第20話

 カーテンが開けっ放しにされた窓からガンガンと差し込む陽に瞼を焼かれ、目が覚める。僕は凝り固まった全身にグッと力を入れて、大きく伸びをした。今日は、なんだかやけに体がすっきりしている。よく眠れたのだろう。ということは、きっと今はいつもの起床時間より少し遅い時刻。大体、7時すぎといったところだろうか。僕がそう考えながらスマホを手に取ると、表示された時刻は未だ6時過ぎだった。

 最近は嫌なことが続いているというのに、体だけはむしろ回復している。何だか腑に落ちないものを感じつつも、僕は隣で気持ちよさそうに眠る詩音くんをまたいでベッドを降りた。


 時間にはまだまだ余裕があった。だから、のんびりと歯を磨いて、のんびりと顔を洗って、一通り簡単な準備を終える。それでもさほど時は過ぎておらず、僕は一茶への日頃のお礼も兼ねてキッチンへ立った。たまには朝食くらい作ってやろう。

 久しぶりにキッチンへ立つと、なにやら調味料なんかの配置が変わっている。僕は、それらをできるだけ弄らないようにしながらボウルを取り出し、卵を割り入れた。今日は一茶の好きな卵焼きを作ってみよう。そうして殻を生ごみ入れへ放り込んだ時、ふいにリビングの扉が開く音がした。視線を向けた先では、栗色をした双葉の生えた頭がひょっこりと顔をのぞかせた。


「あれ、楓おはよう。今日ってバイトまだだよね?」

 彼は、キョトンとその切れ長の目を瞬かせる。


「おはよ。なんか目覚めた」

 僕が返すと、彼はふっと柔らかく口角をあげた。


「よかった。昨日楓疲れてそうだったのに詩音くん、楓と寝るってきかなくて。心配してたんだよね」


 彼はそう言って顔を苦笑に歪ませた。そんな一方で、その頬は少しだけ染まっている。僕はなるほど、と考える。彼の表情のおかげで今日、やけに体が軽い理由になんとなく察しがついた。

 大方、一茶はまた詩音くんが僕と行為に及ぶと考えて心配したのだろう。ところが、現実はむしろその逆だった。昨日の夜だけの話ではない。思えば、付き合うことになってからというもの毎日のようにしていた行為は、気が付けば二日程ご無沙汰になっている。故に、体が楽なのだろう。

 二日という日数は、別に大したものではないというのが“普通のカップル”の認識だということはさすがの僕でもわかる。しかし、だ。“普通のカップル”ではない僕はその事実に気づいた今、不安を感じざるを得なかった。もやもやとした感情が沸き上がるのに気づいた僕は、その感情にそっと蓋をした。

 そんな僕の心境の変化を知ってか知らずか、一茶は軽い足取りでキッチンへ入り込んで僕の背後へ回り込む。そして、肩へ顎を置いて甘えるように僕の手元を覗き込んだ。


「朝ご飯、何作ってくれてるの?」

「卵焼き。甘いのやで」と僕は淡々と答える。

「やったぁ」と彼はふふと息を吐いた。


 彼は普段、しょっぱいものを作るくせに、と僕は思う。そんなに好きなら、僕たちのことなんて考えずに自分の食の好みに合わせて作ればいいのに。とはいえ、そんな彼の気配りが一茶らしくて、僕は好きだった。

 そんな感じで終始距離感の近い彼だったけれど、僕は彼を追い払うことなく、楽し気な顔をしてお話をしながら料理を進めるのだった。


 料理が出来上がると、起きてきたひなたと一茶に叩き起こされた詩音くんを含む4人で食卓を囲む。詩音くんは、いつもと違う甘い味の卵焼きに目を輝かせていた。そんな、大好きだったはずの彼の笑顔を見ても昨日と同様になんとなく気分は晴れなくて。僕は急いで朝食を口へかき込んで食卓を後にした。


「楓、今日は早くバイト終わるんでしょ? 寄り道しないで帰ってきてね?」


 家を出る時、詩音くんはそう曇りのない瞳で僕を送り出してくれた。

 こんな言葉だけで喜べる僕は、幸せなのだろうか。いいやむしろ、と僕は思う。彼の恋人であるはずの僕がこんな簡単なことで喜ぶのは、あまりに惨めに感じる。でも、同時に。何も知らないでこんな僕なんかに優しい言葉をかける彼もまた、哀れであることに僕は気づいた。

 彼は、僕に裏切られているのだから。


 バイト中のことは、ほとんどなにも覚えていない。覚えていることと言えば、いつにも増して例の彼女はもちろんのこと、バイト仲間も皆僕を心配してくれていたということ。きっと、余程ひどい顔をしていたのだと思う。

 そんな中僕はというと、こんなに何度も心配の声をかけられても完璧な笑顔を作れない自分に腹が立って、誰も見ていないときにこっそりと腕に爪を立てていた。この痛みが、罪滅ぼしになんてなるはずもないのに。

 そして、仲間たちはいつも以上に熱心に仕事をこなし、そんな不甲斐ない僕を少し早めに退勤させた。それもそうか。所詮僕はただのバイト仲間で。戦力にならないのなら、店にだって不利益だろうから。


「先輩、何か悩んでいるのでしたら、お話聞きますからね」


 退勤の際、わざわざ僕を見送りに来た例の彼女は、相変わらず僕への好意をこれっぽっちも隠さずにそう手を握る。そもそも、悩みの原因は彼女のこういうところにあるのに。でも。やっぱり、彼女は昨日僕を慰めてくれたひなたにどこか重なって、憎めなかった。

 本気で愛されるって、多分こういうことなんだ。

 僕はそう理解したうえで、なんとなく当たり障りのない言葉を吐いて店を後にした。その言葉なんて、覚えてはいない。でも、僕のことだ。きっと中途半端に期待させるようなことを言っているのは間違いないだろう。







 そうして今、ようやく玄関のチャイムを押し込む。誰とも話したくなくて、誰にも会いたくないはずなのに、気づけばチャイムを押し込んでいた。そんな行動に僕は、鍵を取り出すのが面倒だったから、と心の中で訳を取り繕う。

 扉は意外とすぐには開かなかった。いつもなら、何かを考える暇もなくひなたが飛び出してくるのに。

 扉が開くまでの時間が、いつもより数秒遅いだけ。そんなくだらないことでも、僕の瞳にじわっと涙が浮かぶのを感じる。慌てて目を擦ろうと腕を上げるが、さっきまでバイトで色々な食品へ触れていたことを思い出し、寸前のところで思いとどまった。

 そこで、ようやく扉が開く。僕の体感では数分経ったところ。実際に経過した時間はきっと、数秒だったのだろうが。


「楓、おかえり」


 僕を出迎えたのは、可愛いワンコがプリントされたエプロン姿の一茶だった。彼は姿から見るに料理中であっただろうに、嫌な顔一つすることなく大きく扉を開けて僕を招き入れてくれる。僕にはそれも、理解できなかった。

 そんな、言葉も発さずにただ立ち尽くす僕を見て苛立ちでも覚えたのだろう。一茶は「はぁ」と大きくため息を漏らした。


「お前、ほんと余計なこと考えるの得意だよな」


 彼の低い声が耳を劈く。よく分からないけれど、きっと怒られている。そう認識した時、じわっと目が熱くなった。その雫が瞳から零れ落ちないように、慌てて汚れた手で目を擦る。涙の感触が気持ち悪かった。

 そんな僕を見た一茶が、急にぼやけた視界の奥から靴も履かずに飛び出してくる。そして、次の瞬間にはバイトから帰ってきてお風呂にも入っていない僕の体を彼のぬくもりが包んだ。


「ごめん、怒ってないって…… ただ、楓どうせ、ひなたがいつもみたいに出てこなかったことにショック受けてんだろうなって思ってさ」


 慌てたように僕の頭を、まるで犬なんかにやるように雑な動作でわしゃわしゃとかき回される。なんだか久しぶりのその感覚は、少しくすぐったい。僕は照れくささやら、心の内を見破られる気まずさで、ふいと顔を逸らした。

 彼の言うことはどれも当たっていて、それでもどこか軽かった。どうせ、なんて。僕の中ではそんな簡単な話ではないのに。僕は、彼の肩をぐいと強く押し返す。しかし、彼はそれ以上の力で僕を抱きしめた。


「ひなたんね、休み中の課題手つけてなかったみたいで、今日頑張って終わらせてたんだ。だから、今は疲れて寝ちゃってる」


 彼の言葉は、なんてことない普通の報告だった。しかしなぜか僕は、急に体の力が抜けるのを感じる。なんてことないその言葉に、心の底から安心していた。

 逆に、こんなに緊張する程怯えていたのかと思うとそんな自分が恥ずかしくなる。ひなたが僕を嫌うわけなんてないのはわかっていたのに。

 ふぅ、と安堵の息を零すと彼はすぐに体を離しニッと笑うと、僕にくるりと背を向けた。本当は、まだ離れたくなかった。彼からの愛を感じられるあの腕に、まだ抱かれていたかった。しかし、彼の足はぺたぺたと音をたてて玄関をくぐる。彼はふっと息を吐いた。二本の大きなあほ毛が、ふわっと揺れた。


「泣き止んでから、入っておいで」

「泣いてへんよ」


 僕はムキになって即座に声を返すが結局、ドアノブへ手をかけたのはそれから数分後だった。






 家へ入ると、なぜかきっちりと髪の毛をセットした詩音くんが、ひなたがすやすやと寝息を立てるソファの隣でそわそわしている。


「楓、おかえり」


 彼は僕を視界にとらえるや否や、慌ててこちらへと駆け寄ってきた。しかし、かと思えば僕が言葉を返す前に彼は踵を返して自室へ向かう。よくわからない。もしかしたら、何か予定があるのかもしれない。早く帰ってこいと言ったくせに、と僕は心の中で悪態をついた。

 そんな心の中の声が伝わったのだろうか。歩み出したはずの彼がふと僕へ振り向き、その綺麗な瞳を丸くして首を傾けた。


「どしたの楓」


 それはこっちのセリフだ、と僕は思う。しかし。どうやらこの認識は間違っていたらしい。立ち尽くす僕の肩の上から、一茶が顔をのぞかせた。


「あれ楓、どした? ついて行かないの? せっかく詩音くん、楓のために急いで課題終わらせたのに」


 どうやら、彼が言うには僕は今、詩音くんの後をつけていくのが正解だったらしい。何も言われていないのにそんなの、子犬かひなたじゃないのだから、と僕は思う。とはいえ。それを詩音くんが望んでくれるのなら仕方がない。

 僕は彼の言う通り、詩音くんの方へ身を寄せて小さく横に首を振った。


「行くよ」

「そう?」


 そう返す一茶は、なんだか嬉しそうだった。ずっと手にしていたであろうお肉の塊を、ゴム手袋をした両手でコロコロと捏ねてながら上機嫌にエプロンを揺らしてキッチンへと戻っていく。僕はそんな彼を見届けてから、身を寄せた彼からそっと距離をとる。彼も、それに違和感を抱くことなく僕の手を取り歩み出した。


「詩音くん」と、僕は彼を呼ぶ。


 なんとなく、静かな空間に2人でいるのは気まずかったから。彼はすぐに、にっこりと笑顔を浮かべて歩みを止めずに僕の方へ振り向いた。その瞳はなぜか、しっかりと僕を捉えていた。


「まだ課題終わってなかったん? ギリギリやんけ」


 僕はまるで付き合う前のように、他愛のない話をして彼の瞳から目を逸らす。それでも彼は僕を見て楽しそうにケラケラと笑いを零した。


「だってさぁ、色々あったんじゃん。ひなたに振られて、楓と付き合って。んで、一茶と喧嘩して。いやぁ、大変だったぁ。あ、まだ一茶とは仲直りしてないんだっけ」


 本当にデリカシーのない人だ、と思う。どこの世界の人間が、恋人の目の前で他の人に振られた話をするのだろうか。それが、その好きだった人の代わりに付き合ってもらっている偽の恋人の前だとしたら尚更だ。

 一茶との仲直りがまともな形で済んでいないことを思い出した彼だったが、それをも笑い飛ばすのがまたなんとも彼らしい。少し心配になるくらいだ。決して笑い事ではない。とはいえ僕は、そんな彼に惚れてしまったのだから仕方がない。あんなに本気で一茶と喧嘩をしておいて笑う彼の精神は理解に苦しむけれど、その笑顔はやっぱり最高に綺麗だった。僕とは正反対だから。


「別に何もなくてもやってなかったと思うで? 昔も休み明け前日にいっつもひなたと詩音くんで俺と一茶の宿題写してたやん」


 僕はそんな彼の笑顔を崩したくなくて、まるで何事もなかったかのようにツッコミを入れる。彼はハッと息を吸うと、今度は片方の口角を上げて立ち止まり、僕の肩へ手を置いた。


「そう思うでしょ。でもね、今回は違うんだよ。ちゃんと自分でやった」


 ふふんと彼の鼻が鳴る。多分、褒めてほしいのだろう。だから、僕は「やるやん」と適当な言葉で褒めてポンポンと彼の肩を叩いてやった。

 別に、彼の課題が終わろうが終わらなかろうが知ったことではないけれど、少なくとも今回の休みでは前日の徹夜での手伝い作業がないと思うと少しだけ楽かもしれない。しかし、彼は僕の思考の斜め上から言葉を発した。


「楓がね、寂しそうだったから。だから早く課題終わらせて、一緒にゲームしたら元気になってくれるかなと思って」


 そして彼は一茶がしてくれたように、ゆっくりと僕を抱きしめた。一茶よりも少しだけ暖かくて、そして少しだけ硬い彼の腕の中。そこは少し胸はうるさいけれど、自室のベッドなんかよりもずっとずっと心地いい。ずっと、こうしていてくれたらいいのに。と、そう思ってしまった。自分の犯した罪も忘れて。

 欲張ってしまった。


 ほんの少し背伸びをすると、彼の唇には簡単に届いた。届いてしまった。


 口を離して目を開けた時、詩音くんは目を見開いて至近距離にいる僕を見つめていた。そして、既に事は済んだというのにも関わらず慌てて後ろへ飛び退いて高い声を上げた。


「ちょっ……急にやめてよ、詩音くんの詩音くんが元気になっちゃうよ!?」


 ふざけた声色で言う彼だが、目は笑っていない。どこか緊張したような、そして困惑したような。明らかに僕は、彼を困らせていた。もう、ここまでにしておくのが賢明だろう。なのに。僕はどうしても、彼の言葉が気になってしまった。それは、朝の一茶との会話がずっと頭に残っていたから。


「詩音くん」と僕は口を開く。「元気になったら、なにか困るん?」


「えっと……」


 彼の返事は、実に歯切れの悪いものだった。

 僕は確信した。彼はもう、飽きてしまったのだろう。だから、付き合ってすぐのときは毎日のようにしていた行為を昨日もその前の日もしなかったし、出来ることなら今日も避けたいんだと思う。

 ならば、と僕は思う。


「ふはは、冗談やで。はよ部屋行こうや。ゲームしてくれるんやろ?」


 僕は無理に求めない。だって、僕には元々求める権利なんてないのだから。

 飛び退いた彼の袖を握り、いつもの部屋へとそれを引く。彼は案外、大人しく僕についてきてくれた。本当に優しくて、かっこよくて、友達思いで、そして可哀想な人だ。

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