第51話

 目の前の真っ白なお皿に盛りつけられた美味しそうな焼き立てクロワッサンや、メロンパンの甘い香りが食欲を煽る。他にも、銘柄はよくわからないがどうやらいいものであるらしいコーヒーや真っ赤なたこさんウインナなど。どれも自分自身で選らんだ選りすぐりの物なだけあって昨日の夜もたくさん食べたはずなのに腹の虫が大声で鳴いた。

 先走って分泌された唾液を飲み込みながら、先ほど整えたばかりの前髪を弄る。待ちわびていた相手は、お盆に乗った大量の唐揚げとポテト、そして大盛りのご飯を持って現れた。


「おまたせ。食べててよかったのに」


 さも、僕を理解できないといったようにキョトンと目を丸める詩音くん。

 僕は、首を振ってそれに返す。


「んーん。せっかくやし一緒にいただきますしようや」

「そー?」


 そうして慌てて席に着き手を合わせる彼は、喜ぶべきか悲しむべきか。案外もういつも通りだった。


「詩音くん、朝やのにいっぱい食うなぁ」と僕が笑う。


「昨日彼女に振られたもんでね。やけ食いだよ」

 と詩音くんは少し自棄を含んだ笑みを零して、大きな唐揚げを頬張った。


 彼女、という言い方に抱いた違和感はさておき。

 悲しんでいるような言い方をする彼だけれど。でもやっぱり、ひなたに振られた時の落ち込み方とはまるで違う。あのときはもっと酷かった。それはもう、例えば、好きでもない人を適当に抱いてしまうくらいには。


「そか。僕もやけ食いしようかな」


 複雑な気持ちを押し殺し、適当に笑みを零してバターの包みを開く。その乳製品特有のなんとも言えない食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐるが、気が付けば先ほどまでやかましく鳴いていた腹の虫の声は、ピタリと止んでいた。


「楓は食欲なくなるタイプでしょ」


 詩音くんはそう僕を笑った後、目を伏せた。


 なんだか、少し気まずい。

 ほとんど噛まずに米を飲み込む詩音くんを尻目に、名称のよくわからない平たい道具でクロワッサンにバターを塗りつける。小さな口で齧ったそれは、確かに普段パン屋さんで食べるものより更に濃厚なバターの風味がたまらなかったが、不思議とそれ以上の食欲はそそられなくて。気が付くと僕はただ詩音くんを眺めていた。


 伏せがちな瞳のおかげで、いつにも増して長く見える睫毛。外見なんか気にしなさそうに見えて、実はしっかりと整えられた眉。高い鼻と、薄い唇。そして。動くたびに揺れる黒髪は、まだ朝でろくに整えられていないはずなのに、やっぱりどうにも目が離せなかった。

 じっと見ているうちに、さすがの詩音くんも視線を感じたのだろう。ふと顔を上げ、僕の瞳をじっと見つめた。


「楓、見過ぎ。メロンパン食べなよ」

 と彼が指さす先には、まだ一つも口をつけていないメロンパンがある。


「お腹いっぱいなんやもん。詩音くん食べて」

 

 僕が少しあざとく口を尖らせると、彼はふっと笑ってメロンパンへ手を伸ばした。


「仕方ないなぁ。楓が甘えてくれるなら食べてあげるかぁ」


 そう言う彼はなんだか、嬉しそうな顔をしていた。それに釣られてつい、僕も嬉しい気持ちになる。でも、もう別れたのに。そう思うとどうにも気持ちがまとまらなくて、僕はまた顔を逸らすのだった。






 そうして残りは詩音くんに食べてもらって、ほとんど朝食のビュッフェを堪能しないままに部屋へ戻る。一方で、いつになく大量のご飯を食した詩音くんはそれでも苦しそうな顔をすることなく颯爽と準備を始めた。といっても、詩音くんの準備なんか精々、髪を整えるくらいだけれど。

 そうして準備をすることものの数分。ベッドに座って待つ僕を見て、彼は憂を含んだようにふっと笑った。


「待っててくれたんだ」

「……うん」


 頷いて返すと、彼は僕の頭をぽんと撫でた。


「行こっか」


 ドキッと胸が跳ねる。もう、ただの友達なのに。


 さわやかな顔をして部屋を出ていく彼の後をつけつつ、彼が忘れたカードキーを財布へしまい込む。きっと、詩音くんに渡しておいたらなくすだろう。

 詩音くんは、そんな僕を待つこともなくすたすたと廊下を歩く。僕は、そんな彼の後を絶妙な距離を空けながら歩いた。昨日は僕の手を優しく引いてくれたその手は、硬く握られていた。

 エレベーターの前に立ち、到着を待つ間。そんな何気ない時間も、まるで世界が丸ごと停止してしまっているかのように静かで。呼吸の音一つとってもうるさく耳に響いた。


「詩音くん」


 沈黙に耐えられなかった僕は、そう彼を呼んだ。しかし、その瞬間目の前の扉が開いた。詩音くんは、僕の声に返事をすることなく開いた扉をくぐった。

 色々思うことはあるけれど、僕も慌てて後に続く。


 扉が閉まり、いよいよ狭い空間に二人きりになってしまった中。僕が気まずいと思うよりも前に、詩音くんが僕に視線を向けた。なんだろう、と思うのも刹那。さっき、名を呼んだ時の要件を聞かれているのだと気が付き、慌てて口を開く。


「あ、えっと……今日は、どこ行くんかなぁと思って」


 言葉をつっかえさせながら、どうにか声を絞り出す。なのに、詩音くんはそれに返すことなく自身のズボンのポケットからスマホを取り出し、それへ視線を落とした。やっぱり、まだ気があるようなことを言う割に、詩音くんも気まずいのだろうか。そう落胆した時、僕の上着のポケットでスマホが音を立てた。画面に表示された通知には、『12月26日 デート予定』との題がついたメモが共有されていた。


「それ、今日の予定。俺は適当に時間潰すから。楓、一人で行っておいで」


 詩音くんはそう言って、下唇を噛んだ。

 心臓が、嫌な意味で音を立てる。息が苦しかった。でも、振ったのは僕で。こうなるのなんてわかっていたはずなのに。だから。

 僕は、固く口を結んだ。決して、『いやだ、一緒がいい』なんて言葉を漏らさぬように。


 詩音くんが、再び僕の方へ視線を送る。彼はしばしの間瞬いた後、おもむろに眉を下げ、そして。

 困った顔をして、それでも優しくふっと笑みを零した。


「楓は、好きじゃない男にもそんな顔するの?」




 チンと音を立て、扉が開いた。

 僕が言葉を探して唇を微かに動かす中、彼は振り向くことなく大きなガラスの扉がそびえる玄関へと向かう。

 覚悟は、していたつもりだった。なのに。

 気が付けば、彼の名を呼んでいた。


「詩音くん……!」


 その声は、確かに彼に届いていた。彼は、ゆっくりと振り向いて僕を見た。彼のその瞳には、あまりに生気が宿っていなかった。

 まるで、蛇に睨まれた様に体が動かなかった。

 待ってと言えば、聞こえる距離だった。手を伸ばせば触れられる距離だった。

 ──好きと言えば、また愛せる距離だった。


 でも。一丁前に別れる覚悟だけ持った僕は、彼を手放す覚悟も、それでいて再び手を取る覚悟も、持ってはいなかった。


 詩音くんは言った。


「じゃあね、楓」


 手を振って僕の元を去る詩音くんは、やっぱり僕の大好きな優しい顔をして微笑んでいた。




 嫌味のように燦々とロビーへ差し込む陽の光。扉が開いたときに吹き込む風の温度。そしてなにより、外へ向かう人々の表情。僕は、昨日の一日を北海道で過ごしたからわかる。

 今日は、北海道にしては珍しいほどの晴天だった。

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