけど」


 相変わらずベッドに沈んだ詩音は、声をかけても暫く反応がなかった。しかし、少しすると再び声をかける前にのっそりと体を起こした。

 虚ろな瞳と、目が合った。彼はそれを逸らすでもなく、「楓が俺に頼るなんて、珍しいね」

 とだけ言って半開きだった脱衣室の扉を開けた。

 彼の視線が、胸元に注がれたのがわかる。帯は締めていないが事前にキッチリ整えたため露出のないそこを見て、彼は分かりやすく落胆したように肩を落とした。

 そして、再び目が合った。


 「……ごめんね。だから振られるんだよね、俺」


 僕は何も言っていないのに、勝手に傷ついて大きくため息をつく詩音くん。しかし、否定するのもそれはそれで野暮だろう。


 「大丈夫」


 そうとだけ言うと彼はただ小さく頷いて、棚にあった帯を手に僕の後ろへ回って背後に立った。

 僕が胸元を抑えたまま肘を上げて袖を避けると、詩音くんは不器用に強く帯を僕の背中へ当て、お腹の方へ手を回す。

 ふわっと香った詩音くんの香りが、なんだかとても久しぶりでな気がして心地よい。背中に感じる温もりはまるで彼の腕に抱きしめられているようで、気を抜けば涙が込み上げてきそうだ。

 詩音くんが、その状況をどう思ったかは分からない。でも、少なくとも思うところがあったのは僕と同じなのだろう。彼もまた、何かを考え込むようにしてそのまま固まって、動かなくなってしまった。


 「詩音くん?」

 と、僕が声をかける。


 本当は、このままでいたかったけれど。でも、決断したのは僕だったから。


 彼は僕の声に反応を示すことなく、呆然と立ち尽くしている。どうしたんだろう。と、そう彼の方へ振り向こうとした時、彼は突然僕のお腹へ回した腕へ強く力をこめ、僕を抱きしめた。


 「楓、ごめんなさい」

 そういう詩音くんの声は、涙で震えていた。


 「俺、一茶の言うこと聞いておけばよかった」

 と、彼は続けた。


 確かに、と思う。初めの頃、一茶が僕たちの関係を否定した時。彼の言うことを聞いてすぐに別れておけば、僕がここまで傷つくことはなかったのかもしれない。それに、もう1年近くも経ってしまっていて、その1年間には新しい恋に進めるようなイベントだってあった。だけど。


 「んーん」と、僕は首を横に振った。「素敵な思い出やったで」


 もちろん、僕はこれからも彼を忘れることなんて出来やしない。きっとずっと、僕は一生この1年を頭の中で反芻し続けるだろう。

 それはこの1年があったからこそで、なかったらまた違う未来が存在していたのかもしれないし、その方が幸せだったのかもしれない。だとしても。僕は、再びあの日に戻れたとしても。絶対に一茶に従うなんてできない。


 「僕は幸せやったで。ありがとう」


 詩音くんが、僕の肩へ顔を埋めた。

 せっかくお風呂に入ったのに、さっそく肩が涙で濡れるのがわかる。でも。そんな彼の涙もまだ、愛おしかった。


 僕を抱きしめる彼の手へ手を重ね、強く握る。彼の指には、いつぞや彼が僕に渡してくれた指輪があった。恋人から取り上げた指輪を自分でつけるなんて悪趣味な、と思う。でも、そんなことも気にしない彼のその子供のようなところも、大好きだった。


 「泣くなや」


 胸元を抑えていた手を離し、僕の肩にある詩音くんの頭を撫でる。彼ははだけた僕の胸元へ視線を向けることすらなく、ただただ肩を震わせるのだった。






 ひとしきり詩音くんを泣かせた後、ようやく泣き止んだ彼をお風呂へ押し込め、自分でしっかり帯を結んで部屋へ戻る。

 部屋には、いつの間にか詩音くんが買ってきたであろうお酒が3缶ほど、ガラステーブルへ置かれていた。しかしそれには手をつけられることなく、代わりにホテルの冷蔵庫にあったであろう水が蓋も閉められぬままに放置されている。

 思わず喉がなった。

 梅味のそれは明らかに僕のために買ってきた物ではなく、彼の好みだ。でも。僕はつい、お風呂へと急いだ。

 彼に許可を取ろうと脱衣室の扉を開きお風呂の扉へ手をかけようとした時、中のシャワーの音が止まった。静まりかえったなか、彼はふっと息を吐いて言った。


 「お酒? 飲んでいいよ。俺飲まないし」

 「ありがとー」


 僕は出来るだけ明るい声色でそう言って、再び部屋へと戻るのだった。


 部屋へ戻り、早速ガラステーブルの正面に設置された椅子へ腰を下ろし、缶を開ける。香る梅の香りは一緒に飲んだ時によく詩音くんから香る、思い出の香りだった。


 やっと、涙が零れた。


 もう二度と、彼がこの梅のお酒と一緒に僕の好きなレモンのお酒を買ってくることは無いのかもしれないと、そう思ったから。

 ただの友達に戻りたかったのに。戻れると思ったのに。なのに、こんなに傷つかれると思わなかった。何だかまるで。

 僕のことが、好きだったみたいだ。

 別れなかったらよかった。そう、軽率に考えてしまう。別れるために提案した旅行だったのに。もうずっと前から、意思を固めていたことだったのに。


 梅の香りを一口口へ含むと、懐かしい気持ちになる。一緒に飲む時に分けてもらったり、僕もお揃いで買ってみたり。でも。1番好きな味は、彼が朝まで飲み明かしたときの残りを仕方なく飲む時の、あの炭酸の抜けた梅の味だった。


 「詩音くんっ……」


 彼へ宛てるでも無く呟いた声が、涙で震えた。


 こんなに綺麗な海なのに。なのに、その前で告白をされることがあっても、まさか別れ話を匂わされるなんて思わなかった。

 いっそのこと、と僕はスマホを取り出しメッセージアプリを起動する。その上の方には一茶とひなたがいる。この気持ちを全部、彼らに吐いてしまおうかと。そう思った。けど。僕は踏みとどまって下の方へスクロールする。

 一茶とひなたは、今日が付き合った記念日だった。そんな日に、わざわざ友人の別れ話など聞きたくもないだろう。

 ならば、と僕はスクロールの手を止める。そこには、なんだかオシャレなフォントのローマ字で記載された姉の名前が表示されていた。

 名前をタップし電話をかけてしまおうと、指を伸ばす。しかし。その指は、それ以上動いてはくれなかった。

 電話したところで、何をどう話せばいいのか、分からなかった。


「詩音くんのアホ……」

 

 だから、僕は当てつけのように今ここにいない詩音くんへ悪態をついてから、目の前のお酒を一気に飲み干した。

 そうして、2缶目を空けて、3缶目にも口をつけて。気がつけば、そのまま意識を手放していた。

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