2-2

 マドレーヌを三個。少年にしてはよく食べたほうなのではないかとラースは思った。メイド長も、お粗末様でした、と嬉しそうに微笑んでいる。

「さあ、坊ちゃん。今日は何をするっスか?」

 食堂を出ると、ニコライがそう問いかけた。少年は考え込むような仕草をしたあと、外を指差す。

「中庭っスか?」

 少年はこくこくと頷いた。中庭が気に入ったらしい。

 八年ものあいだ、暗く狭いところに押し込められていたため外に出られるのが嬉しいのだろう、とラースは思った。あの重苦しい空気の流れる部屋で昼もなく夜もなく、時間が過ぎるのを待つだけの日々。外への憧れは人一倍にあっただろう。太陽もまともに浴びていなかったと思われる。

 中庭に出てラースの腕から降りると、少年は意気揚々と駆け出した。垣間見えた子どもらしさにニコライが笑う。

 庭の奥から、サバの鳴いている声がした。少年が一目散に走って行くので、ラースとニコライは苦笑しながらそれに続く。サバが奥から走って来て、少年の足元に寄りぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねた。少年はすっかりサバに慣れたようで、ふわふわを堪能するように抱き締めた。

「すっかりサバは坊ちゃんのお気に入りっスねえ」

「サバは人懐っこいからな」

「まさに可愛いと可愛いの掛け合わせだなあ……」

 ニコライがつくづくと言ったとき、背後に気配を感じてラースは視線を遣った。彼らに歩み寄って来るのは、ラースより頭ひとつ分ほど背の低い黒髪の青年。手に持っている書類に視線を落としたまま、彼のもとへ来る。

「エミルくん」と、ニコライ。「どうしたんスか?」

「彼が例の子どもですか?」

 そう問いかけつつも、彼の視線は少年ではなく書類に注がれている。彼はふたりとは隊の違う若き騎士エミルだ。

「そっスよ」

「名はあるのですか?」

「さあ」ラースは言った。「本人からは聞き出せていない」

「そうですか」エミルは興味がなさそうに言う。「明日、国王陛下と王妃殿下との謁見なんですよね」

「ああ」

 エミルがようやく顔を上げ、少年を無感情に眺める。少年はサバと戯れている。もしも声が出せたなら、楽しげな笑い声が聞けたかもしれない。

「…………」

「坊ちゃんはサバと遊んでいるときはあんなに笑うんスけど、それ以外はまだ冴えない顔をしてるっスね」

「無理もないでしょうね」と、エミル。「確か、八年ほど盗賊団に捕らわれていたんでしたっけ」

「そうだな。いまはおそらく十二歳だ」

 エミルは目を細める。彼はあまり他人に興味を持たない。少年にも無感情な瞳を向けているが、何を考えているのかはわからない。おそらく同情という感情はないだろう。

 エミルはまた書類に視線を戻す。

「声が出ないことは、国王陛下と王妃殿下にはお伝えしてあります。あとは、少しでもマナーを身に付けさせておいてください。お辞儀もできないのでは、さすがに困ります」

「そうだな。あとで教えておく」

 軽く会釈をして、エミルはふたりに背を向けた。その後ろ姿を見送り、ニコライが声を潜めて言う。

「珍しいっスね。エミルがわざわざ見に来るなんて」

「多少、興味を持ったんじゃないか? あいつは【鑑定】ができる。珍しいスキルは見ておきたいのかもしれない」

「でも【鑑定】はしてなさそうっスよ?」

「勝手にするようなやつではないさ」

「確かに」

 エミルは知識を得ることに喜びを覚えるタイプの人間で、そのために【鑑定】を使うことはよくあることだ。しかしそれは他人の領域に踏み入るスキルでもある。エミルは無遠慮に、不躾に他人の領域に踏み込むような人間ではない。

「それにしても、お辞儀っスか。まあでも、この国のお辞儀って簡素だし、坊ちゃんもすぐできますよね」

「簡素だからこそ、できていないと目立つぞ」

「そっかあ……。できてないと俺らの責任っスよね」

「そうなるな」

「うう……責任重大っスね……」

 アーデルトラウト王国での「辞儀」と言うと、男性は胸に右手を当て体を四十五度、前に倒すというものである。女性はスカートをつまみ、左足を引き同じように体を前に倒す。どの場面でもこの辞儀で済むため、他国に比べると簡素なものだ。角度に関して厳密に問う者はいないが、子どもの頃からの教育で身に付くものである。

「でも、思ったんスけど」と、ニコライ。「国王陛下の前だと跪くから、お辞儀する必要ないんじゃ?」

「はじめは跪くだろうが、おそらくあいつは国王陛下、王妃殿下にお声を掛けられるだろう。そのときに必要になる」

「なるほどっス」

 少年がサバと遊ぶのをやめ、ふたりのもとへ戻って来る。

「疲れたか?」

 ラースが問いかけると、少年は遠慮がちに頷いた。サバはまだ遊び足りないような顔をしているが、どういうわけかサバは人間の機微に敏い。見送るように彼らを見ていた。

 少年を片腕で抱き上げると、サバがラースの足元に寄って来る。頭を撫でてやると、満足げに彼らをあとにした。

「サバは捨て犬だったんスよ」

 部屋へ戻る道すがら、ニコライが言った。

「見つけたときは体中が傷だらけで、雨に濡れてたんで弱ってたんスよね。それを国王陛下が見つけて拾って来たんスけど、いままでそんな動物はいくらでも見てきたはずなのに、なぜかサバを拾って来たんスよね」

 サバは人間から酷い扱いを受けたような、そんな傷がたくさんあった。体は痩せ細り、あと数時間も放っておけば死んでいたかもしれない。王がサバを拾って来たときは、周囲の者はてんやわんやだった。それまで、王宮に動物はいなかったからだ。王宮に住み込みで働いている者がほとんどで、動物を飼った経験のない者が多かった。王はサバを大切にしていたため、使用人たちは必死に動物の飼い方などを調べて回った。そうして動物を飼育するということに喜びを覚えていった者も多く、使用人たちも次第にサバに惹かれ、いまでは人気者だ。

「最初はサバのこと、可哀想な子だなーと思ってたんスけど、いまのサバはめちゃくちゃ幸せそうなんスよね」

 ね、と笑うニコライに、少年は小さく頷いた。

 もしサバと同じように少年が幸せを掴むことができるなら、それ以上に良いことはない。そのために自分たちが力を尽くそう、とニコライはそう言っているようだった。

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