第39話

 目が覚めると、珍しく体が暖かい。振り向くとそこでは、僕に抱きついた詩音くんが心地よさそうにすやすやと寝息を立てていた。

 長いまつ毛、柔らかそうな頬、薄い唇。そのあまりに整ったパーツと完璧な配置に目が奪われる。ゴロンと寝返って彼の方へ向かい合う形になると、その顔が更に近づいた。

 ふいに漏らされたと息が僕の髪を揺らす。

 つい、頬へ手が伸びた。なんとなく、触り心地がよさそうだったからなんて理由ではない。明確に愛おしかったから。

 その時、視界に僕の手が入りこんだ。なんの変哲もない普通の手。そのはずだった。でも。なんだか違和感を覚える。その違和感の正体には、すぐにたどり着いた。

 昨晩、彼が僕に囁いた言葉を思い出したからだ。


『一旦これ、返してね』


 彼はこう言っていた。そして。僕の手に今、詩音くんがくれたはずの指輪が存在していなかった。少し前までは普通の光景だったはずなのに、今となってみるとなんだか飾り気がなくて寂しく見える。僕はそんな僕の指を、ただぼうっと眺めた。


 プツンと、音がした気がした。何かが切れる音。

 諦めたくないと思っていた。諦められないと思っていた。もしかしたら、なんて思っていた。

 それは、呪いだった。絶対にここから幸せになれることなんてあるわけがないのに、僕を縛り付ける呪いに抗えなかった。その呪いの名は、僕の初恋でも愛でもない。ただの


 ──執着だ。


『もう、諦めなくちゃいけないんだ』


 今まで薄々感づいてはいたけれど決して目を向けなかった事実が今、やっと胸に馴染んだ。




 今日は、珍しく詩音くんも朝から授業が入っている。そして逆に、ひなたと僕、そして一茶はお昼からだ。つまり。朝、二人きりになろうと思うと都合がよい日。

 今日しかない、と思った。今日思い立ったのも、きっと何かの運命だ。善は急げともいうし。

 僕は早速身体を起こして、詩音くんを起こさないようにゆっくりとベッドを降りる。そして、降りた後に後悔をした。ここで眠るのも、もう最後だったのかもしれない。もっと、心して降りるんだった。


「行ってくるね、詩音くん」


 彼が聞いているわけないのに、なんとなく声に出す。その声は少し、震えていた。引き留めてくれないかなと、期待している自分がいた。今引き留められたら、きっと一生離れられない。そうわかっているのに。でも。そんな心配は無用だったようだ。

 結局、彼が目を覚まして僕の腕を掴むことはなかった。


「ありがとう、詩音くん」


 だから僕は、ただそう告げて部屋を後にした。

 付き合ってくれたことへか、それとも今引き留めないでいてくれたことに対してか。それは僕もよくわからない。もう全て、終わったことだ。






 リビングへ行くと、珍しくキッチンからの音が聞こえない。きっと、今日は詩音くんが朝ご飯は自分で作ると前もって話してあったのだろう。本当にまるで、全てが僕のために仕組まれているみたいだ。僕は意気揚々と洗面台へと向かった。

 鏡に映る自分の表情は気持ちに反して明るくはないけれど、寝ぐせはひどくなさそうだ。適当に顔を洗ったうえで、気持ち程度髪を整える。別に、もうここに好きな人がいるわけでもないのだから、朝くらい寝ぐせのままでもいいのに。まだ割り切れていない自分に、うんざりだ。いつか僕が、ひなたのように楽に暮らせる日は来るのだろうか。


 改めて蛇口を強く閉めてから、整えたばかりの前髪を弄りながらリビングへ向かおうと脱衣所を出る。とその時、正面からいきなり大きなものがぶつかってきた。


「びっくりしたぁ、楓ベッドにもリビングにもいないんだもん」


 その正体は、どうやら僕が急にいなくなって不安だったらしい詩音くんだった。ぶつかってきたと思っていた彼は気づけば僕を抱きしめていて、肩に置かれた顎が少し痛かった。


「……おはよう」

 と僕は、当たり障りなく挨拶だけで返す。


「待っててね、今肉焼いてあげる」

 詩音くんはそんな僕の様子を気にも留めず、すぐに僕の元を離れてキッチンへと向かってしまった。

 キッチンでは、詩音くんが僕や一茶が買い出しに行ったときには絶対に買わないようないいお肉を冷蔵庫から取り出した。あんないいお肉なら、きっと詩音くんより一茶や僕が焼いた方が安全だと思う。でも。何だか一生懸命な彼が愛おしくて。そんな様子を僕は、リビングに置かれたソファに腰を掛けてぼーっと眺めるのだった。

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