第32話

「お前のこと、好きになれへん」

「知ってる」


 ひなたは僕が零した涙を親指でそっと拭って、ふわりと髪を揺らして微笑んだ。


 知ってる、だなんて。彼の言葉が恐ろしくなり思わず押し黙る。ひなたはそんな僕の様子を意に介さず、機嫌がよさそうにテーブルの前に座り横に落ちていたもこもこの桜色をしたクマのぬいぐるみを抱き上げた。

 僕も、図々しくも彼の後をつけて隣へ腰を降ろす。彼は満足そうに僕の胡坐をかいた足の上へ桜色のクマを置き、自らはまた近くに落ちているリボンのついた茶色のクマを抱き上げた。

 気まずい沈黙が横たわる。ひなたはクマの形が変わってしまう程に強く抱きしめた後、僕の肩へ頭を乗せた。


 彼の髪が首へ触れてくすぐったい。でも。なぜだかとても幸せそうにふふと笑って袖から少しだけ出た指先をわざわざ袖を捲ってから口元へ宛がうひなたを見ると、自然と僕の緊張もほぐれた気がする。

 気づけば、自然と口が開いていた。


「いつだったか覚えてへんけど」と僕は言う。「ひなた、俺の相談聞いてくれるって言うたよな」

「ひどいね。詩音くんと楓が付き合った次の日でしょ」


 ひなたはケラケラと楽しそうに笑い声をあげた。

 酷いことを言った後なのにいつもと変わらず接してくれる彼がまるでとても頼れる存在に思えて、僕は彼の柔らかな髪の毛へぽんと手を乗せた。


「お前がいなかったら、詩音くんは僕のことだけを見てくれたのかなぁとか、思ってまうねん。ヤな奴だよな、僕」

「ねー、ヤな奴」


 僕が言うと、彼は意外にも僕の言葉を肯定してまたケラケラと僕の手の中で笑い声をあげた。

 てっきり否定してもらえると思っていた僕は拍子抜けして、彼にもわかりやすいように口を尖らせる。ひなたはそんな僕を肩に頭を置いたまま見上げて、そしてその柔らかい顔を真剣なものへと変えた。


「でも俺、ヤな奴な楓が好きだよ。心の中で悪態つきながらでも笑顔つくるとことか、本心言わないくせに察してもらえないと病むとことか、意味深げに恋人が寝てる横で毎日泣くとことか。メンヘラって感じで可愛いじゃん」


 まるで嫌なことを言われた仕返しのように怒涛の悪態をついてくる彼は、それでも気づけばまた本当に愛おしそうに笑っていた。思わず眉を顰めると、彼は慌てて指で僕の眉間に寄った皺を伸ばす。本当にどこまでも楽観的な奴だ。僕が大きくため息をついて表情を緩めると、彼は安心した様にまた嬉しそうに目尻を下げた。


「詩音くん、困ってたよ。楓が俺のせいで泣いてばっかだ、って」

「知ってたんや」僕が呟くと

「当たり前じゃん。横で泣かれたらいくら詩音くんでも気づくよ、多分」

 とひなたは無責任な単語を付け加えてまた笑った。


 なんだか調子を崩される。思わず再び小さく息をついたとき、彼は僕の左手を取ってまじまじと薬指についたソレを見つめた。


「詩音くんが好きそうな感じ」と彼は言った。


 もう、どうでもいいと思った。


「フェイクやねん、多分」と俺は言う。


 彼は数回瞬いた後僕を見た。

 意味が分からなくて、返事にふさわしい言葉を探しているようだった。やっぱり。みんな騙されている。


「僕、ひなたの代わりになるって約束で付き合ってもらってん。でもそれバレたら一茶怒るし。だから一茶騙すためにくれてん、きっと。僕も大切にはしてもらってるけど、それは恋人だからやなくて友達だからやで」


 息が、詰まった。嗚咽してしまわないように、声が上ずらないように、ゆっくりと丁寧に言葉を選んだ。

 なのに。代わりに、隣から嗚咽が聞こえた。彼が顔を上げた時にはその真ん丸な瞳からは、大きな雫が次々と零れだしていた。


「なに、それッ……なんで言ってくれなかったの、なんでそんなの受け入れたのッ」


 彼が、僕の両肩を強く揺さぶった。僕を揺するたびに振動で彼の瞳からあふれる涙が、まるで僕の涙の代弁をしてくれているようだった。


「好きだったから。本気で」


 彼の腕を掴み、言葉を返す。力負けした彼は動きを止めて、せっかくの愛らしい顔をぐしゃぐしゃに歪めて大きく叫んだ。


「楓のこと大切に思ってる人の気持ち、考えたことあるのッ!? 俺の気持ちはどうなるのッ!? 俺はっ……俺は、お前が幸せになってほしかったから、だからッ……」


 ひなたはそこまで叫んで、大きく鼻水を啜った。そして、自分で僕の足の上に置いたはずのクマのぬいぐるみを退けて正面から抱き着き、僕の肩で涙を拭って言った。


「だから、楓のこと諦めたのにッ……」


 それは、消え入りそうな声だった。いいや、ひなた自体が目を離したらいなくなってしまいそうなくらい儚く見えた。

 しかし、背中に立てられた爪の痛みで彼の存在を強く感じる。そして、これは僕がひなたに与えた痛みのほんの一部にも満たないことを、今知った。


 彼の少し跳ねた後頭部の髪を、優しく撫でる。

 こういうとき、どれくらいの力で抱きしめればいいのだろう。どういう言葉をかけてやればいいのだろう。

 今まで僕を慰めてくれた一茶は、ひなたは。どうしてくれてたっけ。


「ごめんな」


「違う」


 間を開けて、ひなたは言った。


「ありがとうがいいの」


「……ありがとう」


 僕が言うと、彼はますます僕の背中に立てた爪を食い込ませて彼は言った。


「楓。幸せになってよ」


 その声色からは、明らかに恋の色が伺えた。






 しばらくして、ようやくしゃくりあげる声が止まる。涙でぐちゃぐちゃになった僕の肩から顔を上げたひなたの目は、真っ赤に腫れていた。しかし、同様に赤く染まる頬はきっと、涙のせいじゃない。僕は彼のその熱い頬へ触れた。


「なぁ、いつから僕のこと好きだったん」


 掌の中の頬が、更に熱を帯びた気がした。

 彼は僕のその手へ手を重ねて目を細めた。


「小学校のとき。楓が引っ越してきてすぐのとき、歓迎会で手つなぎ鬼やったでしょ」

「あぁ」と僕が相槌を打つ。


 彼は一瞬口を尖らせて、しかしまたすぐに幸せそうに表情を崩して僕の手にすり寄った。


「楓、足速いだけですぐ女にモテたから俺、楓のことめっちゃ嫌いだったんだよね。だから、お前のこと絶対捕まえて人気奪ってやろうと思ってさ。でもやっぱり捕まえられなくて、めちゃめちゃ何回も転んで泣きながら追いかけてたんだけど……楓、その時のこと覚えてる?」

「え、なにそれ、覚えてへんけど」


 僕の記憶にない話の最中の突然の問いかけに、思わず身を縮めて返す。しかし、彼はそんな僕を責めることなくニヤリと口角を上げて、まるで自分の自慢話のように再び口を開いた。


「楓ね、俺が何回目かで転んだときに自分から寄ってきて手差し伸べてくれて。んで、こう言ったの。『もうええよー、ボクの負けやでー』って。汗まみれ泥まみれの俺に、さわやかな笑顔で。ムカつくよねー」

「え、好きになったって話ちゃうん!?」


 まさかのオチに思わず吹き出すと、彼もたまらずぷぷぷと肩を震わせた。しかし、重ねた手を優しく握ってそれを恋人つなぎの形へと繋ぎなおした。


「ムカついたよ、めっちゃ。でもね、コイツがモテる理由もわかるわ、って思ったよね。出来る男だ、って」

「なんそれ、上から目線やな」


 僕が笑うと、彼もまた同じように笑って、そして手を離して再び僕へと抱き着いた。


「好きだなぁ、ほんとに」


 再び、ひなたの声が上擦った。

 さっき、彼は言った。僕のヤな奴なところが好きだと。だから。僕はわざと、意地悪を言った。


「ひなたが僕のこと幸せにしてくれたらええんちゃう?」


 彼の息が止まった。しかし、すぐに彼はふっと息を吐いて僕の肩へ再び涙を擦り付けた。

 再び上げられた彼の表情はとても嬉しそうで。なのに、とめどなく涙が溢れていた。


「だーめ。俺には一茶がいるのっ」


 そして再び僕に抱き着いたひなたは、疲れて眠ってしまうその時まで声を殺して泣いていた。


「おやすみ、ひなたん」


 僕は眠ってしまったひなたを抱きしめながら、その額へ最初で最後のキスを落とすのだった。





 ────






 ありがとう。

 これでようやく俺の初恋は、幕を閉じたよ。

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