第9話

 目が覚めると、隣に彼はいなかった。わかりきっていたことだ。別にいい。それより、もう朝なのだろうか。随分寝てしまったようなので時間を無駄にしてしまった後悔と同時に、バイトが休みな日でよかったと心底安心する。

 部屋を出ようと体を起こすと、途端に激痛が襲った。特に腰や昨日入れられた場所は段違いに痛い。他にも頭が痛かったり、少し喉が痛かったり、お腹が痛かったり、不調は数え切れない。とはいえ、もう熱がある感じはない。しばらくは友達がバイトを変わってくれるとはいえ、ほっと肩をなでおろした。どれもこれも昨日のせいだろう。


 気が付くと下着もズボンも履いていて、血まみれのシーツは取り外されていた。詩音くんがやってくれたのだろう。申し訳ないと思うが、それよりも嬉しかった。自分のためにでもこんなにやってくれるのか、と思う。だから僕は比較的気分よくベッドを降りた。

 もちろん、まともに歩けはしないのでゆっくりと壁へ向かい手をつく。まずは腹痛を抑えるためにトイレへ行くことにしよう。どうにか亀のように扉へ向かい、ドアノブをひねる。それが開いたとき、リビングからは怒声が響いてきた。


「お前、いい加減にしろよ! 自分が何やってんのかわかってんのか!」

「なんで一茶に怒られなきゃいけないのさ」

「あたりめぇだろ! 楓だって俺の大切な幼馴染なんだよ!」

「だからなに。楓は俺の恋人なんだけど」

「っ! お前なぁ……! 楓のことなんだと思ってるんだよ!」


 一茶の声に熱がこもる。聞いたこともないような声に驚いて、僕は痛む腰を無視してぎこちなくリビングへ駆け入った。直後、詩音くんの胸倉を掴んだ一茶の視線が僕へ注がれる。詩音くんは振り向いてはくれなかった。


「楓!」


 一茶はすぐに詩音くんを離し、僕へ駆け寄ってくる。彼は軽々と僕を抱き上げるとソファへ向かい、大げさなくらいゆっくりとそこへ寝かせてくれた。僕の横にあるクッションを床に降ろしながら彼は言う。


「楓、もう痛くない?大丈夫?」


 一茶がその細い指で僕の前髪をかき分ける。僕は状況を飲み込めなくて、ただ首を傾げて説明を求めるように彼を見た。


「ごめんね、止められなくて」と彼はしゅんと項垂れた。「昨日、なんか音すると思ってたんだけど……まさかそんなことされてると思わなくて……さっき、詩音くんがシーツ洗ってるの見てびっくりした」


 彼は僕の頭を撫でて大きくため息をついた。知られていると思うと恥ずかしくて頬が染まる。一茶はそんな僕の頬へ触れ、困ったように微笑みを作った。

 そして、くるりと詩音くんの方へ振り向く。彼の表情は僕からは見えなかったけれど、見るまでもないだろう。


「最低だな」と一茶は言った。

「恋人とヤるのの何が悪いの」と詩音くんは僕へ目もくれずに一茶を睨む。

「大体、それすらも怪しい……」と一茶は呟いた。


 それもそうか、と思う。昨日はまだ、彼がひなたに告白した当日だ。そんな日に付き合っただなんて言っても、信じてもらえないのも無理はないだろう。僕は一茶の肩を優しく叩いた。


「それは、嘘やないで」


 彼は目を丸めて再度僕の方へ振り向いた。僕の両肩をがしっと強く掴むと乱暴なまでにそれを揺する一茶。僕はそれで一茶の気が済むならと、それを止めることもせずただ揺さぶられた。


「楓、慰めろなんて頼んだ俺が悪かった。だから、もう一回よく考えろ。あいつはお前の事なんか見てないんだよ」


 それはそれは必死な形相だった。

 そんなの言われるまでもない、と僕は思う。あのタイミングで、あの告白で、勘違いすらできるわけがない。それでも。


「僕は、詩音くんのことが好きだから」


 僕はまっすぐに彼の瞳を見つめる。彼は心底不愉快だとでも言うように眉を思いきり顰めた。


「腹、痛くねぇの?」


 別に言う程でもないと思って黙っていたのに、彼が察したことへ違和感を覚える。しかし、嘘をつくほどでもないと思い僕が頷くと彼はやっぱり不機嫌そうに大きく息を吐き、鬼のような顔をして腰を上げた。そのゆっくりとした動作はまるで嵐の前の静けさを予感させた。


「詩音くん、お前さ。やっぱり後処理してねぇだろ」

「後処理……?」と詩音くんが反復する。


 それを聞いた一茶は掌が白くなるほどに両手を強く握ると、再び詩音くんへ向き直り床にあるクッションを強く蹴り上げた。


「お前そんなんも知らねぇでヤったのかよ! まじでふざけんなよ! 中に出した後掻きだしてやんないと腹痛くなるんだよ。初めてだと特に、解してやんないと痛いんだよ。激しくすると腰痛くなるんだよ。どうせ何一つ知らなかっただろ!」


 一茶は、詩音くんに一歩、また一歩と距離を詰める。詩音くんはそんな見たこともないくらい怒りを露わにする彼に怖気づくこともなく負けじと眉を顰め、チッと舌打ちをした。


「そんなん、一茶が経験済みだから知ってることでしょ?」

「へぇ」と一茶は詩音くんを睨み上げる。


 彼のこぶしは今にも詩音くんへ飛びだしそうで、じわっと額に汗が滲む。そんななか、一茶は彼を挑発するべくふっ、と馬鹿にするように嘲笑を浮かべた。


「お前、楓のことなんにも考えてないんだな」


 ピクッと詩音くんの肩が跳ねる。一茶はその動きを見逃さなかった。


「図星だろ」


 冷たい、低い声で彼は言う。


「俺だって、本当は……!」


 詩音くんは、その言葉に被せるように声を張り上げた。

 一茶の震えるこぶし、詩音くんの噛みしめられた歯。そして、聞いたこともないような大きな声で罵りあう二人が怖くて、僕は小さく丸まった。

 僕はこのままでいい。詩音くんが好きだから。利用されようとそれは変わらない。もう、放っておいてほしい。

 しかし、一茶は止まらなかった。詩音くんの声に被せて、まるで冷静なふりをして地を這うような声でポツリと呟いた。


「お前まさかさ。楓とシてる途中、ひなたんの名前出したりしてねぇだろうな」


 ふと昨日のことがフラッシュバックする。彼が果てる直前、最奥を突き上げるようなすさまじい激痛とともに聞こえた彼の声。それは紛れもなく、ひなたを呼んでいた。思わず襲う軽い吐き気に口を覆う。

 それは、彼もしっかりと覚えていた。


 そんなことないと言えばいいと思う。嘘でも僕のことが好きだと言えばいいと思う。そうしたら、一茶に怒られることなくこの関係を続けられる。なのに。

 素直な彼は、ハッとしてすごく傷ついたような表情を見せた。その段階でならまだ誤魔化しは効いたのに、あろうことか彼はそのまま俯いて黙り込んだ。


 次の瞬間、パチンと大きな音がリビングへ響き渡った。

 思わず僕も顔を上げる。そこには、彼へ平手打ちをかましたままの姿勢で制止する一茶がいた。少し赤くなった詩音くんの頬を、大粒の涙が伝う。腰が痛くなかったら、今すぐ駆けつけて拭ってあげられるのに。


「お前が泣いてんじゃねぇよ!」


 一茶は、詩音くんの胸倉を掴み上げて顔を近づけた。その声も、手も、肩も震えていた。それでも後ろ姿からでも十分に分かる殺気は、少なくとも今だけは紛い物ではない。詩音くんはそんな一茶へ怒りを表すわけでもなく、ただ俯いて心ここにあらずといった様子だ。

 止めなくちゃ。そう思い体を起こそうと腹筋へ力を入れる。

 その時、詩音くんの背後の扉についた小窓で赤茶の髪が揺れた。刹那、扉が大きな音を立てて豪快に開かれた。


「一茶、何してるの!?」


 飛び込んできた彼はすぐに一茶へ駆け寄った。彼は、慌てたように詩音くんから手を離してばつが悪そうに小さく俯いた。


「なんでもない」と一茶は白々しく呟く。

「何でもないわけないじゃん」とひなたはむっと目を細める。

「ほんとに、何でもないから。飯作ってくる」


 一茶は、まるで子供に言い聞かせるように言ってひなたの後頭部の寝癖を撫でた。いつものひなたならここで柔らかな笑みを浮かべて満足するのだろう。しかし、今日のひなたはそうはいかなかった。


「俺だって、何かあったんなら力になりたい」


 ひなたは自分を撫でる一茶の腕を強く掴んでその真ん丸な目で一茶を見上げた。きっと、睨んでいるつもりなのだろう。全く圧は感じられないその表情だが、一茶はそのひなたの普段と違う本気の様子に渋れを切らしてふぅ、と息を吐く。


「ごめん」と一茶は言った。「お前が傷つくから、教えられない」


 そうしてひなたの元を去る一茶は、普段の彼からは想像もつかない程真面目な顔をしている。それが自分のせいだと思うと胸が痛かった。


「行くよ」


 ふいに、詩音くんが僕の腕を握る。ご飯を作るのならここで手伝った方が、とも思ったが彼が言うのなら仕方がない。僕はゆっくりと体を起こして彼に腕を引かれるままに立ち上がる。

 

「楓」と一茶が僕を呼ぶ。「また何かされそうになったら言うんだぞ」


 なにかって、なんだろうと僕は思う。今回だって恋人になったのだから当たり前のことで、詩音くんだって悪気があったわけでもない。きっと彼は、詩音くんを誤解している。だから僕は心配をしてほしくなくて、そしてもうこのままこの関係を許して欲しくて、認めてほしくて。ふっと柔らかく微笑んで見せる。


 上手く、笑えていただろうか。それがわかるのはきっと、隣にいる詩音くんではなく一茶だけなのだろう。

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