2-1

 遠慮がちなノックの音でラースは目を覚ます。少年を見ると、まだ穏やかに眠っている。左手は握られたままだ。

 音を殺しながら、ニコライが部屋に入って来た。いつもへらへらしている彼だが、さすが国王直属騎士団員と言える。ドアがかすかに軋む音以外はなんの音もしない。

「先輩、寝てないんスか?」

 少年に握られた左手を見て、ニコライが心配そうに問う。

「寝た」ラースはあくびを噛み殺す。「多少な」

「手ぇ握られたままっスか?」

「悪いか?」

「いやいや。よく眠れたな~と思っただけっス」

 睨み付けるラースに苦く笑い、ニコライは少年を見遣る。

「まだ起きなそうっスね」

「ああ」

「特に予定はないですし、ゆっくり寝させてあげましょう」

「起きたら食堂に連れて行く」

「はい。準備しとくっス」

 サッと簡素な敬礼をして、じゃ、とニコライは部屋を出て行く。相変わらずなんの音もしない。へらへらしていなかったらその有能さも認められるものを、とラースは笑う。

 少年が起きたのは、それから三十分ほどあとだった。ぼんやりしたまま起き上がると、ラースの手を握り締めたままだということに気付いて慌てて手を離した。

「よく眠れたか?」

 ラースはまたあくびを噛み殺しながら訊く。少年は申し訳なさそうにしながら頷いた。

 まるで見計らったように、ユリアーネが部屋に入って来る。おはようございます、と恭しく辞儀をするユリアーネに、少年は深々と頭を下げた。

 ラースが背中を押して促し、少年はベッドから降りる。それからはあっという間だった。ユリアーネはさすがとしか言えない素早い動きで少年を着替えさせ、ニコライに言われたように整髪剤を使って少年の髪を整える。立ち上がった少年は、それこそ「坊ちゃん」と呼ばれるのが似合う出で立ちをしていた。どこか照れ臭そうにしている。

「食堂に行くぞ」

 その言葉に少年が複雑な表情になるのも構わず、ラースは片腕で彼を抱き上げる。

「食うかどうかは別として」ラースは言う。「食堂でニコライが待ってる。行ってやらないと可哀想だろ?」

 少年が遠慮がちに笑った。多少なりとも心を開いてくれているということなのかもしれない。


 食堂に行くと、メイド長と話していたニコライがふたりを振り向いてひらひらと手を振った。

「おはよう、坊ちゃん。待ってったっスよ~」

 メイド長は恭しく辞儀をする。ラースの腕から床に降りた少年は、深々と頭を下げる。ニコライも真似して辞儀をした。ラースは三人に笑いつつ、壁に寄り掛かる。

「さあ、坊ちゃま。今日はマドレーヌを焼いてみましたよ」

 そう言ってメイド長がテーブルに置いた皿には、小さなマドレーヌが乗っている。少年は興味を惹かれたようだ。

「今日は小さめに作りましたからね」

 さあさ、とメイド長に促されて椅子に腰を下ろし、少年は不思議そうに小さなマドレーヌを眺めている。おそらく、こういった食べ物とは無縁な生活をしていたため、その正体を掴み兼ねているのだろう。警戒こそしていないもの、なかなか手を付けようとしない。

「気合い入れすぎじゃないっスか?」

 ニコライがそう言って笑うと、メイド長も上品に笑う。少年はきょとんとふたりを見上げた。

「美味しい物を食べさせて差し上げたいですからね」

「坊ちゃん。メイド長のマドレーヌは絶品っスよ」

 ニコライが肩に手を置くと、少年はようやくマドレーヌを手に取る。意を決して口の中に放り、表情を明るくした。

「ね? 美味しいでしょ?」

 なぜか得意げに言うニコライに、少年はこくこくと頷く。

「徐々に、胃を食べ物に慣れさせていきましょうね」と、メイド長。「いっぱい食べたら強く大きくなれますよ」

 少年はまたこくこくと頷いた。

 彼はおそらく、早いうちにここの生活に馴染めるのではないか、とラースはなんとなくそんなことを考えていた。もともと素直な性格のようだし、過酷な環境に置かれていた割には捻くれていない。ラースの周りには幸い、優しいと言われる人々が集まっている。きっと傷だらけであろう少年の心を癒すのに、彼らはちょうどいいのかもしれない。

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