第23話
「ふぅ……」
隣で作業をしていたひなたが息を漏らし、まくり上げた袖をわざわざ戻して汗を拭う。そして再びそれをまくり上げると、少し眩しそうに目の上に手をかざしながら組み立てたそれを見上げた。
人生で初めてお目にかかるそのテントというものは思ったよりもしっかりしていて、ここで一夜を明かすと考えると胸が躍る。しかし、それを見てみなが漏らした声は感動からくるものよりも懐古のそれだった。
「やっぱでかいなぁ」
と一茶が切れ長の瞳を大きくする。
「ね~。久しぶりに見た」
と、詩音くんはニコニコと一茶の横顔を眺めた。
よくわからない。よくわからないけれど、やっぱり僕にはわからない彼らの世界があることだけは僕にもわかった。
確かに、と僕は思う。もし僕が一茶とあんなに大喧嘩をしたとしたら、きっと許してもらえないだろう。それでも許してもらえる関係値が、幼馴染という名称なのだ。
僕も辛うじてその名称で呼んでもらえてはいるものの、僕が彼らに出会うまでに既に築き上げられていた絆は、きっと計り知れない。
「楓~、魚釣り行こうよ。お腹空いたぁ」
ふいに、ひなたがキャンプ中という非日常空間らしからぬのんびりした声を上げた。
テントによって呼び起こされた思い出に思いを馳せる一茶と詩音くんには見向きもせずに荷物に埋もれた大きなクーラーボックスを引っ張り出す姿は、さすがはマイペースなひなただと思わざるを得ない。
「ちょい待ちぃや。おにぎりひっくり返ったやんけ」
「大丈夫、おにぎりに上も下もないよ」
「あるわ」
年季の入ったように見えるクーラーボックスを大切そうに抱えたひなたは、屁理屈をこねながらおにぎりの入った箱を元に戻して、ぽんぽんとそれを撫でる。そして、満足そうにくるんと勢いよく方向を変え、意気揚々と少し離れた小川へと歩き出した。
今まで、少し暗い気持ちだったのにも関わらず、気づけばふっと息が漏れていた。
果たして、彼はあの大きなクーラーボックスだけでどうやって魚を釣ろうというのだろうか。そんな意地悪なことを考えながら、僕は彼の分の釣竿とさっき道中のホームセンターで調達した餌の入った袋を片手に彼の上機嫌な背中をゆっくりと追っていった。
僕が少し遅れて小川に着いたときには、彼はしゃがみこんでクーラーボックスを眺めていた。魚なんて入っていないし、そもそも蓋もしまっている。そんな不思議な彼の背後からそれを覗き込むと、そこには小学生の書いたような拙い文字で『ひなた』と名前が記されていた。なるほど、と僕は思う。
「なんか思い出の品なんや?」
僕が問うと彼はハッと顔を上げ、そして慌てて立ち上がり僕の手にある釣竿と袋を奪うように取ってぶんぶんと首を振った。もみあげ部分にある伸びた赤茶の触角のような毛が振り乱され、耳にかかる。彼はそれを戻すように強く引っ張りながら「別に」と小さく呟いた。
わかりやすいやつだ。彼を見て僕はそう思った。
ひなたは釣り餌を雑に地面へ置くと、僕の意識を逸らすように、あーやってこーやって、と不確かな説明を挟みながら手に持った釣竿を不器用ながらにセッティングしていった。
そんなに力いっぱい引っ張って壊れてしまわないのだろうかとも思うが、意外と丈夫にできているらしい。釣りなんてやったことのない僕は、そんな様子をただ黙って眺めていた。
そうしているうちに、いつのまにやら一茶と詩音くんが背後から顔を出す。二人の思い出話タイムも終わったようだ。彼らはひなたとあーだこーだと騒ぎながら釣竿をセットした後、ひなたが一本の釣竿を僕へ差し出した。
「これ楓のね」
「ん、ありがと」
そしておもむろに地面の袋を拾い上げ、次に差し出されたのは例の魚の餌。透明なケースの中には木のくずのようなものと一緒に、何かがうにょうにょと動いている。ひなたはそのケースを何の抵抗もなしに素手で取り出し、蓋を開けて見せた。
「口のとこをひっかけるの」
彼は、躊躇うことなくケースに指を突っ込むと中の一匹を摘まみ上げて僕に口の部分を向ける。一見ミミズに見えなくもないその生物だが、口にはしっかりと牙が生えており少し怖い顔をしている。そしてなにより。ひなたの指の間でうねうねと体をくねらせる様がどうにも気持ちが悪くて、つい眉間に力が入る。
「いや……きついて……」
「そー? 俺やったげよっか」
「……頼むわ」
顔を顰める僕とは対照的に、ひなたはふふんと鼻を鳴らして餌の虫を片手にニヤリと口角を上げた。いつもならその勝ち誇った顔に一度はツッコミを入れたくもなるところだけれど、今日は素直に尊敬の念を抱く。
しかし。
「ごめんね~、ちょっと痛いかも~」
その愛くるしい真ん丸の瞳を得体のしれない虫に近づけてコンタクトを取ろうと試みるひなたが同時に恐ろしくも感じられて、僕は思わず肩をすくめた。近くに石鹸もない今の状況で、一体あの虫に触れた手をどうするつもりなのだろうか。
──考えないようにしよう。
「うわぁぁああ! 詩音くん餌つけてくれぇええ!」
「いや゛ぁああ! 動いたぁあ!」
静かな森に、大きな声が響き渡る。小川の音すらもかき消すその声をバックミュージックに、僕はひなたにセットしてもらった釣り糸を川へと投げ込むのだった。
そうしてしばらく釣り糸を見つめたり、たまに上げて餌を付け替えてもらったり。のんびりとした時間が過ぎていく。誰一人として魚が釣れることはなかったけれど、皆楽しそうにはしゃいでいた。しかし、そんな時間もつかぬ間。隣で糸を上げたひなたが大きくあくびを漏らした。
「釣れなぁい。お腹空いたぁ」
不服そうに口を尖らせて釣竿を見つめるひなたの、腹の虫が鳴いた。彼はハッとして頬を染めてお腹を押さえると、慌てたように僕から顔を逸らす。
「楓、ご飯」
そう食べ物を強請るかれの言動はまるでクソガキだが、きっと照れ隠しなのだろう。耳が真っ赤に染まっているように見えるのは、頭上に輝く太陽のせいでも、熱さのせいでもないのだけははっきりとわかる。
「はいはい。ひなたは魚釣っててや。僕ご飯準備してくるわ」
「任せて、俺魚釣るの得意だから」
得意、だなんて。魚釣りなんてほとんどを運が左右するように思うけれど。それでも、そうどや顔をする彼が面白くて、僕はふはっと笑って彼の元を離れ、一足先にテントへと戻るのだった。
テントの前には、いつの間にかキッチンテーブルが用意されており、ご丁寧に炭までセットされている。僕のやることと言えば、火を起こすくらいのものだ。
火を起こすなんてやったことはないけれど、既に机に置かれた着火剤なるものを使えばよいのだろう。僕はゆるい袖を捲り上げて軍手をはめてから、それを炭の上へ放り込んだ。その時、遠くから大きく声が響く。
「楓楓! 着火剤もう入ってるよ!」
顔を上げると、いつの間にか厚い上着を脱いで半そで短パン、そしてサンダル姿の一茶が勢いよく走ってきていた。案の定、サンダルが脱げて後方へと飛んでいく。一茶は、もどかしそうに少し戻ってそれを拾い上げると、素足で僕に駆け寄った。
「足、危ないやろ」
「なにも落ちてないって」
「ええから履きや」
「はいはい」
面倒そうに返事した彼は、手にしたサンダルを地面へぽいと投げてそれを履く。それを尻目に大きなバーナーを手にすると、彼はまた大きな声を出して慌てて僕の腕を掴んだ。
「待てよ、危ないだろ!」
そんなことを言ったって、と思う。僕はもうそんなことで心配されるような年齢でもない。さすがにバーナーの使い方くらいわかるし。しかし、彼は僕の手からそれを奪い上げ、肩で押して炭の前から僕を押しのけた。
「お前に火傷なんかさせたらまた俺、詩音くんと大喧嘩する羽目になるんだから」
彼は口を尖らせぼやきながら僕の手にはめた軍手を引っ張り奪い取ると、上に乗った着火剤を退かして下のコンロの隙間から火をつけた。
慣れた動作に思わず目を奪われると同時に、少しだけ申し訳なさを感じる。家ではなんでもこなせるはずの僕が、ここではあのひなたなんかより何もできなくて。家でだらだらするのだって、ひなただからこそ許されているけれど、それがもし僕だったら。ただの使えないお荷物だったりして。
そう思うと、ひゅっと心臓が縮こまるような感覚に襲われる。慌てて彼の作業から目を離して辺りを見回すと、彼はふっと笑って僕の腕を引く。
「見てみて。詩音くんが入れた草、めっちゃ燃えてる」
なんだと思いしゃがみこんだ僕に、彼はくしゃっと目元に皺を寄せてそう笑った。草が燃えている様の、何が面白いのかは僕にはわからない。けれど。少しだけ、こんな僕の存在も許された気がして。思わず安堵の息が漏れた。
「ん、ほんまやね」
「もっと入れたら面白かったかも」
「え~、変な燻製になりそうや」
「あ~、そっか」
そんなどうでもいいことで楽しそうに笑い続ける彼は、火が起こるまでずっと、僕の腕を握り続けていた。
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