第10話

「楓」


 詩音くんが僕の肩を押す。僕は、ついさっき起き上がったばかりのベッドへ再び体を沈める。彼が僕へ影を落とす。そこで今日初めて、詩音くんと目が合った。


「ごめん」


 彼はせっかく合った目をすぐに逸らして強く僕の体を抱きしめた。彼の匂いが香る。柔軟剤は同じものを使っているはずなのに自分のものとは似ても似つかぬこの甘い香りは、彼が適当にセールで買ってきて使っているシャンプーのものだろうか。それとも、僕とは真逆の甘党故だろうか。

 僕が彼の背中へ手を回すと、彼は昨日の夜のように僕の肩へ顔を埋めた。


「痛かったでしょ。後処理のことも、知らなかった。今掻きだすからね」


 彼はそう言うと有無を言わせずに僕のズボンを引き下ろそうと手をかけた。

 頭の片隅ではこう思う。さっきまでは一切僕を見てくれなかったのに、部屋に戻ってくるなりこんな風に言ってくれるなんて、って。でも僕はそんな気持ちに蓋をする。だって、どうでもいい。詩音くんがこっちを見てくれているのだから。


「いいよ、自分で出来るし。それより、楽しい話しようや」


 僕がわざと優しい声を出すと、彼はすぐに頷いた。それでよかった。彼に面倒なことはやらせたくない。きっと、さっきの喧嘩で落ち込んでいることだろう。僕の役割は、それを慰めることだ。僕は彼の横顔へそっとキスをした。


「一茶も、きっとすぐ認めてくれるで」

「そんなはずない」と詩音くんは強く否定した。


 それを僕は悲しく思う。つまりそれは、認めてもらえる恋ではないと彼自身もわかっているということだろう。それはつまりあんなことをしても尚、詩音くんのひなたへの気持ちは一切揺らがないということだ。それでもいいと思っていた。だから付き合った。でも。


「ひどいな、詩音くんは」


 声が震えた。彼はすぐに気が付いて顔を上げると僕の瞳を至近距離に覗き込んだ。彼の瞳はわかりやすく潤んでいた。泣きたいのは僕の方だ、なんてのはきっと生涯口にできない。


「ええんやで、酷くても。そういう契約で付き合ったんやから」


 彼の目尻を親指でそっとなぞる。初めは少し濡れていた程度であった目元が、余計にじわじわと潤ってくる。彼は俯いて大きく鼻を啜ると、急いで僕の上を退いた。


「トイレ行ってくるわ」


 ドタドタと彼の足音が部屋を出ていった。きっと、泣いているところを見せたくなかったのだろう、と思う。せっかく恋人になれたのだからこういう時も慰めてやりたい、という僕の想いは彼の求めるものとは決定的に何かが違っていた。僕はあくまでもただの代わりで。

 セフレ、と言った方が的確なのではないだろうかと思う。はぁと深く息をつきぐるぐると音を立てるお腹を擦った。これはきっと、一茶の言う通り後処理とやらをしていないのが原因なのだろう。僕は不本意ではあるが枕元の箱ティッシュを手に取り隣に準備する。

 掻きだす感覚はただただ痛くて、屈辱的で、気持ちが悪い。それでも、これは詩音くんとの関係の証だと思うとそれらの感情を凌駕する程の幸福感が訪れるから面白いものだ。

 いかにも洗脳的だ、と僕は思う。わかっている。でも。もしかしたら、詩音くんが僕を見てくれる日が来るかもしれない。そう思わずにはいられないのが、恋というものだから。


 再び扉が開いたとき、僕はとっくに作業を終えてベッドに寝転がってスマホを弄っていた。


「おかえり」


 敢えて何事もなかったかのように彼へ声をかける。彼は声を返してくれることなくベッドへ腰を降ろした。

 彼の手がふくらはぎへ触れた。邪魔だったかと思い少し足をずらしてみたが、彼の手は退けたはずのそれを掴み上げる。僕を見るその瞳は相変わらず潤んでいて、なんだか可哀そうに思えた。


「おいで」


 ごろんと転がって仰向けになり、彼へ腕を広げる。彼はその腕の中へ飛び込むことなく、代わりに僕の頬へ触れた。

 彼の瞳に僕が映る。


「楓」


 次の瞬間には口が塞がれた。

 詩音くんの瞼は閉じていたけれど、それでも確かに僕の名を呼んでくれた。

 名を呼ばれながらのキスは、昨日の行為の何倍も心地がいい。柔らかい舌も、唇も、少し力がこもる頬を包んだ手も、今この瞬間だけは僕のために存在しているようで。


 好き。そう伝えたかった。

 彼はそれを拒むように、口を離さなかった。

 終わったら伝えればいい。そう思っていた。


 その時、ふいに部屋の扉が叩かれた。

 唇が離れた。彼は心底苛立ったように眉を顰めていた。


「なに」


 そんな低い声を響かせるくせに、彼はわざわざ顔を上げて扉へ視線を向けた。


「へっ……えっと、ご飯できたよって、呼びに来たんだけど、えっと……ごめん……!」


 扉の向こうからは、明らかに怯えたような弱い声とともに急いで立ち去る足音が聞こえる。


「えっ、ひなた!?待って」


 途端に、詩音くんは僕の上から退けて扉も閉めずに部屋を飛び出していった。

 さっきまでは幸せいっぱいだった空間が急に物静かになり、寂しさを感じるのは認めざるを得ない。痛いことをされても、彼の欲に振り回されても構わない。ただ、ひなたに負けたことを目の前で見せつけられる瞬間が一番惨めな気持ちになるから苦しかった。


 詩音くんの布団へ潜り込むと、少し甘い香りが香る。少し暑いけれど、この香りに包まれているとまるで詩音くんに抱きしめられているようで幸せな気持ちになれた。

 そんななか、いつのまに部屋へ入ってきたのか枕元から声がする。


「楓」


 刹那、布団がまくり上げられ大きな瞳が僕を覗き込んだ。彼は赤茶の髪をふわりと揺らして首を傾ける。僕は彼がどんな言葉を求めているのかわからなくて、ただ彼の瞳を目を合わせて瞬いた。


「まだ体調悪い?」


 彼は間の抜けたようにぽかんとしながら呟いた。わかりやすい彼が浮かべるその表情からは、口にしていない疑問も含まれているのがなんとなくわかる。それでも額へ添えられた手は、いつもの彼らしく暖かかった。僕は彼の腕を軽く掴み額から離しながら勢いよく体を起こし、ふっと表情を緩めて見せる。


「ありがとう。行こ」と僕はベッドを降りる。

「今日はね、赤の魚だったよ」とひなたは嬉しそうに教えてくれた。


 部屋の扉を開けるといつも通りいい香りが香ってくる。僕はそれにつられて少し急ぎ足で歩を進めた。テーブルには朝だとは思えない程豪華な料理が、きちんと4人分用意されていた。


「おいで」


 既に席に着いた一茶が笑顔で手招く。一方、その斜向かいの席では気まずそうに詩音くんが俯いていた。僕は、迷いなく彼らの元へ向かい料理の前へ腰を降ろす。隣の一茶はポンと優しく僕の肩を叩いた。詩音くんがハッと顔を上げた。しかし、彼はすぐにまた料理へ視線を落とした。

 ひなたも急いで席に着く。彼は僕たちの挨拶を待たずに「いただきます」との小さな呟きと共に前もって解された赤身の魚へ箸を伸ばした。


「ひなたん、骨残ってるかもしれないから気をつけろよ」

「わかってるって。うまぁ」


 一茶から送られる心配そうな視線を知ってか知らずか、この重い空気の中ひなたは一人口いっぱいにご飯を詰め込んでいく。そんな彼を見て、ふっと口角を上げた一茶が口を開いた。


「ひなたん。そう言えばね、詩音くんと楓が付き合うことになったって」


 名を呼ばれて嬉しそうに顔をあげたひなただったが内容を聞くや否や音を立てて口内のものを飲み込み、まるで電源の切られたクマのおもちゃのように大きな目を見開いたまま動きを止めてしまった。

 無理もないだろう。ひなたから見ても、自分に告白してきた人がその日のうちに他の人と付き合うだなんていい気はしないだろう。どう話そうかと悩みテーブルの木目へ視線を落とす。

 しばしの沈黙が流れる中、向かいの彼が沈黙を破った。


「なんで」と彼は低い声で言う。


 一茶はその言葉の続きを待つように彼へ視線を向けたが、それ以上彼が言葉を発することはなかった。


「なんでって、なに」と一茶は鋭い視線で詩音くんを劈く。


 詩音くんはその視線から逃れるようにわかりやすく目を泳がせる。

 そんな彼の隣で、ふいにひなたがずると大きく鼻を啜る音を立てた。慌てて皆が彼の方へ視線を向ける。彼の瞳からは大粒の涙が溢れていた。


「ごめん、ちょっと……僕お腹空いてない」


 いつもは人一倍食べるくせに、彼はそう言って勢いよく立ち上がりリビングから駆け出して行った。一茶も慌てて彼を追いかけるべく扉へ駆けていく。僕はその様子をただ黙って眺めていた。詩音くんも同じように黙ってみていたのを、僕は少し不思議に思う。何か、思うところがあったのだろうか。僕にはそれを知る由もない。

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