1-6

 部屋に戻ると、ニコライは足元に新聞紙を広げ少年を椅子に座らせた。鏡を前にした少年は、少し緊張しているように見える。ニコライは安心させるように微笑んだ。

「大丈夫っスよ。いつも自分の髪を切ってるんで!」

 自分の髪を切るのと他人の髪を切るのは違うのではないかという突っ込みを、ラースは心の内に留めた。いまから美容師を呼ぶのも面倒だ。それに、いまのぼさぼさ髪より多少ヘタクソでも切ればましになるだろう。

「さーて、動かないでくださいよ~坊ちゃん~」

 ニコライはまず、緑がかったグレーブラウンの髪を丁寧にくしで梳かす。絡まっている部分に当たると手をゆるめ優しく解く。大雑把な性格をしていると思っていたが、その手付きは意外にも繊細だ。

 髪が粗方整うと、鋏を手に取る。少年の髪は背中の真ん中ほどの長さだ。おそらくまともに切ってこなかったのだろう。スキルだけが目的の盗賊団には、少年の髪が伸び放題だろうがなんだろうが気に留めていなかったのだ。

 まず毛先を整えていく。適当な鼻歌がニコライの上機嫌さを表している。少年は動かないように体を硬直させ、目だけがきょろきょろと巡らされていた。

 そこに、洗濯したばかりのシーツを手にしたユリアーネが入って来る。一礼しベッドメイキングを始める彼女が、小さくボソッと言ったのをラースは聞き逃さなかった。

「坊ちゃまの髪に触れるなんてズルい……」

 ユリアーネはあまり感情を表に出さない。しかしその実、とてもわかりやすい女の子だ。ラースにはよくわからないが、少年の愛らしさに惹かれているのは間違いないだろう。

 ニコライはそんなユリアーネの嫉妬には気付かず、順調に髪を切り進めている。毛先が整うと、梳き鋏に持ち替え髪を束にして梳いていった。また鼻歌が零れている。

「整髪剤かなんか塗ったほうがいいかもっスね」と、ニコライ。「ユリアーネちゃん、それはお任せしていいっスか?」

「えっ……あ、はい! お任せください」

 一瞬だけ目を丸くしたユリアーネが、恭しく辞儀をする。心の中では大喜びしているだろう、とラースは思った。


   *  *  *


 この日、少年は夕食を取らなかった。

 中庭で遊んだことだけで疲れていたらしく、ベッドに入るとすぐに寝息を立てる。ラースは昨夜と同じようにベッドのそばの椅子に腰掛けた。今日は少しなら仮眠を取ってもいいだろうか。部屋の外にはもうひとり護衛がいる。異変があれば彼が動くし、ラースも気配で起きることができる。ラースはひとつ息をつくと、腕を組んで目を閉じた。


 少年が息を呑み起き上がるので目を覚ましたのは、仮眠を始めてから少し経った頃のことである。少年は浅い呼吸を繰り返し、辺りを見回している。ラースが優しく肩に触れると、ヒッと息を呑むのが聞こえた。

「俺だ」

 ラースの声だと気付くと、少年の体から力が抜ける。

「大丈夫だ。俺がここにいる。安心しろ」

 らしくない、とラースは思った。こんなことを言うとは。

 少年の呼吸は次第に落ち着いていく。真っ暗なのが嫌なのだろうか、とラースはランタンに火を灯した。仄明るい中に、少年の汗だくで蒼白な顔が浮かぶ。

 少年がラースの左手を握り締めた。ラースは優しく握り返し、泣きじゃくる少年の体をベッドに寝かせる。

「ゆっくり眠れ。明日はまたサバのところに行って遊ぶといい。そのために体力を回復させろ」

 こくりと頷き、少年はゆっくりと目を閉じる。肩まで布団をかけてやったラースの左手を握り締めたまま。

 ラースはひとつ息をついた。環境の大きな変化に精神面が追い付いていないのかもしれない。それも致し方ないことだろう。あんな場所に押し込まれ暮らす日々が八年も続いていたのだ。この環境の変化に即慣れろと言うのも酷だ。少なくとも、子どもに要求できることではない。

 椅子をベッドに寄せ、ラースは背もたれに体重をかける。身動きが取れなくなってしまったが、もっと環境の悪い状況に陥った経験がある。仮眠くらいは取れるだろう。

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