第8話 記憶

「いかん…全然わからんったい」

 ロビーで説明書を読みながら政典が言う。

「何…」

 義秋が政典の手にある説明書を覗き込んだ。

「英語で書かれたらさっぱりわからん」

 政典は説明書をテーブルの上に投げ出した。

「何の説明書…」

 義秋は政典の横に座って、その説明書を見た。「魚群探知機か」

 政典は身を乗り出して来た。

「そういえばお前、英語読めるったいね」

「ああ、読めるだけじゃ無いぞ。ちゃんと喋れるぞ」

 義秋はその説明書を捲る。

「はぁ…。俺も中学までの英語やったら完璧ばってんね…」

 そう言った政典の顔を驚く様に見た。

「何ね…」

「お前、中学ん時に、マドンナが「処女が好き」って歌、歌ってるぞって言って無かったか…」

 政典は顔を赤くして、

「やかましか。青か線と赤か線ば、何処に繋いだら良かかだけ、教えてくれ」

 大声で言って騒ぎ出す。

「分かった分かった…」

 楽しそうに笑いながら、義秋は暴れる政典を横目に説明書を読んだ。

 その魚群探知機を、今から船に繋ぐと政典が言い出したので、義秋はついて行く事にした。

 政典の船は旅館のすぐ近くに係船してあった。二人は政典の船に飛び乗る。操舵席の計器の中に、新しいカーナビの様な魚群探知機のモニターがあった。

「これか…」

 義秋はモニターに触れた。

「ああ…。ネットで買うたとは良かばってん…。全部英語じゃな…。学の無か俺には、どう転んでも太刀打ち出来んったい」

 政典は計器の下に潜ったまま言う。「赤を何処やったかいな…」

「赤を一番から八番の何処でも良い」

 義秋は説明書を読む。「青が十一番から十八番の何処か」

「青が…十一番ね…」

 線を繋ぎ終わり、政典が這い出て来た。そして船のエンジンを掛けて、魚群探知機のスイッチを入れた。モニターに、この周辺の海の中の状況が映し出された。

「これは今まで使っとったソナーのメモリに記録されとった海底地形図たい…。青色の濃い所は深かとこたい」

 政典は画面を指でタッチして地形図を進めて行く。「ほら、こことか濃い青色やろ。こげん所に何か落としたら、網も曳けん…。一生見付けられんたいね…」

 義秋は政典の後ろからモニターを見る。

「ほら、この間行った原発の沖とかも深かとよ…。分かる…。ここ…」

 政典は指を指した。その場所の地形図は、かなりの深さを表していた。

 その新しい魚群探知機に満足したのか、政典は声のトーンを上げて色々と義秋に説明していた。

「良く分からんが、青い色の濃い所は深いって事は分かった」

 義秋は手に持った説明書を政典に返した。

「まあ、それで良かたい」

 政典はエンジンを切った。「さあ、飯ば食おう。魚ばまた持って来たけん」

 そう言うと、船のロープを手繰たぐり寄せて岸壁に船を近付けた。

 二人で岸壁に上がるとハイタッチをした。昔、これを良くやっていた事を、義秋は思い出して微笑んだ。

 古谷旅館に目をやると、見覚えのある白いセダンが止まっていた。それを見て義秋は足を止めた。

「何ね…」

 後ろから政典が言う。車から神谷が下りて来た。「神谷一馬か…」

「ああ…。節子を迎えに来たんだろう」

 神谷も義秋に気付き、小さく頭を下げた。

 義秋はゆっくりと神谷の方へ歩いた。

「どうも…。この間は失礼しまして…」

 神谷は義秋に言った。

「いえ…こちらこそ」

 義秋は笑みを浮かべて、玄関に向かう。

「あ、木瀬さん。三村議員に取材を申し込まれたそうで…」

 神谷の言葉に、義秋は足を止めて振り返った。

「友人の井崎に頼んだのですが…」

「はい。三村議員が是非にと申しておりました」

 神谷は、にやりと笑って小さく頭を下げた。

「そうですか…」

「私もその際には同席させて頂きますので、よろしくお願いします」

 神谷は義秋の横を通り、古谷旅館に入って行った。

 取材の件、節子には内緒にして欲しい。

 神谷にそう言おうとして止めた。

 そう頼めばわざと節子に喋る。神谷とはそんな奴だろう…。

 義秋は神谷の後ろ姿を見て苦笑した。

「何か妙な火花散っとらんか…」

 義秋の後ろから政典が言った。

「俺が節子、寝盗ったから怒ってるんじゃないか…」

 義秋は神谷の背中を睨んでそう言った。


 向井は喫茶店の窓際の席でコーヒーを注文し、コートを横の席に掛けると、胸のポケットからタバコとライターを出し、テーブルの上に投げ出した。

 日曜の喫茶店は人も疎らで、いつも見る顔ぶれもそこには無かった。国見も今日は非番で、向井も一人でのんびりと過ごしていた。警察官に曜日は無い。あるのは月の区切りだけで、今月も無事に終える事が出来たという安堵感だけだった。

 向井の父親も警官で、神奈川県警で定年まで勤め上げ、今は趣味の陶芸を楽しんでいる。向井の部屋にも、父親が焼いたカップや皿が無意味に並んでいた。

 向井は携帯電話を取り出すと、良介にメールを入れた。

「ロデオ・ビスコンティはシロだと思われます。この町にフライが来ているという可能性はかなり低いのではないでしょうか」

 それだけ送信して、携帯電話をテーブルの上に投げ出すと、そこにコーヒーが運ばれて来た。テーブルの上に置かれた青い模様の入ったコーヒーカップからは白い湯気が立ち上っていて、窓から入る光が、その白い湯気を引き立たせている。

 井崎さんの読みは外れたか…。飛んだ取り越し苦労だったな…。

 そう考えると、安堵と無念の複雑な笑みがこぼれた。

 こんな町に、そんな世界的に有名な殺し屋など来る筈も無い。殺された松本代議士の事を邪魔になった奴が特別に依頼したのだろう。

 向井はコーヒーカップを手にして口に当てた。向井はこの店のコーヒーが好きだった。苦いコーヒーをいつも好んで飲む。もやつく頭がすっきりする気がするのだった。今日も例外ではない。

 昨夜、偶然に出会ったビスコンティ。余りにも期待外れな男に見えた。チンピラの様な若者三人に、いい様にやられて、一発も反撃出来て無かった。その点は雇った貴志川も少々期待外れだろう。チンピラ達は応援に来た制服警官に任せて、国見と一緒に久しぶりに飲みに出た。朝方まで数軒の店で飲み、部屋に戻りシャワーを浴びて数時間寝た。国見も千鳥足で朝早くに自分の部屋に帰って行った。向井はどんなに飲んでも酔う事は無い。飲めば飲む程に、意識が冴えて来る。そんな自分が今朝は少し疎ましかった。

 テーブルの上に置いた携帯電話が震える。画面には井崎の名前が表示されていた。

 向井は電話に出る。

「はい。向井です」

 少し控え目の声でそう言う。

「メールを見た」

 井崎はぶっきら棒に言った。

「はい、昨日、偶然に会ったのですが、チンピラ相手に何も出来ずに一方的にやられてました。元傭兵の身のこなしではありませんでしたね」

 向井はコーヒーを飲んで、窓の外を見た。

「そうか。取り越し苦労だったな」

「ええ…。この町はターゲットには入って無いのでは無いでしょうか」

「まだ、その判断は早いかもしれんが…。今晩、俺も貴志川の店に行ってくる。俺もこの目でそのビスコンティを見てみたい」

 良介は古谷旅館のロビーの隅で話していた。

「分かりました」

 向井は、テーブルの上のタバコを片手で器用に取り、一本咥える。「あ、井崎さん」

 思い出した様に声を発する。

「何だ…」

「来週、原発で行われる式典なんですが」

 良介はロビーのソファに座った。

「ああ…」

「三村県議は、神谷市議を連れて参加するそうです」

 向井はタバコに火をつけた。

「自分の後任は、娘婿の神谷だというお披露目みたいなモンだな…」

 良介はにやりと笑った。

「私も現地で、一応警備する予定になっています」

 煙を吐きながら向井は言った。

「分かった。俺も取材に現地に行くよ」

「分かりました」

 向井は電話を切った。

 組んだ膝の上に置いた手に持つタバコの先から煙が立ち上る。

「フライ…」

 無意識に向井の口からは、その名前がこぼれた。


 切れた電話をポケットに入れて顔を上げると、そこには義秋が缶コーヒーを持って立っていた。

「ヨシア…」

 義秋は缶コーヒーを良介の前に立てる。

「忙しそうだな…」

 義秋は向かいに座った。「仕事か」

 良介は微笑んで、

「ああ、新聞記者に休みなんて無いさ」

 そう言うと、目の前の缶コーヒーを取り、礼を言って缶を開けた。

 義秋は缶コーヒーを一口飲むと、タバコを出して火をつける。

「この缶コーヒーとタバコは止めれないな。どうやら一番身体には良くない組み合わせらしいが…」

 義秋は笑う。

「そうだな。一息吐こうとなると、どうしてもタバコとコーヒーだな」

 良介も微笑んで言う。

「あ、三村健三への取材、頼んでくれたんだな。ありがとう」

 義秋は軽く頭を下げた。「さっき神谷議員が言ってたよ」

 良介も、神谷が節子を迎えに来て連れて行った事は知っていた。小さく頷いて、

「ああ。善は急げだ。今朝、連絡しておいた」

 そう言って缶コーヒーをテーブルに置いた。「どうせ神谷も同席するって話だっただろう」

「ああ…。まあ、こっちも二人一緒の方が良いかもしれん。同じ事しか言わんのだろうしな…」

 義秋はタバコを咥えて、携帯電話を出した。

「三村健三の後継者は、娘婿の神谷である事は間違いない。実の息子の三村龍次は社長業の方が向いている。政治家になるには黒過ぎる」

 良介はにやりと笑う。「社長なんて仕事していると、そこの色に染まってしまうんだよ。そこから政治家になると、過去のスキャンダルで潰されてしまう事が多い。清廉潔白では企業の社長なんて出来る訳が無いからな…」

 義秋は良介のその言葉を聞いて、タバコを灰皿に押し付け、立ち上がった。

「チャールズ・ダーウィンが、すべての生き物はその環境に自らを合わせる様に進化して行くと言っている。三村龍次もそうなんだろう」

 窓の外を向いたまま義秋は言う。

「おいおい。黒い世界に染まるのも進化だと言うのか」

 良介は脚を組んで、義秋の背中を呆れた顔で見た。

「ある意味進化だろう。そうしなければその世界では生きて行けないのであればな…」

 義秋は振り返る。「この町の人々も、進化の過程を辿っているに過ぎないのかもしれん。『K文書』はその進化の過程を書いているモノなのかもしれんと思ってな」

 良介は苦笑して義秋から顔を背けた。

「世界的に有名なジャーナリストさんは、考える事も違うな…。『種の起源』と『K文書』は同じだと言うのか」

「ダーウィンの唱えた事が、今のこのおかしな世界でも通用するのであればな…」

 義秋はソファに戻った。

「それをレポートに書くのか」

 良介は義秋が座るのを見て立ち上がった。

「いや、あくまで仮説だ。進化の過程の中で奇形と言われる種のモノは必ず現れる。それを考えると…」

 そう言う義秋の言葉を良介が遮った。

「ヨシア…」

 その声が余りに荒々しく思えて義秋は顔を上げた。

「何だ…」

 良介は眉を寄せて、義秋を睨む様に見た。

「この町の現状はあくまで人災だ。人がコントロール出来ないモノに手を出してしまった代償を払っているんだよ」

 声を荒げて良介は言った。「そんなモンは進化でも何でもない。ただの人災だ…」

 そう言うとロビーから足早に出て行った。

 義秋は良介が怒る事を分かっていたかの様に微笑んだ。

 義秋が良介に言った事は、原発の被害を正当化する詭弁に過ぎなかった。もちろんそんな事を義秋自身は微塵も思っていなかった。ただ良介が、その正当化する話にどう反応するかを見たかったのだった。

 新聞社の一記者が簡単に三村へ取材の約束を取り付けた。それが義秋には疑問に思えた。何処の議員にもその議員に取り付く記者が居る。その議員のための記者と言っても可笑しく無い。情報をいち早く流し、それに対しての対策を誰よりも早く取るための手段だ。義秋は良介がその役目を担っているのではないかと考えたのだった。

 例えそうであったとして、三村健三と同じ様に、原発は必要悪だという考えでいるのかどうかが知りたかったのだった。

「人災なんかじゃ無い…政災だよ。良介…」

 義秋はテーブルの上のタバコを掴んで部屋に戻って行った。


 節子は三村の屋敷の広いリビングにいた。帰っても特にする事も無く、母と一緒にお茶を飲み、大きなテレビの画面を見ていた。

 神谷も一緒に屋敷に戻り、そのまま三村健三に挨拶をして、さっさと愛人と住むマンションへ帰って行った。市内に自宅もあったが、ほとんど利用していなかった。神谷が県会議員になれば、更に使う事は無い。

「節子」

 兄の龍次が節子に声を掛ける。

「何…」

 節子はティーカップを置いて立ち上がった。

「俺にもコーヒーば淹れてくれ」

 龍次はシャワーを浴びていた様で、濡れた頭を拭きながらリビングに入って来た。「ほら、神谷君が飲んどるコーヒー。あれば飲ましてんね…」

 龍次はゴブラン生地の高級なソファに腰を下ろした。

「節子さん。私が…」

 使用人がキッチンから出て来て、節子を止めるが、

「淹れ方もあるけん。私が淹れる」

 使用人に微笑んで、節子はキッチンに入って行った。

 龍次はテーブルの上の新聞を取り、開いた。

「龍次。お前、家に帰らんでも良かとね…」

 母が龍次に言う。龍次は新聞から目を逸らす事も無く、

「良かと…。今日は美由紀も、子供ば連れて実家に帰っとるけん」

 そう言った。

「お前、普段もあんまり家に帰っとらんっちゃろ…」

 母は新聞で見えない龍次に向かって言う。

「だけん何ね…」

 龍次は新聞の陰から母に言った。

「そげんこつばしとったら、美由紀さんの可哀そかたいね…」

 その母の言葉を聞いて、龍次は新聞を畳んでテーブルの上に投げた。

「美由紀には、金ば渡しちょるけん良かと…。それで贅沢な暮しばしとるとやけん…。何の不服があるとね…」

 龍次は首に巻いたタオルを使用人に渡した。

「女はね…。それだけじゃ、幸せは感じんとよ」

 母は訴える様に眉を寄せて言った。

「なら、節子はどげんなるとか」

 龍次は声を荒げて立ち上がった。

 母はその声に縮み上がる。

「お袋…良かか。誰が見ても節子は政略結婚の道具に使われとるったい。そげんこつは中学生でもわかる。あいつはそれで良かとか…。俺は他に女が十人居ろうが百人居ろうが、美由紀ば幸せに出来る自信はある。ばってん、節子は、あん神谷に…幸せにしてもらえる事は一生無かとぞ…。そげん思うた事は無かとね…。親として」

 龍次は立ち上がって大声で言った。

 母は龍次の剣幕さに驚いて、身体を震わせていた。

 龍次は鼻息を荒くして、再びソファに腰を下ろした。

「お父さんの…決めた事やけん…」

 母は呟く様に言った。

 龍次はそんな母の言葉を鼻で笑い、ソファに深くもたれた。

「今更もう、神谷の名前なんて必要無かやろうが…。そろそろ節子ば、自由にしてやらんね…」

 龍次は目を伏せて言った。

「龍次兄ちゃん…」

 節子が龍次の後ろから声を掛けた。そして手に持ったコーヒーカップを、龍次の前に置いた。節子の目には涙が滲んでいた。

「節子…」

 龍次は涙を拭く節子に、何も言えなかった。

 龍次は父親、三村健三の陰に隠れ、世間では政治家になれなかった馬鹿息子と称されていたが、幼い頃から妹思いの優しい兄だった。節子を神谷に嫁がせると父の三村が言い出した時に猛反対したのは、龍次だけだった。最後は節子が嫁ぐと言った事で、龍次も折れたのだった。

 龍次は節子の淹れたコーヒーを飲んだ。

「やっぱ、こんコーヒーは美味かね…。お前が神谷と結婚して、良かった事はこんコーヒーだけたい…」

 龍次はわざと声を大きくして言った。

 部屋の中に静寂が染み渡る。

 龍次はコーヒーを飲み終えると、カップを荒々しくテーブルに置いた。

「お前が幸せになれるとなら、こげなコーヒーくらい、一生飲まんでも良か。親父が参院選当選したら、神谷と別れて良かとぞ。こげな狂った家はもう沢山たい…」

 龍次は節子に言うと、立ち上がってリビングを出て行った。


「行こか」

 部屋で寝ていた義秋に誠二が言う。

「ん…。もうそんな時間か…」

 義秋は頭を振って目を強く閉じた。

「ちょっと早かばってん、焼肉でも食おうと思って。美味か和牛焼肉の店があるったい」

 誠二はニコニコと笑いながら言った。

 義秋はゆっくりと立ち上がって、壁の上着を取った。

「分かった。先に行っててくれ。すぐ行くよ」

 そう言って、上着に袖を通した。

「玄関で待っとるけんね。もうみんなおるけん」

 誠二は部屋を足早に出て行った。

 窓際のテーブルの上に置いた携帯電話の小さなLEDは点滅を繰り返し、着信があった事を示していた。義秋は携帯電話を手にして画面にタッチすると、メールの内容を見た。その内容を見て眉を寄せる。しかし、すぐにその携帯電話を上着のポケットに入れると部屋を出た。

「遅かぞ、ヨシア」

 玄関で靴を履き、外に出ると、誠二の会社の名前の入ったワゴン車の窓から、政典が顔を出していた。

「悪い…。寝てた」

 そう言うと、誰も座っていない助手席のドアを開けて乗った。

「飲むんだろ…。車で行って良いのか」

 義秋はハンドルを握る誠二に聞く。

「この辺は車で行かな、飲む店も無か。帰りは代行運転ば頼むけん大丈夫」

 誠二はニコニコしながらそう言うと、車を走らせた。

 海岸沿いの道から、新しく出来た橋に繋がる広い道へ。この道が出来て随分と町を出るのは早くなった。しかしこの道も原発の助成金で作られたモノだった。複雑だった。原発があるからこそ開発されて行く町。その原発が原因で身体を壊す人々。命を削って得る原発マネー。それが無ければとっくにこの町は死んでいたのかもしれない。

 義秋は窓の外を見ながらそんな事を考えていた。

「久しぶりたいね…。浩美の店」

 後部座席で政典が言う。

「俺は先週行ったかな…」

「俺も…」

 良介と光生は良く行っている様だった。

「先に焼肉ば食うけんね」

 運転しながら誠二が言う。

「そう言えば、ヨシアのファーストキスは浩美だったな」

 光生は身を乗り出して義秋の横で言った。

「え、そうなの…」

 良介は知らない様だった。「俺はてっきり節子だと…」

「中学ン時に、こいつ浩美とキスしたとよ。すごい噂になっとったけんね」

 誠二はニヤニヤしながら言う。「その噂になっとる事、こいつだけが知らんかったとやけん」

「ガキの頃の話だろ…」

 義秋は止めろと言わんばかりに手で払った。

「ガキって言うても、中学生やけんね。セックスはしとらんとか」

 政典が義秋のヘッドレストを掴んで言う。

「してないよ」

 義秋は苦笑した。

「じゃあやっぱり、初体験は節子か」

 誠二は嬉しそうだった。車内は義秋の話題で盛り上がる。

「お前は何だっけ、祥子ちゃんだっけ」

「ああ、そうやったね。高校一年の時に山の中でしたったい」

 誠二の言葉に全員が唖然として黙った。

「お前、初めてがアオカンかよ…」

 光生がそう言うと全員が笑った。

「高校生やけんね…。仕方無かと」

 誠二は運転しながら大声で言った。

「良介は、一個上の彼女だったよな」

「ああ、睦美だったかな」

 良介は自分に振られると思って無かった様子で、慌てていた。

「井崎は年上が好きたいね」

 政典は良介を肘で突いた。

「大変だったんだぞ…。妊娠させたかもしれんって。俺はもう退学するってな」

 義秋は笑いながら言った。

「ガキの頃の話だよ」

 その良介の言葉に全員で笑った。

 義秋はあの頃のまま、何も変わらない気がした。それが楽しかった。

「そげんこつば言うたら、マサなんて」

 誠二が言い始めると、政典は慌てて、

「馬鹿、言うな」

 そう言って誠二の口を抑えようとした。

「危なかって…」

 誠二のハンドルは右へ左へと揺れた。

「島のおばさんだったな。確か三千円で」

 光生は誠二の代わりに言う。

「うるさかね。良かやろ、お前らより早かったけんね」

 政典はシートに踏ん反り返った。

 その政典を見て、また全員で笑った。

「焼肉食うばい…」

 誠二は笑いながら、車を焼肉屋の駐車場に入れた。


 向井は鉄製のゲートの閉まった原発の前に車を停めた。

 フクシマの事故以降、原子炉は停止しているため、夜中に敷地内にいる人間は数名で、完全に眠っているかの様に見えた。

 車をそこに停めて、原発の敷地の脇を歩き、海の傍に作られている公園へ向かった。

 その道の脇には広大な何も無い敷地が広がる。その場所に数カ月先からクリーンエネルギーセンターという、原発に変わる再生エネルギーを研究する施設が建設される予定になっていた。

 手に持った小さなLEDライトで石畳の足元を照らし、向井は歩く。少し小高くなった人工の丘の上にブルーシートに包まれた、その記念碑はあった。

 思ったより大きいな…。

 向井はその記念碑を照らした。

 そんなに金が余っているのか…。

 そう考えて失笑した。

 上司の命令で今週末にここで行われる、この記念碑の除幕式に出席する三村県議と神谷市議のための警備をする事になっていた。原発の再稼働とは違い、住民の反対もほとんど無い。そんな式典の警備をするにも、計画を立てて、その計画書を上司に提出する必要があり、そのための下見にやって来たのだった。

 自然に高い建物や山に目が行く。もしもビスコンティがフライという殺し屋だったら、何処から三村健三を狙うのか…。その可能性は無いと良介に言っておきながらも、やはり心の底にその疑心は残っていた。

 狙うとすれば原発の敷地の中からか…。

 向井はライトで原発の敷地の中を照らした。ライトが小さ過ぎて建物まで光が届かなかったが、原発内は所々に明かりが点いていて、ある程度の様子は分かった。

 いや…。フライが狙うのであれば、もっと遠くからでも可能だ…。

 向井は周囲の地形を見回した。

遠くに見える山の上に立つ、何かのアンテナの様なモノが見えた。しかし距離にしてそのアンテナまではかなりある。そんな場所からの狙撃はいくらフライでも難しいだろうと考えて、頬を緩めた。

 考え過ぎだ…。奴はフライじゃない…。

 向井は記念碑をシートの上から触った。どうやら記念碑は原発に向かって建てられている様だった。

 念のために海側に三村県議を立たせるか…。

 一旦消したライトを点けて足元を照らす。そして、来た道を戻る。

 まあ、簡単な計画書を書いて提出しよう。

 向井は自分の車まで戻ると、ライトを消した。車に乗り込むとエンジンを掛ける。フロントパネルの時計は二十時ちょうどを表示していた。

「もうこんな時間か…」

 そう呟くと車を走らせた。

 市内から約三十分。そんな海岸沿いにこの施設は要塞の様にそびえ立つ。山の合間の田舎の風景を見ながら走ると、突然大きな原子炉が数基見え始める。

 向井にはいつも風の強い場所という記憶があった。

 もちろん、向井が赴任して来た時には、既にこの町は原発の町だった。原発と漁業、農業しかない町で、他の産業はほとんど発達しない、時の止まった様な場所。初めて向井がこの施設を見た時そう思った。原発の助成金で色々な新しい施設が作られたり、ネットワークが張り巡らされたりと、かなり生活環境としては整っている。各家々にケーブルテレビやインターネットの環境を町が導入していたが、住民のほとんどが高齢者であるために、利用頻度は低い。若者の多くは、この土地に居付く事は無く、高校を卒業すると大体は出て行ってしまうため、新しい産業の発達はない。最近ではUターンやIターンという故郷に帰る若者も増えて、少しずつではあるが、比較的若い者も増えては来ている。だが、そこで問題になるのが原発のもたらす環境問題で、どうにもそれも抑えられない所まで来ている様だった。向井たちも同様で、他の地域の警察官よりも健康診断で検査する項目は多い。

 向井の携帯電話が鳴った。向井は耳に付けたイヤホンマイクのボタンを押した。

「はい。向井です」

 向井は山道を走りながら返事をした。少し前まではこの辺りでは携帯電話は繋がらなかった。

「向井か。島木だ」

 イヤホンマイクから聞こえる渇いた声は同期で入省した島木だった。

「おお、島木か。久しぶりだな」

 向井の声のトーンは少し高くなった。「どうしたんだ。お前が連絡してくるなんて珍しいじゃないか」

 島木は愛媛県警に居ると記憶していた。数年前に合同捜査で会って以来だった。

「向井…。北陸の事件、そっちも動いてるか」

 どうやら懐かしい話を始める雰囲気では無い様子だった。

「ああ、こっちにも通達は来ている。」

 向井は道の途中にあった、自動販売機の並ぶ場所に車を停めた。

「こっちでも調査は行っていたんだが、大丈夫みたいだ」

 島木は淡々と言った。

 島木の着任している愛媛県警の管轄にも原発があり、今回の北陸の松本代議士殺害事件の後、原発を保有する都道府県には特別警戒の命令が下っていた。

「ああ、こっちも調査は進めている」

「お前の所は、死んだ松本代議士の代わりに参院選に立候補する奴が居るんだろ。同じ再稼働反対派の…」

「三村健三だ」

 向井はポケットからタバコを出して咥えた。

「ああ、その三村。こっちで少し妙な噂が聞こえている」

「噂…」

 向井は眉を寄せた。

「かなり松本代議士に近い事をやっているのではないかという噂だ」

 島木の渇いた声が、緊迫した様子を醸し出していた。

「島木…。噂だろう。俺は何度も三村県議の警護をしているが、そんな空気は感じ取れないな」

 向井はにやりと笑い、息を吐きながら言う。

 少し無言の時間があった。

「そうか。お前がそう言うのであればそうなんだろうな…。いや、少し気になったんで連絡してみた」

 向井は視線を落とし微笑んだ。

「いや、わざわざありがとう」

「フライの話も聞いているか」

 島木は向井が礼を言い終える前に、そう言って来た。

「ああ、東京がそれで騒いでいるのは耳に入っている」

 向井は窓を薄く開けて煙を吐いた。「しかし、詳しい情報は一切ない。目星を付けようにも情報が少な過ぎてな」

「それは何処も同じか…。東京の横山に聞いたんだが、同じ様な事を言っていた」

 横山も同期入省した男だった。「パリやダカールにも情報提供を求めているらしいが、何も出て来んらしい」

「そうか…」

 向井はタバコを灰皿で消した。「一体どんな奴なんだろうな…。一度会ってみたいよ」

 島木は初めてクスっと笑った。

「俺もだ…」

「こっちで何か分かったら、また情報は伝える事にするよ」

 向井は車の窓を大きく開けて、車内の空気を入れ替えた。「落ち着いたら一度飲もう」

「ああ、俺もこっちで酒は鍛えられたからな。お前には負けんぞ」

 向井は鼻で笑った。

「いつも勝負になるのは、お前の悪い癖だぞ」

「そうだな。良く言われるよ」

 島木もそう言って笑う。「じゃあまた」

「ああ…また」

 向井はイヤホンマイクのボタンを押して電話を切った。開けた窓を閉めて、再び車を走らせた。


 義秋たちは焼肉屋を出て、浩美の店に入った。日曜なのだが、義秋たちが来た時には既に店は八割方埋まっていた。この店の他にデリヘルもやっている。貴志川和代、浩美の母親は相当なやり手なのだろう。

 義秋たちは、奥にあるボックス席へ通された。考えていたよりも高級志向の店で、ホステスも多く在籍している。良介が言うにはデリヘルとホステスの掛け持ちをしている女もいると言う。

「気に入った子、居たら交渉してみろよ。意外に行けるんだぜ」

 良介は義秋に耳打ちする。

「そんなモンいらねえよ」

 義秋はタバコを咥えて失笑しながら良介に言った。「そんな事するために来たんじゃないだろ」

 良介はにやりと笑って、

「そうだったな…」

 と言った。「でもよ…」

 良介は義秋に近付いて耳元で言う。

「それが目当ての客も多い。そして平気で客を取らせる事も黙認しているんだよ。地元の警察もな…」

「…」

 義秋は無言で店の中を見回す。

「貴志川和代は、長いモノには巻かれるタイプだ…と言いたいが、逆にその原発も上手く貴志川に利用されている所もある。中央から来る役人を、ここの女を使って骨抜きにする事だってあった。三村健三も貴志川とは強く繋がっている。貴志川を上手く使って原発側とも交渉して来たんだよ」

 義秋はカウンターの隅に座る女、貴志川和代をじっと見つめた。確かにトシの割には小綺麗にしている。服も高そうなモノを身に着けている。

「ある意味、この町の原発マネーを一番稼いでいるのは、この貴志川和代だ」

 良介はにやりと笑った。

「お前ら、何ばコソコソ話しとるんか。もうタイプの女でん見付けたんか」

 政典は義秋の股間を掴んだ。

「止めろよ…」

 義秋は政典の手を跳ね除けた。「女なんて誰でも良い」

「あら、そうか…おい、ママ居るか。浩美ママ」

 政典は大声で浩美を呼んだ。

「うるさかね。ちょっと待っとき」

 少し離れた席にいた浩美が返事をした。

「相変わらず、扱い悪かね…」

 政典は苦笑した。

 誠二には、お気に入りの女が以前からいるらしく、既によろしくやっていた。光生も馴染みの女と話をしている。

 義秋にはどうも居心地の悪い店だった。少し不機嫌な顔で店の中を見回していると、突然義秋の横に浩美が座った。

「ヨシア、やっと来てくれたとね。嬉しか」

 浩美は義秋に抱き付いて頬にキスをした。

「浩美…」

 浩美が義秋たちの席に座ると、数人のホステスがやって来て酒の準備をした。

「ママ、紹介して下さいよ」

 一人のホステスが言った。

「ああ、この人はね、私のファーストキスの相手。初恋の人」

 義秋に再び抱き付いて言う。義秋はその言葉に驚いた。

「初恋だったのか…」

 義秋が呟く様に言う。

「そうたい…。知らんかったと」

 浩美は義秋の目を見た。

「…」

 義秋も唖然として浩美を見ていた。

「もう…ヨシアが鈍いとは知っとったばってん。ここまでとは…」

 浩美は声を出して笑った。「かなり勇気ば出してキスしたとに…」

 浩美は義秋の耳元で言った。

「じゃあ、ママ、初恋の人と久々の再会」

「そうばってん。私はその後、私の最高のライバルに負けたとよ。だけんが、もう良かと…」

 浩美は義秋のグラスをマドラーでかき回した。「じゃあ乾杯ばしよう」

 義秋はまだ茫然としていた。

「ほら、ヨシア」

 浩美は義秋の脇腹を肘で突いた。

「あ、ああ。じゃあ再会に…。乾杯」

 義秋はグラスを掲げてそう言った。するとみんなが口々に「乾杯」と声を上げた。

 浩美の店は義秋にとってはそう珍しい光景では無い。しかしこの町ではこんな店もそう数がある訳ではなく、みんな楽しそうに若いホステスと話をしている。それを見ながら義秋は店の中を見ていた。原発の関係者らしき人物はそこには見当たらなかった。

「どげんしたと。好みの女の子でもおった」

 浩美は義秋に言う。

「いや。そんな事は良いんだ。俺は美味い酒が飲めれば…」

 義秋はグラスに口を付けた。

「寂しか事ば言わんと…」

 浩美は義秋に微笑んだ。その顔には幼い頃の浩美の面影があり、少しドキッとした。

「そう言えば、この間の外人…」

「ああ、ビスコ」

 浩美は光生が飲み干したグラスに酒を注いでいた。「ビスコはデリヘルの送りに行っとるとよ。今日はもう予約も無かけん、そろそろ帰って来る筈ばってん」

 義秋は脚を組んでソファにもたれた。

「そうか…」

「ビスコがどげんかしたと」

 浩美はドレスの前を抑えながら、光生の前にグラスを置いた。

「いや、こんな田舎じゃ、あんな外人珍しいからな…」

 義秋は浩美に微笑んで言う。

「何か公安の刑事もそげん事ば言うとったわ。どうせ不法滞在とかそげん事やろうばってんね…」

 浩美はレディースと呼ばれる小さめのグラスに付いた自分の赤い口紅を指で拭いて、テーブルに置いた。「ビスコは私ん中では合格点たいね。本人には絶対言わんばってんね」

 浩美はにっこりと笑って言う。

 義秋はその浩美に頷いた。

「若い男で、運転手したいって奴は結構来るとばってん、すぐにサボる事ばっか考えて、いい加減な事ばしよるとよ。ばってんビスコはその点、真面目でしっかりしちょる。昨日も市内で…」

 そう言い掛けた時に浩美を呼ぶ声がした。浩美は立ち上がって返事をする。「ちょっと待っちょってね…」

 浩美は席を立って、呼ばれたテーブルに移動した。

 義秋はグラスを持ったまま、周囲ではしゃぐ友人たちを見た。古谷旅館で騒ぐのとはまた違うはしゃぎ様だった。

 するとカウンターに座っていた貴志川和代が義秋の方へ歩いて来た。もう六十を過ぎているがしゃんと背筋を伸ばし高そうなスーツが似合っていた。

「木瀬さんですよね」

 和代は顔を義秋に近付けると、小さな声で言った。

「はい」

「木瀬鉄工の息子さんの」

 和代は義秋の横に腰を下ろした。

「覚えておられましたか…」

 義秋は組んでいた脚を解いて、小さく頭を下げた。

「覚えてますよ。お父様にも昔、お世話になりましたし、それに…」

 和代は義秋の耳元に口を近付けて、「浩美があなたの事、昔大好きでして、いつもあなたの話ばかりだったんですよ」

 義秋は照れて頬を緩めた。

「何時だったか、ライバルに負けたって泣いてた事がありましたわ…」

 和代は浩美と違い、綺麗な標準語だった。

「そうですか…。私は何も気付かなくて、鈍いんですよ…特に恋愛に関しては」

 義秋の空になったグラスを、和代は自然に取り上げて、向かいに座るホステスに渡した。

「それも聞いてますよ。あなたには面と向かって好きって言っても通じないかもしれないって…。あの子、真剣に悩んでましたから」

 和代は手で歯を隠して笑っていた。「ご結婚は…」

「いや…その鈍さが祟って、今も一人身でして…」

 義秋は目の前に置かれた水に色の付いただけの酒のグラスを手に取った。

「あら。浩美もまだチャンスあるんですね」

 和代は嬉しそうに声を上げて笑う。

「まあ、あまり結婚には向いてない仕事をしてますので…」

 義秋が微笑みながら言うと和代はそれに食い付く。

「どんなお仕事ですの」

「フリーライターです。世界中を飛び回って事件などの記事を書いてます」

 和代は少し動揺を見せる顔をした。すぐに誤魔化して笑顔を作っていたが、その顔を義秋は見逃さなかった。

「あら、じゃあ今回もお仕事で」

 和代はいきなり真相を突こうとした様だった。

「いえ…。今回は近くに仕事で来たので、そのついでに懐かしくなって寄ったんです」

 その義秋の言葉に、安堵した様に和代の顔に笑みが戻った。

「あら、そうでしたか」

 和代は自分のグラスに水を注いで丁寧にかき回す。そしてそれを一気に飲むと、「何時までこちらに住んでおられたんでしたっけ」

「私は高校を出るまでですね」

「それ以来、こちらには」

 義秋は和代に頷いて、

「はい。今回が初めてです。町も大きく変わりましたね…」

 そう言った。

「そうですね…。もう年寄りばっかりになってしまって」

 和代は店の入口に立っている客を見ながら言った。「済みません。少し失礼します」

 和代も義秋に断り、席を離れた。

「失礼します」

 義秋の横に若い女が座った。

「初めまして。レミと申します」

 女は義秋に名刺を出した。お世辞にも綺麗とは言えない、手書きで名前の書かれた名刺だった。

「ママの彼氏さんだったんですか」

 義秋はそのレミを見て笑った。

「違うよ。浩美は昔から人気があったんだ。浩美に言い寄られたら誰も断れなかったんじゃないかな…」

 義秋はグラスの薄い酒を飲む。

「そうですよね。今でも別嬪べっぴんさんですから、お店でもモテモテです」

 レミはニコニコと笑っていた。「オーナーも綺麗ですし。良く似てますよね」

 オーナーとは貴志川和代の事だった。早くに浩美に店を任せ、自分はオーナーとしてこの店とデリヘル…売春業を仕切っているのだろう。

「レミちゃん…」

 義秋は名刺を見ながら名前を呼んだ。

「はい」

 突然名前を呼ばれて、レミはきょとんとした顔で義秋の方を向いた。

「ここの方言が出ないね。何処の出身かな」

 義秋はグラスをテーブルに置いた。そのグラスの残りが少ないのを見て、レミはそのグラスに手を伸ばした。

「やだ…分かります。私は北陸出身なんですよ。ほら、この間政治家が殺された所。あの町の出身なんです」

 レミは義秋のグラスに酒を作り、グラスの周りをハンカチで拭いてコースターの上に置いた。「何か、私の行く所行く所に原発があって。可笑しいですよね」

 レミはそう言って笑った。

「原発か…。この店も原発のお客さんは多いんだろ」

 義秋はレミが酒を作ってくれたグラスに手を伸ばした。

「平日は原発のお客さんばっかりですね。他にする事の無い町ですから、単身赴任のお客さんはほぼ毎日ですね」

 レミは良く笑う子だった。少しハスキーな声が良く通る。

 義秋はそのレミに頷いた。

「実は…」

 レミは義秋の耳元に口を近付けて、「私、デリヘルもやってるんです。良かったらどうですか」

 小さな声で言う。

 良介の言う通りだった。店に出ている女の子はデリヘルもやっていた。しかも店の中で直接客引きまでしている。義秋は苦笑した。

「そうか。じゃあビスコにいつも送って貰ってるんだ」

 レミは自分のグラスの酒を飲みながら頷く。

「はい。ビスコさん、とっても良い人で、昨日も」

 レミはグラスをテーブルに置く。「昨日も、私に本番迫って来たお客さんが居て、そのお客さんから私を助けて、自分がそのお客さんにボコボコにされちゃって…。それでもお客さんだから手を出さなかったんですよ。一方的に殴られるだけで…。私は怖くて車から出られなかったんです。警察が来てお客さん連れて行っちゃいましたけど…」

 レミはニコニコと笑いながら言う。

「そうか。強い奴なんだな…」

 義秋が言うと、

「多分、ビスコさんは、かなり強いと思いますよ。昨日みたいなお客さんなら、十人くらいは簡単にやっちゃうんじゃないですかね…。」

 レミは細い腕で下手糞なシャドーボクシングをしながら言った。義秋もそれを見て微笑む。

「こら、レミ。ママの初恋の人ば口説かんといて…」

 そう言いながら浩美が戻って来た。

「ごめんなさい。ママ…」

 レミはそそくさと、向かいの空いた席に移動した。浩美は義秋の首に腕を回して横に座った。

「忙しそうだな…」

「もう空いて来る頃たい。都会と違って始まりも早かばってん、終わりも早かとよ」

 浩美は歯を見せて笑う。そして義秋のグラスを取り、グラスの周りの水滴をハンカチで拭いた。「何…こん町に原発の記事ば書きに来たとね…」

 浩美は意味深な笑みを浮かべた。

「有名なフリーライターさんが、こげな町に他の用事は無かろうが…」

 浩美は義秋にグラスを渡す。

「懐かしくて寄っただけだよ」

 義秋は浩美から視線を外して、うんざりしながら言った。

「あら、そうやったと…。何ね…一晩相手してくれたら色々と教えちゃろうと思うとったとに…」

 浩美は悪戯っぽく笑う。

「勘弁してくれよ。浩美の一晩は高そうだからな…」

 義秋はグラスの酒を煽る様に飲む。

「私ば一晩抱いたら、一生面倒見てもらうけんね」

 浩美は真剣な顔で言い、その後すぐにクスクスと笑った。義秋はそれを見て苦笑した。

 誠二はかなり酔っているらしく、女の子の胸に顔を埋めて既に眠っている様だった。

「セージはいつもあんな感じか」

 義秋は浩美に聞いた。

「アヤはセージのお気に入りやけんね。いつもお持ち帰りたいね…」

 義秋は誠二がノリノリでここまで来た事の理由が分かった。

「飲んだ後も、別のサービス付きか…」

「そう。取りこぼし無かとよ」

 浩美は唇を歪めて言った。

「他の連中も大体そうなのか」

 政典も光生も良介も、同じ様に女の子とベタベタとくっ付いていた。

「マサはあんまり来んばってん。来たらそうかもしれんね」

 浩美は義秋の首に腕を回した。「今日も多分、みんなどっか消えよるったい。だけん、ヨシアも…」

 耳に掛かる浩美の吐息で、全身に鳥肌が立つ。

「お前も客取るのか…」

 義秋は仕返しに浩美の耳に息を吹き掛ける様に言う。浩美は身体を縮こまらせて、

「まさか…。ばってん、ヨシアなら良かよ…」

 浩美の本気か冗談か分からないその言葉に、義秋はぎこちなく微笑んだ。

 義秋は店の入口に新たな客が立っているのが見えた。

 あれは…。

 見覚えのある顔だった。

 浩美もそれに気付いて立ち上がった。

「ヨシア、ちょっとだけごめんね」

 浩美はその客の方へ足早に向かう。何を話しているのかは分からなかったが、その客を連れて義秋たちとは逆のボックス席に向かった。

 明らかにカタギの客ではない。兄貴分と若い男が二人着いて行った。

 義秋の横には、再びレミが座った。

「レミちゃん…。今入って来た人…」

 義秋は小声でレミに訊いた。

「ああ…あれは、樟葉会の竹本さん」

「樟葉会」

「うん。地元のヤクザ屋さん」

 竹本…。

 その名前に記憶が無かった。しかし見覚えがある顔の様な気がした。

 良介に付いていた女がその竹本の席に移って行った。良介はつまらなそうな顔をして、義秋の傍にやって来た。

「ヨシア。飲んでるか」

 良介もかなり酔っている様子だった。

「ああ、飲んでるよ」

「女に逃げられたよ」

 良介はそう言って笑う。

 竹本の方を見ていた義秋に、

「あれは樟葉会の竹本利一だな。十年程務所に入ってて、出て来た後、樟葉の会長に拾われたらしい。ああ見えて武闘派の頭だ」

 良介は自分の知っている情報を口にした。

「トシカズ…」

 義秋はその名前を呟いた。

「何だ知ってるのか」

 良介は薄くなった水割りを一気に飲んだ。

 幼い頃に恐れ戦いたトシカズ兄ちゃんだった。

「おい、セージ」

 義秋が誠二に声を掛けると、女の子のドレスの胸の中を覗き込んでいた誠二が、色惚けた顔で振り返った。

「何ね…」

 義秋が手招きすると誠二は、政典と光生の前を超えてやって来た。

「一番向こうの席見てみろ…」

 義秋は気付かれない様に指を指した。誠二は背伸びをして竹本の席を覗き込む。

「おーおー。トシカズ兄ちゃんか」

 良い具合に酔った誠二は大声で言った。その声に竹本は気が付いて、鋭い目つきで義秋たちを見た。そして誠二に気が付いた様だった。竹本はにやりと笑って手を挙げた。

「ちょっと行って来る」

 誠二は義秋の前を擦りぬけて竹本のテーブルへ向かった。

 誠二は頭を下げて竹本と話していた。かなり太ってはいたがイメージは変わって無かった。やたらと片方の目だけ瞬きしながら喋る癖があり、よく誠二が真似をしていたのを思い出した。中学もほとんど行かずに親父の船に乗って仕事を早くから手伝っていた。その後ヤクザになったという事は聞いていた。

「ヨシア」

 竹本の傍にいた誠二が義秋を呼んだ。そして手招きする。

「ちょっとごめん」

 義秋はレミの前を通り、竹本のテーブルに向かった。

「ご無沙汰してます」

 義秋は竹本に頭を下げた。竹本も口を歪めて歯を見せた。今どき珍しい金歯が光った。

「ヨシアか。もう立派なオッサンたいね」

 竹本は義秋の腕を叩いた。義秋も微笑んだ。「お前の事は何故か覚えとるったい」

 しゃがれた声で竹本は言って、水割りを飲んだ。そして少し咳込んだ。

「大丈夫とね…」

 誠二は竹本の背中をトントンと叩いた。

「ああ、大丈夫」

 竹本は手を挙げて、誠二に言う。「もう長ごう無かけどね」

 義秋と誠二は顔を見合わた。

「癌って言われたとよ。センターの先生に」

 竹本はにやりと笑う。「どうせ死ぬなら最後まで楽しみたかけんね…。ほら、お前ら、座らんね…」

 そう言って横の席に座っていたホステスを奥に押しやった。そこに義秋と誠二は無言のまま座った。

「今まで散々親不孝して来た罰が当たったったい。数え切れん程親ば泣かして来たけんね。俺が死んだら清々するやろ」

 竹本は小さく咳をしながら言った。「いつか刺されて死ぬやろうと思っとったばってん、癌で死ぬとはな」

 何処か寂しげな声で優しく笑って言った。

「トシカズ兄ちゃん…」

 誠二は眉を寄せて言う。「手術ばしたら、治るっちゃ無かとね…」

「もう手遅れらしか…」

 竹本は誠二の肩を叩く。「死ぬとは怖く無かとよ。だけん覚悟も出来とる。心残りはヤクザとして名前ば残せんかった事かいの…」

 竹本の笑顔はやけに落ち着く笑顔だった。死を覚悟するという事は、そういう事なのだろうか。義秋にはそんな竹本の姿が大きく見えた。

 その時だった。

「竹本」

 店の入口の方から大声で叫ぶ声が聞こえた。

 義秋がその方向を見ると、鈍く光る短刀を握った男が肩で息をしながら立っていた。その様子を見て店の中は騒然とした。ホステスたちは恐怖の声を上げて店の隅に逃げる。

 入口からビスコが掛け込んで来た。

「動くな、じっとしてろ」

 ビスコはそう言われて両手を挙げた。

「ちっ、こんな所まで押しかけて来やがって…」

 迷惑そうに竹本は言うと、グラスの酒を一気に飲み干した。そしてゆっくりと立ち上がって、上着の前を開いた。

「やれよ…チンピラ」

 竹本は上着の前を開いて立った。その貫禄はやはりヤクザだった。義秋はじっとそのチンピラを睨む。身体を震わせ、じりじりとつま先を深いカーペットの上に泳がせている。

 一人のホステスがまた声を上げると、一瞬そのチンピラはそのホステスの方を見た。

 義秋はその瞬間を見逃さなかった。テーブルの上にあったミネラルウォーターのボトルを思い切り投げた。

「ビスコ」

 ビスコに向かって、そう叫びながら…。

 そのボトルをビスコは上手く掴んで、そのままそのチンピラの後頭部に振り下ろした。

「うっ…」

 そう短い声をあげて、そのチンピラはその場に崩れ落ちた。周囲には何が起こったか分からなかったかもしれない。ビスコはチンピラの持っていた短刀を奪ってカウンターの上に置いた。

「どげんしたと…」

 誠二はゆっくりと義秋の方を見た。

 義秋は誠二に微笑んで、竹本に歩み寄った。

「大丈夫ですか」

 竹本は義秋を鋭い目付きで見た。

「ヨシア、お前…」

 竹本は何かを言い掛けて止めた。そして上着の前を閉めた。「ありがとう。予定より早死にするところやったとばい…」

 竹本は義秋の肩に手を乗せる。

「どの道、アイツには刺せなかったかもしれませんけどね…」

 義秋は微笑んで言った。それに竹本も微笑む。そして一緒に来ていた若いヤクザに命令し、床に倒れているチンピラを運び出した。

「今日は帰るけん…」

 竹本は義秋の横に居た浩美に言う。浩美は無言で頷く。

 竹本は財布から札を取り出して、浩美に渡した。

「迷惑料たい。済まんかったな…。こいつらの分も俺が払っとくけん」

 竹本は義秋を見て微笑んだ。「ヨシア。ありがとうな」

 そう言うと竹本は出て行った。

 浩美と和代は各テーブルを回りながら頭を下げていた。

 義秋はそれを見てビスコに歩み寄る。ビスコはカウンターの上のグラスを片付けながら、義秋に気付く。

「グッジョブ」

 義秋はビスコに手を肩の高さで差し出した。ビスコもその手を握った。

「あなたも…」

 ビスコは白い歯を見せて笑った。

 義秋が思い切り投げたボトルはちょうどビスコの手の高さに飛んだ。そしてビスコもそのボトルの口を掴み、振り下ろした。何処にも無駄の無い動きだった。そして確実にそのボトルはチンピラの後頭部を捉え、崩れ落ちた。

 相当な訓練を受けた者の動きだ…。

 良介はじっとビスコを見ながら考えていた。

「今日は帰るか…」

 誠二がそう言って立ち上がった。

「そうたいね…」

 政典は完全に呂律ろれつが回って無かった。

「浩美、代行ば呼んで」

 誠二はニコニコ笑いながら言った。

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