第31話

 詩音くんが、ポケットから小さな箱を取り出した。それは掌に収まってしまうくらいの大きさで。まるで。


「楓、誕生日おめでとう」


 僕だけに向けられた、柔らかな微笑み。それはまるで余裕そうな顔に見えるけれど、箱を差し出すその手は少し震えている。

 僕はそんな彼の緊張が移ってしまったように手が震えて、上手く言葉を発せなかった。

 彼はそんな僕を見て、ハッと目を見開き慌ててその小さな箱の蓋を開けた。果たしてそこには、一個の指輪が輝いていた。


「間違えた。こうか」


 彼は僕の左手を取る。薬指へ丁寧に通された銀色の指輪は少し太くて。いかにも詩音くんが好みそうなものだった。

 思わず大きく息を呑む。目が合った詩音くんもまた同じように大きく息を吸って、そして真っ赤な顔をして僕の手を強く握った。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 目頭が熱くなった。喉まででかかった嗚咽を押し殺し、まるでただ痒かったかのように目を擦る。今度ばかりはひなたも僕を茶化すことなく、ただなんだか幸せそうただににこにこと上機嫌に笑みを浮かべていた。


「……ありがとう」


 絞り出した声はきっと震えていた。でも、詩音くんはそんな僕を見てただ笑って。そして、そっと頭を撫でてくれた。だから、勘違いをしてしまった。まるで、僕が彼の恋人であることを許されたかのように思ってしまった。






 それは、ケーキもご飯も食べ終えて、更にたくさんお話をして、少し名残惜しかったけれど明日のことも考えて部屋に戻ったときだった。いいや、もしかしたら詩音くんと二人きりにさせたかった一茶とひなたの粋な計らいでの流れだったのかもしれない。

 僕は指輪をもらって有頂天になってしまったものだから、ごろんとベッドへ横になる詩音くんの横に寝転がり大胆にもぴったりとその身をくっつけた。

 ドキドキと胸が高鳴る。

 詩音くんは、明らかに普段と違う幸せそうな僕を見て安心してくれたのだろう。そんなやかましい僕を邪険に扱うこともなくふふと笑って僕の頬を撫でた。


「楓、今日は幸せそうだね」

「うん、しあわせ」


 彼が頬へ触れた側の眼を瞑り、その手にすり寄る。彼は嬉しそうに微笑むものだからやっぱり、僕は彼が受け入れてくれたのだと本気で考えてしまった。だから。


「詩音くん、久しぶりにセぇへん?」


 それは、僕なりのお誘いだった。ずっと彼とはそれらしい行為がなかったから。

 本当は、もう飽きたのだと思っていた。だから、あとは彼が罪滅ぼしとして僕と付き合ってくれているだけなのだと、つい昨日。いいや、さっきまでは思っていた。でも。まるで僕のことが好きみたいだったから。


 ──なのに。


「あ、えっと……ごめん、ちょっと……」


 彼はまるでただの友達からお誘いを受けたかのように目を丸めて驚いて、そして顔を真っ赤に染めて、首と両手をぶんぶんと横に振って大げさに僕との行為を拒んだ。

 なるほど、と僕は理解する。彼から感じた愛は、どうやら恋愛としての意味ではなかったようだ。


「なぁ」と僕は震えた声を上げる。「誕生日特典やと思ってさ、好きって言って」

「え……? 好き……?」


 彼は、僕の意図を理解できないといった風に首を傾げながら、その言葉を簡単に言ってのけた。

 やっと気づいた。

 僕が欲しかったものは、これじゃない。


「そか、俺ちょっと行ってくるわ」

「あ、うん……!」


 僕がこんな特別な日に、こんなシチュエーションで部屋を後にしても、彼が僕を引き留めることはなかった。






 薄暗いリビングにはソファで心地よさそうに寝息を立てるひなたと、それを嬉しそうに眺めながら残りのピザを食べる一茶がいた。


「まだ食っとったん」と思わず苦笑を零す。

「楓もいるか?」と彼は僕にお皿を差し出した。


 いつもなら、こんな時間に食べたら太るだとか言って拒んでいただろう。しかし僕はもう何もかもどうでもよくなって、彼の隣へ腰を降ろしてそのお皿を受け取った。

 ピザで汚れるのが怖くて指輪を外してテーブルへ置く。一茶はそれを興味深げに覗き込んだ。


「綺麗だね」

「せやね」


 短く返してピザをつまむ。一茶は、はぁと息を零してピザの汚れがない手の甲で頬杖をついた。


「俺、詩音くんのこと勘違いしてたなぁ」


 彼のそれは、僕に返事を求めるわけでなくただの独り言のようだった。だから僕はなにも言わなかった。いや、言えなかった。


「今度謝らなきゃいけないなぁ」


 今度は反応を求めるように僕の顔を見る一茶。僕は気まずくて、摘まんだピザを口いっぱいに頬張った。


「なにかあったの」と、彼が怪訝な顔をする。

「いや、なーんも」


 僕は音を立ててピザを飲み込んでから、彼の顔を見ずにそう言った。

 無言で食べるピザは、さっきとは打って変わって何の味もしやしなかった。


「なぁ、ひなた貸して」


 しばらくして僕は言う。


「ひなたん寝相悪いから気をつけろよ」

 と彼は言って、ピザのなくなった空き箱に手を合わせた。


 僕は台所で手を洗ってからしっかり指輪をはめなおして、寝ているひなたの手を引いて無理に彼の部屋へと向かうのだった。


「なぁにぃ、一茶……」


 最初は一茶と勘違いして不機嫌そうに目を擦っていた彼も、部屋へ着くころには不思議と目はパッチリ開いている。きっと、なにか察したのだろう。僕は、後ろ手に彼の部屋の扉を閉めながらそ八つ当たりするように口を開いた。


「お前のこと、好きになれへん」

「知ってる」


 彼は僕が零した涙を親指でそっと拭って、ふわりと髪を揺らして微笑んだ。


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