2-3

 部屋に戻り少年を休憩させたあと、ラースとニコライはさっそく今日の任務に取り掛かることにした。

「このお辞儀は簡単っス。見ててくださいね」

 ニコライは右手を胸に当て、体を前に倒す。

「これがお辞儀っス。基本的に、身分の低い人が先にお辞儀をするんス。坊ちゃんは立場的に平民っスから、自分が先にお辞儀するんスよ。使用人たちは向こうが先っスけど」

 少年は、わかった、というように頷いた。それから、ニコライの真似をして辞儀をして見せる。

「ちょっと体を倒すのが深すぎっスね。ここ」ニコライは少年の肩を押さえる。「ここまででいいんスよ。んで、左手は体にぴったりつけるんス」

 少年は頷いて、また辞儀をした。

「良い感じっス。顔は下を向いたままでいいっスよ」

 少年は真剣な表情で辞儀を繰り返す。様になってきたところで、ニコライは満足げに微笑んだ。

「そんな感じっス! あとは実践あるのみっスね。自分より偉いっぽい人に会ったら、とりあえずお辞儀するといいっスよ。先手必勝っス」

 最後の一言は違うのではないだろうか、とラースは思った。しかし、あながち間違いではないのだろうか。

 そこに、洗濯した衣類を持ったユリアーネが入って来た。

「ユリアーネちゃん、いいところに」

「はい?」

「坊ちゃんのお辞儀の練習に付き合ってほしいっス」

「かしこまりました」

 ユリアーネは持っていた衣装をドレッサーに置き、少年に向き合う。少年は少し緊張した面持ちになった。

「いいっスか? この場合だと、ユリアーネちゃんのほうが身分が下っスから、ユリアーネちゃんから先にお辞儀をするんス。まあ、自分から先にしちゃってもいいんスけど」

 ニコライが目で合図すると、ユリアーネはメイド服のスカートをつまみ、左足を引いて頭を下げる。少年が覚えたての辞儀をすると、ユリアーネは小さく拍手をした。

「完璧です、坊ちゃま。素晴らしいお辞儀ですよ」

 ユリアーネの賞賛に、少年は満足げに笑って見せる。安心したような色が湛えられていた。

「慣れたら条件反射みたいにできるようになるっスよ。でも、使用人と挨拶するくらいだったら、頭を下げるだけでもいいっス。そのほうが向こうも気が楽でしょうしね」

 少年はこくこくと頷く。使用人同士で辞儀をして挨拶をすることはない。彼は「癒し手」であるが、身分としてはただの平民だ。同じく平民であり身分の低い使用人がいちいち辞儀で挨拶をしては気が疲れてしまう。

「国王陛下や王妃殿下の問いかけにお辞儀をすることで、肯定の返事の代わりになることもあるっス。でもお辞儀ばっかりしてても失礼なんで、ここぞというときっスね」

 ここぞというとき、ということを少年が理解できるとは思わないが、追い追い覚えていくしかないだろう。

「ちなみに、変形のお辞儀というのもあるんスよ」

 得意げに言うニコライに、少年は首を傾げた。

「歌や楽器を披露するときに使うお辞儀っス」

 見ててください、とニコライは姿勢を正した。右手を胸に当て、左手を広げそれに合わせて右足を引き、少しだけ深く体を倒す。この体の角度も感覚である。

「こんな感じっス。一応、覚えておくといいかもっスね」

 この辞儀は、優雅な芸術の際にいつもの辞儀では堅苦しいということで決められたものだ。観客が拍手をする合図でもある。辞儀を待たずに拍手をするのは礼儀に反する。

「坊ちゃんは覚えることがたくさんっスけど、徐々に覚えていけばいいっスからね」

 少年は少しだけ明るく微笑む。いままで触れてこなかった文化に、楽しんでいるように見えた。


   *  *  *


「しっかし、ラース小隊長もニコライも大変だな」

 そんな声が聞こえてきて、エミルは書類に落としていた視線を声のほうへ向ける。剣の手入れをしながら話しているふたりの騎士は、確かラースの隊の部下たちだ。

「子どもの世話係なんてな」

「騎士にやらせるとしても、下っ端の仕事だよな」

 そう言ってふたりは笑う。もしこれをラースとニコライに聞かれていたら、ふたりは大目玉を食うことだろう。聞きようによっては陰口のようにも聞こえる。

「では、あなた方の仕事ということでしょうか」

 エミルが口を挟むと、ふたりの表情が固まった。

「エ、エミル……いたのか……」

 口元を引きつらせる騎士に、エミルは冷たい視線を向ける。細められたエミルの目に怯まない者はいない。

「世話係は侍女の役目です。騎士であるふたりの役目は護衛だと思いますが?」

「でもさ……食堂に連れて行ったり、庭で遊ばせてやったりしてるだろ? 護衛の域を超えてると思うんだが……」

「ではあなたは、あの子どもがお腹を空かせていても、外に出ることを我慢していても、放っておくのですね?」

「え……」

「ずいぶんと薄情な方なんですね。まあ、あのふたりがお人好しすぎるとも言えますが。世話係であろうと護衛であろうと、困っている者に手を差し伸べるのは当然だと思いますが。あなた方の発言は騎士道に反すると思いますよ」

 冷たく言い放ち、エミルはふたりに背を向けた。

 なぜわざわざ口出しをしたのだろう、と自分の行動に内心で首を傾げる。他人が他人のことをどう思おうと、自分には関係のないことだ。

 ラースとニコライがあの少年の護衛をすることに疑問を懐く者も少なくない。そのたびに咎めていてはきりがないことはわかっている。それなのに、なぜ庇うような真似をしてしまったのだろう。自分がよくわからない。

 騎士の基本は「ノブレスオブリージュ」のはすだ。平民であるあの少年を王宮騎士が助けるのは当然のこと。エミルは、おそらくそれが気に入らなかったのだろう、と思った。


   *  *  *


 夜中、うなされていた少年が起き上がるのでラースは目を覚ました。ランタンに火を灯すと、少年は肩を震わせる。そばにラースがいることを認めると、ひとつ深く息を吐く。

 盗賊団に捕らわれていたときのことを夢に見るのだろう。目を覚ましたときに真っ暗だと、あの砦に戻ってしまったような気になるのかもしれない。

「俺がここにいる。安心して眠れ」

 肩を押し、布団の中へ促す。少年はようやく安堵したようにゆっくりと横になる。ラースが優しく頭を撫でてやると、静かに目を閉じた。呼吸に次第に落ち着いてくる。

「明日は謁見だ。寝不足の顔では呆れられてしまうぞ」

 少年は小さく頷いた。ややあって、寝息を立て始める。

 こんな精神状態で謁見をこなせるのだろうか、と独り言つ。しかし、国王陛下なら、或いは……。

 自分にできることは、少年が不敬に問われないよう手助けしてやることだけだ。だが、国王陛下は寛大な心の持ち主だ。年端もいかぬ子どもの首を簡単に刎ねることはないだろう。あとは恥をかかないようにしてやるだけだ。

 気を抜くことはできないな、とラースは息をついた。

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