第48話

「はい、着きましたよ」


 タクシーの反対側の扉が開いた。それと同時に、サァ、と綺麗な波の音が僕の心を落ち着ける。


「ありがとうございました」


 お礼を言ってタクシーを降りようとすると、詩音くんが僕に手を差し伸べた。僕は、何食わぬ顔でその手を取って立ち上がる。

 小さな街灯が数か所灯る、展望台のようになったそこからは、うっすらと水面に月明りが輝く海、そして満天の星が一望できた。


 タクシーの走り去る音を聞きながら、気づけば二人、示し合わせることなく端の方へ歩みを進める。不思議と寒さも気にならないくらい、海に魅せられている僕がいた。

 彼と並んでみる海は、それはそれは綺麗な眺めで。微かな汐の香りと冷たい夜風が、心地よくさえ感じられた。だから。この身の震えは、もっと別のものによるものだ。


「どう? 綺麗でしょ?」


 隣に並んだ詩音くんはそう微笑んだ、ように見えた。でも。僕は知っている。綺麗でしょ、なんていうくせに、彼はさっきから星にも海にも目をくれず、ただ僕だけを見つめている。

 薄暗くて見えないけれどきっと、とても優しい表情をしている。それだけは分かった。


「綺麗やね」


 僕は隣からの視線を感じながら、敢えて彼へ目もくれずに返した。

 もしこれが本物のカップルだったならば、どんな会話を楽しむのだろう。そんなことを考えながら。


 優しい風が頬を撫でる。少し前は心地よいと感じたそれは、さらされ続けると少し寒い。まるで、と思う。

 詩音くんみたい。

 ついその凍てつく寒さに目を細めると、隣から暖かい手が伸び、僕の片頬を包んだ。暖かかった。幸せだった。でも。次の瞬間には、紫色の綺麗な瞳が目の前にあって。そして、そっと、唇が奪われた。

 だめ、と本能が叫んだ。なのに僕は、目をそっと閉じた。


 ぬくもりを感じたのはほんのひとときだった。それでも僕は、この口づけを一生忘れないだろう。

 幸せだった。本気で、そう思う。


 だから。


「ええんやで、そういうの」


 敢えてまるで何でもない風に夜の空へ向き直り、ほんのり積もった雪を踏みしめる。冷たい柵を握ると、冷えた指先がじんじんと痛んだ。


 僕は知っていた。このキスは嘘だった。僕が詩音くんへ抱く恋心が彼に伝わっているからこそ、彼が気を遣ってくれたに過ぎないのだ。

 そういうのは、もういらない。最後くらい、本物の詩音くんを見たかった。


「信用されてないね、俺」


 たははと詩音くんは露骨に乾いた笑いを上げ、柵に体重を預けて僕と同じように空を見上げた。その表情は、やっぱり少し普段より強張っているように思える。

 あたりまえだ、と思った。だって、こうして並んで星空を見上げる今、彼が想うのは恋人であるはずの僕ではないのだから。信用されないのなんて仕方がないだろうと思った。


 見上げた先には、名も知らない星々がこっちの気も知らずにキラキラと輝いている。まるで、子供がばらまいた金平糖みたいだ、とぼんやり考えた。


「あれはこいぬ座だよ。んで、あっちがおおいぬ座。あっちがオリオン座」


 柵がしなるのも気にせず、彼は空へ向かって身を乗り出し指を指した。この広大な空が広がる中、彼がどれを指さしたかなんてわからないし、興味もない。ただ。彼が星なんて知っているとは思わなかった僕は奇妙に思い「ふーん?」と首を傾げた。

 しかし、僕にはわかっていた。彼のその無邪気さは、今日ばかりは彼の意図したものだった。柵を握る彼の手が震えている。決して僕の方へ向かない瞳が泳いでいる。

 緊張を隠し切れない震えた声で、彼は言った。


「そのみっつの星座の一等星同士を結んだら、冬の大三角形になるんだ」


 そう目を輝かす彼の表情は、彼が敢えて僕に見せた偽りのものだと分かっているのに。それでも一等星なんかよりもずっと、輝いて見えた。

 かっこよかった。それは整った顔立ちの事ではない。僕を傷つけまいと、笑顔を作って無邪気に振舞うその優しさが。

 目の前の星が滲んで、ぼやけて見える。

 なにも言わない僕を不思議に思った彼は、よくやく僕の方へ視線をくれた。


 いつもそうだった。詩音くんは僕よりも、他の何かに夢中だった。まるであの一等星のように輝くひなたの隣でくすんだ僕を、確かに彼は見つけてくれた。しかし、それはいつだってひなたの次で。いつだって、僕は二番星だった。


 でも。二番星だとしても、嬉しかった。嬉しかった、はずだった。


 頬を伝う涙をコートの袖で拭い、ゆっくりと彼の方へ顔を向ける。きっとそれは、最高の笑顔だったことだろう。だって。

 すごく幸せだった。まだ、愛していた。

 だからこそ。詩音くんが今から僕に伝えようとした言葉を、彼の口から言わせたくなかった。あんなに緊張した、強張った顔を、もう見たくなかった。

 悪者役は、僕が適任だ。


「ありがとう、詩音くん」と、僕は言った。

「え、何が」と、彼は慌てたように僕の目尻を親指で擦った。


 でも。もう、慰めなんていらない。余計に、惨めだから。






「──別れよう、詩音くん」





 わかった、と。詩音くんはただそうとだけ答えて、しばしの間僕を抱きしめた。

 夜の空の下に響く小さな嗚咽には、波の音で気づかないふりをしてあげて。僕はただ後頭部を優しく撫で続けた。


 泣きたいのは僕の方なのに。

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