第7話 三村

 訪ねて来た良介と智子も加わり、義秋の部屋では大宴会が続いていた。その盛り上がりは、光生が依子にプロポーズしたのがきっかけだった。二人を祝福する声は止む事も無く、妊婦である依子ただ一人が素面しらふのまま付き合っていた。それに気が付いた義秋は、依子を窓際の椅子に座らせた。

「二人でゆっくりしたかったでしょ…」

 義秋は依子に熱いお茶を出した。

「いえ…。楽しいので、大丈夫ですよ」

 依子は手で口を隠して笑った。

「俺たち流の祝福の仕方なんだよ。下手すりゃ一晩続く…」

 義秋は窓の外を見ながら言った。

「一晩ですか…」

 少し困った顔をした依子を見て義秋は笑った。

「適当な所でミツオの部屋に移動して。ミツオは責任を持って連れて行くから」

 その言葉に依子は微笑んで頷いた。

「おいおい。ヨシア。人の嫁、口説いてるんじゃないだろな…」

 かなり飲まされて酔った光生は義秋を指差して言う。

 その光生を見て、義秋と依子は笑った。

「ああ…ヨシアならやりかねん」

 良介もかなり酔っていた。良介は政典や誠二、光生とは学校は違ったが、智子と結婚した時に知り合い、知らない仲では無かった。

「アンタやかましかね…。黙っとき」

 智子が良介を引っ張って座らせた。

「もう滅茶苦茶だな…」

 少し酔いを冷ましたかった義秋は、一人部屋を出た。

 ロビーへ行き、冷えた缶コーヒーを自動販売機で買い、ソファに座った。泊っている釣り客も既に寝ている様子だった。

 タバコを吸いながら缶コーヒーを一気に半分程飲むと窓の外に目をやった。目の前には繋がれた漁船が波に揺れている。その光景も、義秋が幼い頃、毎日見ていたモノだった。小さな町で生まれ育ち、その世界で生きていくモノだと思っていた。しかしそれはある日、大きく変わった。こんな風に騒げる友人が誰もいない土地へ移った。大学へ行き、もちろん友人は出来た。しかし、幼い頃に一緒だった友人とは少し違っていた。その違和感を引き摺ったまま、義秋は大人になった。ある出版社に入社した時もそうだった。一緒に仕事をして、飲み歩いた事ももちろんある。だが、それは今、こうして騒いでいる仲間とはやはり何処か違っていた。

 この町に俺のすべてがある…。

 義秋はそう感じていた。自分の中で止まっていた時間の様なこの風景は、義秋を待っていたかの様に動き出していた。

缶コーヒーを一気に飲み干して、ソファにもたれる。

「ヨシア…」

 氷の入ったグラスと焼酎のボトルを持って良介がやって来た。「一人で何やってるんだよ…」

 義秋の横に座り、二つのグラスに焼酎を注いだ。

「酔い冷ましだよ…」

 義秋は灰皿にタバコを押し付けた。「お前、何か話があったんじゃ無かったのか」

 良介は虚ろな目を義秋に向けた。

「ああ…」

 そう言うと焼酎の入ったグラスに口を付けた。「見た目程酔っちゃいない。後で話そう…」

 良介はニコニコと笑って、義秋の前にグラスを滑らせた。

 義秋はそのグラスを取り、カラカラと氷を鳴らす。

「この町も変わらないな…」

 良介は窓の外を見て言った。

「ああ…。気持ち悪い程に変わらんな…」

「フェリー乗り場の近くに、親父の妹が嫁いだ家があってな…。幼い頃からこの町には良く遊びに来てたんだ…」

 そう言うとグラスを口に付けたまま、フェリー乗り場のあった場所を見ていた。「綺麗な海だったな…。海の底がいろんな色に輝いて、波に揺れて、幻想的だった」

「お前も、そんな詩人みたいな事言うんだな」

 義秋は良介を茶化した。

「お前ほどじゃないけど、俺だってジャーナリストだ。モノ書きの端くれだよ」

 酔った良介は、にやりと笑う。そして再びフェリー乗り場の方を見た。そしてそのままグラスの焼酎を飲み干した。

「なあ、ヨシア…」

 良介は振り返ると、テーブルの上に空になったグラスを叩き付ける様に置いた。

「何だ」

 義秋も手に持ったグラスを置く。

「お前…やっぱり書くのか…。原発を」

 良介は座った目で義秋を見上げる様に見た。

 義秋は鼻で笑い、良介の目を睨む様に見る。

「良いか、良介…。俺が書くのは原発じゃない。真実だ。この町に生きる人たちの真実を書きたいんだ」

 その言葉に良介はクスクスと笑いソファにもたれた。

「真実なんてよ…。何処にも存在しないよ。誰かの都合で捻じ曲げられて、色塗られて、形変えられて、原型がどんなだったかなんて誰も覚えちゃいない。そんなモノ書いて、どうしようって言うんだよ」

 義秋はゆっくりと目を閉じた。

「なあ、良介…。それでも曲がらない、染まらない、形も変わらない、そんなモノを抱えて生きている人がこの町には大勢いる。それに気付いたんだよ。だからこそ、この町は変わらないんだってな…」

 目を開けると良介は義秋から目を逸らしていた。

「それを書いて、この町の人々は幸せなのか。本当に今より幸せになれるのか」

「それは分からない。だが、事実を世の中に知ってもらう事が、この町の混沌こんとんを消し去る事のハジマリになるのなら、俺は意味があるモノになると思っている」

 それを聞いた良介は笑っていた。

「お前の書いたフクシマの記事、読んだよ。何にも飾らない、あそこで生きる人の声だった。死ぬのをあの場所で待っているんじゃない。明日を信じてそこで生きているんだっていうお前の言葉に感動したよ。そして、この町を思い出した。この町の人々も、ここで死ぬのを待っている様に…、俺には見えた。いや、そうとしか見えなかった。けどそうじゃない。ここで明日を生きようとしているんだ」

 良介は焼酎のボトルを取って、空のグラスに注いだ。「それがお前には見えて、俺には見えなかった」

 良介は再び義秋を睨む様に見た。

「何が違うんだろうな…。お前と俺は…」

 そう言うとグラスの焼酎を煽った。


 向井はカウンターに座り、グラスを揺らしていた。その琥珀色のバーボンを丸い氷に少しずつ融かし、唇を湿らせる様に飲んだ。

「向井さん。今日は何ば調べに来たと」

 カウンターの中で浩美が半ば呆れ顔で言った。

「別に…。ただ飲みに来ただけだよ」

 向井は歯を見せて笑った。

「こげな田舎町まで、わざわざ飲みに来んでも良かやなかね…。街にはいっぱい飲み屋もあるとに…」

 浩美は向井の前に肘をついた。「率直に聞いてくれたら何でも答えるとばい」

 浩美はタバコを咥えて火をつけた。暗い店の中に紫色の煙が漂う。

 週末のこの店は、いつもより賑わっている様子だった。平日は原発の関係者が多い店も、週末には地元の人間が増える。原発に単身赴任で来ている職員は週末を利用して自宅に帰る。だから週末は店から原発の関係者が消えるのだった。

「ビスコ…」

 向井はそう口を開いた。

「ああ…ビスコがどげんしたと。何かやらかした過去でもあると」

 浩美はタバコの煙を吐きながら言う。

「いや…。こんな田舎にビスコンティって外人が居るって聞いたからさ…。どんな奴かと思ってね…」

 向井はグラスの中の薄くなったバーボンをまた一口飲んだ。

 浩美は身を乗り出して、向井に顔を近づけた。

「誰から何ば聞いて、ビスコば調べとるんか知らんばってん、向井さんが調べないかん様な男じゃ無かよ…あん男は」

 向井はゆっくりと顔を上げた。

「いっちょん使えんと…。鈍臭かし、モノ覚え悪かし、遅刻はするし。何も出来んとよ」

 浩美は向井に吐息が掛かる距離で言った。「無駄足たいね…。帰って偉か人にもそう報告ばしとき…」

 そう言うと、向井の前に伝票を千切って置いた。

「夜はデリヘルのオクリばしちょるけん、店に来ても会えんったい。街におる方が会えるっちゃなかかね」

 向井は微笑んで、カウンターに一万円札を出した。

「釣りは情報料だ…。ありがとう」

 そう言うと立ち上がった。

「お客様お帰りです」

 浩美は声を張り上げて言った。

 向井が店を出ると数名のホステスが見送りに出て来た。

「向井さん。ありがとね…。また来て」

 浩美は頭を下げた。

 それを見て苦笑し、向井は歩き始める。店の角を曲がった所に国見が車を停めて待っていて、そのドアを開けて、車に乗り込んだ。

「どうでしたか」

 国見は冷え切った車内で、缶コーヒーを握りしめ、手を暖めていた。

「ビスコは使えない鈍臭いやつだと…」

 向井はシートに沈む様に腰を引いた。「署に戻って、飲み直しに行くぞ…」

 国見は車のエンジンをかけた。

 考え過ぎなのだろうか…。

 車窓から流れる田舎の風景を見ながら、向井はそう考えた。

「本当に「フライ」は、この町に来るんですかね…」

 国見はハンドルを切りながら向井に訊いた。

「さあな…。取り越し苦労かもしれんが、再稼働が濃厚なのは、この原発だと噂されている以上、可能性がゼロとは言えん」

 向井はポケットからタバコを取り出し、咥えた。

「あ、向井さん。この車両、禁煙車です」

 向井は国見の横顔を見て小さく舌打ちしするとタバコを包みに戻した。

「すみません。今日は、この車両しか空いてなくて…」

「良いよ。命かけて市民を守っている俺たちに、タバコも吸わせないっていう警察がどうかしてるんだ…」

 向井は再び、外を見た。小さな山の影に月明かりに光る海がちらほらと見える。「それで無くてもこんな田舎に配属されて、何にも公安らしい仕事もない。警備、警備ってそれなら警備員で良いんじゃないのかって、毎回思うよ。税金泥棒って良く言われるが、アレも間違って無いかもしれんな…」

「はあ…」

 国見はいつもに増してやさぐれる向井に、どう返事をすれば良いか困っていた。

「国見…。お前、出身は何処だっけ」

 窓の外を見たまま、向井は国見に訊いた。

「私は東京です。八王子…ですけど」

 申し訳なさそうに国見は答えた。「向井さんは確か…」

「ああ、横浜だ。国家公務員になった時は、東京勤務だと信じて疑わなかったよ。それが研修が終わると、いきなり地方勤務だ。東京勤務なんて一生無いのかもしれん。こんな田舎じゃ大きな事件も起きん。あっても合同捜査で遣いっ走りが良いところだ…。そんなんじゃ中央勤務は夢のまた夢だ」

 向井は国見の横顔に語りかけた。「まあ、ここも嫌いじゃ無いんだがな…」

 車は山道を抜けて、市街地へ出て来た。この辺りから街の中心街までは、十分と掛からない小さな街だった。

 別にこの街を抜け出したいと思っている訳では無かった。しかし、同期で入省した奴らはみんな出世していた。

 もし、フライが三村健三を狙っているとしたら…。

 正直、そう考えると胸が躍った。今まで視察に来る大臣などの警備が主な仕事だった。それほどにこの街は、平和で何もない街なのだ。

「向井さん…。アレ…」

 国見が、あるマンションの前でもめている数人の男を指差し、ハザードを出して車を道の脇に寄せて停めた。

 向井はその男たちをじっと見つめた。

 そして、車を降りようとする国見を手で止めた。

「向井さん…」

 瞬きも忘れて、その男たちを見ている。怒鳴り散らす白いジャージ姿の若い男と、土下座している…黒人の大柄の男。そしてその黒人を蹴り回す二人の男。

 向井は、そのすぐ傍に停められた、黒のワンボックスカーを見た。

「国見…。あの車、貴志川のデリヘルの車か…」

 国見は覗き込む様に、その車のナンバーを見た。そして無線を取った。

「車両照会お願いします」

 自分の横で、車両照会をしている国見を横目に、向井はじっとその黒人を見た。何度も何度も若い男たちに頭を下げて、土下座していた。何度も蹴られてよろけるが、すぐに土下座の姿勢に戻り、頭を下げている。距離があり良く分からないが、額が切れて流血している様にも見えた。

「向井さん。間違いありません。貴志川の車です」

 国見がそう言うのと同時に、向井は車を降りて颯爽と歩き出す。国見もすぐに後を追った。

 向井は、その黒人に容赦なく蹴りを入れる若者の肩を掴むと、思い切り殴った。若者はその向井のパンチで数メートル飛ばされた。

「何だこら」

 もう一人の若者が向井に殴りかかる。そのパンチを交わすと向井の拳は、その男のこめかみにヒットした。男はその場に崩れ落ちた。

「何ね…。オッサンには関係なか。向こう行けや…」

 白いジャージの男は、向井の顔の前に自分の顔を近づけて言う。その男の額に思い切り頭突きを入れると、その男もあっけなく気を失った。

「意外に呆気ないな…」

 倒れた男を見てそう言った。

 そして国見に支えられて立ち上がった黒人の男に近寄った。

「大丈夫か…」

 向井はその黒人の男、ビスコンティに言った。

「すみません。助かりました…」

 ビスコは何度も、向井と国見に頭を下げた。

「ロデオ・ビスコンティさんですよね」

 向井がビスコにそう言うと、ビスコは一瞬動きを止めた。そして、

「誰ですか」

 そう訊いた。

 向井はポケットから警察手帳を出して開いて見せた。続けて国見も手帳を出した。

 ビスコは額から流れる血を気にしながら頭を下げる。

「どうしたんですか」

 倒れた男たちを見ながら国見がビスコに訊いた。

「いや…。女の子に本番迫ったんで、それを止めに行ったらこんな事になって」

 ビスコの服はあちらこちら汚れていた。その汚れを国見は手で叩いて落とした。

「良い身体してるのに…」

 向井はビスコの背中を叩いた。「やられっ放しでしたね」

「あんまり喧嘩とか好きじゃ無くて…」

 ビスコは頭を掻いた。

 その様子を見て、向井は笑った。

「こいつらは警察で預かります。貴志川さんには、こちらからも連絡入れておきますので、また後日、署の方に来てもらう事になるかもしれませんが…」

 向井はビスコに頭を下げた。「何かありましたらいつでも警察へ連絡下さい。若い奴らは何をするか分かりませんので…」

 ビスコは深々と頭を下げて、車に乗り込んだ。国見は覆面パトカーに走り、無線で応援を呼んだ。


 義秋と良介は、古谷旅館の大浴場にいた。いつもの様に散々飲んで、政典と誠二はフラフラと帰って行った。光生は依子と部屋に戻り、節子と智子は部屋を片付けると言い、半ば強制的に二人は風呂に入らされた。

「お前らって、いつもあんな飲み方してるのか…」

 良介は頭を洗いながら、湯船に入っている義秋に訊いた。

「いや…。今日はミツオの結婚の話があったから特別だ。まあ、普段もそんなに変わらん気もするけどな…」

 義秋は天井を見て言う。

「あれじゃ、身体壊すぞ…」

 良介は頭の泡をシャワーで流しながら言う。

 義秋はその言葉に微笑んだ。

 良介が湯船に入って来る。

「いや…俺も久々に、結構飲んだよ…」

 そう言うとお湯をすくって顔を洗った。

「ああ…目が座ってたぞ」

 義秋は浴槽の淵に両腕を広げて、再び天井を見上げる。

 その近くに良介が寄って来た。

「なあ、ヨシア…」

 その声に義秋は良介に視線を戻す。「お前、「フライ」って殺し屋の話、聞いた事無いか…」

「フライ…」

「そうだ。フライだ」

 義秋は思い出した様に顔を上げた。

「先日、街でセージ…。山城と天ぷらを食った時に、隣の席の二人組がそんな話をしてたな…。あれは刑事だろうな…」

 その話を聞いて、良介は向井と国見だろうと分かった。

「それは多分、公安の刑事だろうな…」

 良介は義秋の隣に座った。「いや…。世界中を飛び回るジャーナリストのお前なら、何か知ってるんじゃないかと思ってな…」

 義秋は頬を緩めて良介を見た。

「知ってるよ…」

 そう言う義秋に、食い付く様に良介は勢いよく身体を向けた。

「名前は「フライ」本名不詳、国籍、性別、年齢不詳。元フランスの外人部隊出身で、腕の良いスナイパー。数百メートル離れた所から、飛んでいる蝿を撃ち落とす事が出来る事からフライという名前が付いた。世界中で高額の報酬と引き換えに殺しを引き受けて、一片の証拠を残す事も無い。したがってすべてが謎のまま」

 義秋は良介に微笑む。「俺が知っている事は、お前や公安の刑事が知ってる事と変わらない筈だ」

 義秋は顔を洗う。

「貴志川の店…。あそこにビスコンティというジャマイカ人が最近雇われた。そいつがフライじゃないかと、公安も俺も睨んでいる」

 良介は窓の外を見た。

「ビスコか…。俺も会ったよ。途中のコンビニで。浩美と一緒だった」

「会ったのか…」

「ああ…。けど奴は違うんじゃないかな…。タバコの銘柄も覚えられん程、かなり鈍臭い奴だったよ」

 義秋は湯船から出た。「先に出るぞ…。今度はお湯に酔ってしまいそうだ…」

 そう言うと大浴場を出て行った。


 義秋はロビーで缶コーヒーを買って、ソファに座った。良く冷えた缶コーヒーを風呂上がりに飲むのが好きだった。義秋は喉を鳴らして缶コーヒーを一気に飲んだ。そして空き缶をテーブルの上に置くと、タバコに火を付け、大きく息を吸い込み、吐き出した。

 長い一日だった…。

 義秋は目を閉じる。

「木瀬さん…」

 そう声がして、義秋は目を開けた。そこには依子が立っていた。

「ああ…依子さん」

 義秋は慌ててタバコを消した。

「すみません。気を使わせてしまって」

 依子は頭を下げた。

「いえ…。どうぞ」

 義秋は、自分の向かいのソファを依子に勧めた。

 依子は小さく頭を下げて座った。

「ミツオは」

「酔っ払って寝てます」

 そう言うとクスクス笑った。「あんな先生、見たの初めてで…」

 義秋は依子に微笑んだ。依子がそう言う顔が幸せそうに見えた。

「あ、それと…」

 依子は立ち上がって、深々と頭を下げた。「ありがとうございました」

 義秋は不思議そうな顔をして、

「何が…」

 と訊く。

「風評の件ですよ…」

 光生と誠二がもめた事で、依子と節子を傷つけた事は事実だった。

「それはこっちが謝らなければいけない事だよ…」

 義秋は頭を下げた。「本当にごめんなさい」

「止めてくださいよ」

 依子は慌てて手を差し出す。

 義秋がゆっくりと顔を上げると、依子と目が合った。二人はクスクスと笑った。そして笑いながらソファに座る。

「でも…」

 依子の言葉に笑いが止んだ。「あの話は私たち医者も百パーセント否定は出来ないのが事実なんです」

 義秋は無言で小さく頷いた。

「単なる風評被害では無く、事実ある事なんです。だから安西先生も、あんな事言ったんだと思います」

 依子の目は何かを訴える様に、強く輝いていた。

「俺も、色々と聞いた。この町の事は…」

 義秋は脚を組んで、ソファにもたれた。

「安西先生がいつも口癖の様に、俺たちのやっている事は、あくまでディフェンスの一部であって、決して解決では無い。って言うんです。その意味も分からないままに、私も患者さんを診て来ました。確かに私が赴任してから数年で、患者さんの数も数倍に膨らんでいます。もちろん産科の方で起こっている事も、同様だと考えられます。センターに産科はありませんが、街の産科で起こっている事実は、表に出ない話を含めると、いわゆる「奇形児」と言われる新生児は、かなりな数になるのでは無いかと思われます」

 依子は目を伏せた。

 義秋は口の中に溜まる唾液を飲むのも忘れて依子の話を聞いた。

「依子…」

 柱の陰には光生が立っていた。

「ミツオ…。大丈夫か」

「ああ。ちょっと調子に乗って飲み過ぎたな。もう大丈夫だ…」

 そう言って依子の横に座った。「その話の続きは俺がする」

 光生はテーブルの上に、大判の封筒を置いた。

 義秋はその封筒を手に取って中を見た。中には十数枚のワープロで打たれたレポートが入っていた。

「市内で産婦人科をやっていた川副かわぞえ医師の書いたレポートだ。その文書は俺たちの世界では『K文書』と呼ばれて、秘密裏に流れている。依子も名前は知ってても内容までは知らないだろ…」

 依子はコクリと頷いた。

「川副医師はそれを書いた直後に、医院を廃業した。医療ミスをでっち上げられて廃業に追い込まれたんだ。しかしそれに書いてある事は事実だ。目を疑う様な事が書いてある」

 光生は立ち上がって自動販売機で缶コーヒーを立て続けに数本買った。それを抱えて依子の横に戻って来た。

 義秋はレポートを捲り、真剣に読み始めた。

 光生は義秋と依子の前に缶コーヒーを静かに立てた。

「それを公表しない様に、圧力をかけたのは間違い無く政治家だ。原発とは切っても切れない仲だからな…。『K文書』のオリジナルは多分、何処かの政治家が持っている。川副医師が政治家に直接渡した筈なんだ。その政治家が、今となっては誰なのかもわからん。そして、川副医師も今は何処にいるのかも…」

 義秋は眉を寄せて光生の話を聞く。

「川副が『K文書』を渡して直談判じかだんぱんしたのは三村健三だよ」

 首からタオルをかけて良介がロビーにやって来た。

「井崎…」

 光生は良介を見て驚いた。「聞いてたのか…」

「済まん。聞こえてしまった」

 良介は義秋の横に座り、義秋から『K文書』を引っ手繰る様に取った。そしてパラパラと捲り、

「しかし、実際に存在したんだな。『K文書』ってやつは…」

 良介はレポートを義秋に返した。「数年前に噂になったんだよ。俺たちの間でもな」

 良介は濡れた頭をタオルで拭いて、光生の前にあった缶コーヒーを一本取った。「貰って良いか…」

「ああ…」

 光生は頷いた。

「もちろん噂だけだ。医者って職業は守秘義務ってのに慣れた職業だ。仲間内から出さないって意識が誰よりも強い。もちろん金を積めば出してくれる奴もいるんだろうが、この町の医者や市内の医者は川副の様になりたくないからな…。誰も教えちゃくれなかったよ」

 良介は缶コーヒーを飲んだ。「その内にそんなモノは忘れられて行く。今じゃ誰も噂にもしない。俺みたいに普通の新聞社に勤める奴には重すぎるネタだしな…」

 良介は膝に肘をついて身を乗り出す。

「なあ、ヨシア。お前なら書けるか…」

 良介は頭だけを義秋の方へ向けて言った。

 義秋は手に持ったレポートをテーブルの上に置いた。

「どうかな…」

 義秋はソファに深く座り直す。「書いても載せてくれる本があるかどうか…。それが一番大きな問題なんだよ。海外メディアに載せようとしても、日本が国を挙げて阻止しようとする。それ程に今、原発ネタは規制されている。三村健三だけじゃない。日本中に原発に絡んだ政治家が、大勢居るんだ」

 義秋も自分の前にあった缶コーヒーを開けた。

「なあ良介…。三村健三に会えないか…」

 義秋は良介に言った。

「会えない事は無いが、三村から何か聞き出す事なんて不可能だぞ…」

「そんな事はわかっている。ただ話がしたいんだ…」

 義秋は缶をテーブルに置いた。「出来れば今は、節子に知られずに会いたい。頼めるか」

 三村健三は節子の父親だった。節子を傷付けずに三村と決着を着けたい。義秋はそう考えていたのだった。あの日の三村の声を今でも思い出す事があった。まだ高校生だった義秋には、ただ一方的に大人という権力を見せつけられた気分だった。


「義秋。電話ぞ」

 祖父が義秋を大声で呼んだ。

「誰から」

 義秋は階段を降りながら祖父に訊いた。

「三村さんって人」

 祖父はそう言うと縁側に座って、碁盤に向かった。

 節子からの電話だと思い、義秋は玄関の横に置いた黒電話に急いだ。

「はい、もしもし」

 義秋はオルゴールの上に置かれた受話器を取った。

「木瀬…義秋君かな…」

 その声は節子では無く、男の声だった。

「はい…」

 義秋は困惑しながら答えた。

「私は節子の父だ」

 そう言われて、義秋は頭が真っ白になった。

「君と節子が、交際している事は知っている」

 三村は静かに言った。

「はあ…」

「率直に言おう。節子とは別れろ」

 三村のその言葉に、義秋は目の前が今度は真っ暗になるのを感じた。

「節子はお前みたいな鉄工所の子倅こせがれには相応ふさわしく無い。あの子はもう嫁にやる先が決まっているんだ」

 高校生の義秋には、瞬時に理解出来ない話だった。

「どういう事ですが…」

 声を絞り出す様に義秋は言った。

「お前なんかが知る必要は無い。それに…」

 三村はそこで咳をした。「それに、お前は学校を出たらこの町を出て行くのだろう」

 小さな町に住む者同士だった。義秋の事など、誰に訊いてもわかる事だ。三村も自分の娘が交際している相手の事を誰かに聞いたのだろう。自分の事を知られているという不快感が義秋に容赦無く纏わり付く。義秋は眉を寄せて、手に持った受話器を強く握り直した。三村が言った「この町を出て行く」事を否定出来ない事にも焦燥感を覚えた。

「とにかく別れろ。もちろんタダで別れろとは言わん。節子を傷付けん様に別れてくれ」

 三村は電話を荒々しく切った。

 義秋はしばらく受話器を持ったまま、その場に佇んでいた。ふと我に返り、受話器を電話に置いた。するとすぐに、また電話が鳴った。

 義秋はその電話を無意識に取った。

「はい…」

 義秋は名も名乗らずに、受話器を耳に当てていた。

「木瀬さんのお宅ですか…」

 その声は節子だった。いつもと変わらない明るい声だった。

「節子…」

「あ、何ね…ヨシア」

 節子は笑いながら言う。「声の暗かけん、誰かわからんかった」

 三村は節子には話していない様だった。

「うん…。大丈夫よ。どげんしたと」

 義秋は声のトーンを上げて言う。

「うん。お父さんがね…」

 節子の「お父さん」という言葉に、反応せずにはいれなかった。

「お父さん…」

「うん。お父さんが役場で枇杷びわば、ようさん貰って来たとよ。ヨシアんとこにも持って行けって言うけん、今から持って行くけん」

 節子の親父があの話の後、節子に枇杷を持って来させる…。ここで別れ話をしろと言う事なのだろうか…。義秋の胸は押し潰されそうだった。

「ああ。途中まで行こか…」

「良か良か。どうせそっちの親戚の家にも行くけんが、後で行くわ」

 節子はそう言うと電話を切った。

 義秋は縁側で一人、碁盤に石を並べる祖父の横に座った。

「なあ、じいちゃん…」

 義秋が祖父に声を掛けると、祖父は下にずらした老眼鏡の上から義秋を見た。

「何ね…」

 義秋は、祖父と目を合わせる事無く、理解出来ない碁盤の石を見つめて言った。

「俺、高校ば出たら、やっぱ関西行かないかんかな…」

 祖父は、視線を碁盤に戻し、白い石を打った。

「行きとう無かか…」

 祖父はそう言う。

「わからん」

「どげんでん良かばってん…。こっちにおったら大学も行けん。仕事も無かとぞ…」

 祖父が今度は、黒い石を心地良い音を立てて碁盤に打ちつけた。「とうちゃんもかあちゃんも向こうで待っとらすっちゃけん…。行った方が良かろうたい…」

 祖父は義秋を見て、にっこり微笑んだ。

「そうたいね…」

 義秋も笑った。「ちょっと出掛けて来るけん。すぐ戻る…」

 義秋は祖父の傍から逃げる様に部屋に行き、上着とタバコを掴んで家を出た。

 家の近くにあった桟橋の先まで行き、海を見た。見慣れた風景だった。しかしその風景も、後一年もすると見られなくなる。そう考えると鼻の奥が熱くなり涙が込み上げて来た。節子と別れたくない。もちろんそれもあった。しかしそれだけでは無かった。幼い頃から暮らしたこの町が義秋は好きだった。そう思うと自然に涙が溢れて来たのだった。

 ふと顔を上げると、節子が自転車に乗ってやって来るのが見えた。節子も桟橋にいる義秋に気が付いたのだろう。手を振りながらやって来た。義秋の家の前を通り過ぎ、桟橋の前に自転車を止めて、息を切らしながら走って来た。

「早かったね…」

 義秋は走って来た節子を、抱きとめる様にして言った。

「うん、ちょっとでも早よう会いたかったけん…」

 肩で息をしながら節子は言った。

 義秋は節子を連れて、桟橋の脇にある狭い海岸に下りた。色とりどりの石が敷き詰められている様な海岸だった。そこに二人は腰を下ろした。

 ようやく節子の息も戻った様だった。

「今日は部活、無かったと…」

 節子は義秋の顔を覗き込む様に言う。

「今日は野球部が練習試合でグラウンド使うけんって、休みになった」

 義秋はポケットからタバコを出して、火をつけた。

「またタバコば吸いよる…。見つかったら停学やけんね…」

 節子は嫌そうに言った。

「タバコ…嫌いか」

「あんまり気にせんけど、お父さんも吸うとらすけん…。ばってん、高校生はタバコば吸うたらいかんとよ。知っとると」

 節子は義秋の顔を覗き込んだ。

「ああ、そうやったかいな」

 義秋はタバコを咥えたまま膝を抱えた。「それやったら高校生ば辞めるか…」

「何ば言いよっとね…。高校生ば辞めたっちゃ、未成年はタバコ吸うたらいかんと」

 節子は義秋に身体をぶつけて笑った。そして二人で海を見つめた。

「綺麗か海たいね…」

「ああ…」

「ここはいつまでも変わらんっちゃろか…」

「どげんやろうな…。人は減って行くやろうけんね…。こん町も…」

 義秋はタバコの灰を落とす。節子はその義秋をじっと見ていた。その視線に気付いた義秋が節子を見ると、その義秋の唇に節子は唇を寄せた。

 長い長いキスだった。唇を離すと少し照れた様に節子は春の青い空を見上げた。

「後何回キス出来るっちゃろか…」

 節子は空を見上げたまま言った。節子も義秋がいずれ、この町を出て行く事で涙を我慢している様だった。

 義秋は答えずに節子の横顔を見ていた。その横顔を心の底から愛おしく思えた。

 日曜日にこうやって節子と話す事は珍しかった。二人で海岸の石の上に横になり、空を見ながら話をした。そんなゆっくりと流れる時間は、義秋にとってかけがえの無い時間だった。

「あ、帰らんと…」

 節子は腕時計を見て身体を起した。義秋も一緒に身体を起こす。

 節子の背中の埃を払いながら、節子の自転車まで一緒に歩く。節子は自転車の籠に積んだ、袋いっぱいの枇杷を義秋に渡した。

「はい。これ」

「凄い量やね…」

 義秋は苦笑した。

「段ボールいっぱいあったとよ。うちにはまだいっぱいあるっちゃけん」

 節子は笑って言った。

「ありがと」

 義秋は礼を言って、節子にキスをした。

「もう、人に見らるるやろ…」

 節子は顔を赤らめて、周囲を見回していた。それを見て義秋は笑った。

「じゃあ、帰るけん」

 そう言うと自転車のスタンドを上げた。

「うん。気を付けてな」

「うん、また明日」

 節子の自転車は走り出した。名残惜しそうに何度も何度も振り返りながら、節子の背中は小さくなって行った。

 節子の姿が見えなくなると、義秋は家に帰った。

「ただいま」

 義秋が靴を脱いで家に入ると、

「そろそろ昼飯ぞ…」

 と、テレビを見ていた祖父が言った。

「うん…。枇杷ば貰ろうたばい」

 そう言って袋を持ち上げると、袋の底に何かが入っているのが分かった。

「枇杷」

「あ、うん。これ」

 祖父がその袋を見て、

「袋に入れとったら枇杷が汗かくけん」

 そう言ってテーブルの上に新聞紙を広げた。「ここに出せ」

 義秋は袋をひっくり返す様に枇杷を出した。そして、袋の底にあった封筒を取った。

「立派な枇杷たいね…」

 祖父は早速、一つ取って皮を剥き、口に放り込んだ。「甘かぞ…。こりゃ早よう食わな腐るるね…」

 祖父は二つ目を手に取った。義秋は、嬉しそうに枇杷を食べる祖父を見ながら、封筒の中を見た。その中には一万円札が五枚入っていた。

 義秋はその封筒を見て震えが来た。

 これが大人のやり方か…。

 義秋は目を閉じて、大きく息を吐いた。そして、その封筒の口を閉じた。

 そんな大人の言う事を真剣に聞き、怒っている自分が馬鹿らしくなった。

「じいちゃん…。これもあげる」

 そう言って祖父の前に封筒を置いた。

「何ね…」

 祖父はその封筒を手に取って、中を見た。「何ね、こん金は…」

義秋は自分の部屋に戻りながら、

「バイト代たい。頑張ったけんってボーナスばくれたらしか…」

 義秋は振り返らずに言うと部屋に戻った。部屋に戻ると、ベッドに倒れ込む様に身体を投げ出した。

「馬鹿にしやがって…」

 義秋は天井を見ながらそう呟いた。


「今晩は貴志川の店、行ってみようか」

 朝飯を食べながら、良介が言った。

「浩美の所か…。流行ってるらしいな」

 義秋はご飯を口に入れた。

「ああ、貴志川和代も浩美もやり手だよ。飲み屋もデリヘルも、休み無しに営業してる。結構、いつも客も入ってるしな」

 朝方まで良介と光生、依子とロビーで話をしていた。二月の朝は遅い。明るくなる前に部屋に戻った。節子も智子の部屋に泊った様だった。良介が何処に泊ったのかはわからなかったが、朝、節子に起こされて食堂に行くと、良介は当たり前の様に座っていた。

 光生と依子は、ちゃんと着替えて朝食を食べていた。そして何故か誠二も光生と同じテーブルに座っていた。

「セージ。お前、何でいるんだよ」

 誠二は口の中をいっぱいにしながら、義秋の方を見た。口の中のモノをお茶で流し込むと、

「良かや無かか。ちゃんと金ば払うとやけんが…」

 そう言った。

 良介の横で仏頂面で座っている智子が、

「そうそう。お客様は神様やけんね…」

 そう言って、誠二と同じタイミングで首を横に傾けた。

「マサは流石に来ないんだな」

 義秋は箸を置いて、お茶を飲んだ。

「マサは嫁がおるけんね」

 誠二はご飯をお代わりしていた。

「あんたらが今、食べとる刺身。それ、朝一にマサが持って来てくれた奴ばい。もうとっくに海に出ちょるとたい。いつまでも寝とる奴らが何ば言いよっとか」

 智子は席を立って、セルフのコーヒーカウンターに向かった。

 義秋は申し訳なさそうに首を縮めた。

「昼には帰ってくるけん、昼飯は一緒に食えるばい」

 誠二はまた、口の中をいっぱいにして言った。

「じゃあ、今晩は女だけで美味かモンでも食おうか」

 智子はコーヒーを飲みながら、節子と依子に言う。

「良いですね」

 依子は嬉しそうに手を叩いた。

「良かね」

 節子も義秋の横で嬉しそうに言った。

「じゃあ、男性陣は貴志川の店だな」

 光生も周囲を見渡しながら言う。

「分かったよ。けど、それまで少し眠らせてくれよ…」

 義秋は手を合わせると立ち上がった。「風呂入れるか」

「早よう入って。私らも入りたかけんが」

 智子は強い口調で義秋を睨みながら言った。

「へいへい…」

 義秋は食堂を出て行った。廊下を自分の部屋に戻ろうと歩いていると、後ろから節子が義秋を呼んだ。

「ヨシア」

 義秋はその声に振り返った。

「どうした」

「私、ちょっと家に戻って来るけん」

 節子は義秋の傍に来て言う。

「ああ…。送ろうか」

 節子は首を振った。

「神谷が来るって言うちょるけんが良かよ」

 義秋は頷いて、

「そうか。分かった」

 そう答えた。他に言葉も見付からずに、二人は無言で見つめ合った。

「うん…。じゃあ、お風呂入って…」

 節子は食堂に帰って行った。

 義秋は節子の背中を見ていた。食堂の中に節子が入ると、義秋は自分の部屋に戻った。

 窓際のテーブルの上には、光生から預かった『K文書』があった。

 その内容は生々しい現状が書かれていた。川副医師は相当の覚悟で、このレポートを書いたに違いない。医学の知識の無い義秋が読んでもそれを感じ取る事が出来た。『K文書』は、この町の新生児の実態、放射能がもたらす奇形児の種別、居住地域別の奇形児が生まれる確率などからなっていた。奇形児が生まれると、その親は死産という事にする者が多く、その処置を何度も行ったという事実も書かれてあった。医師生命を掛けた告白だったのだろう。

 その告発を闇に葬った三村健三の行為が信じられなかった。

 光生は「この町の人で病んでない人などいないのかもしれない」と言った。

 このレポートや義秋が聞いて来た話から考えると、光生の言う事も大袈裟な話では無い。それ程に原発はこの町を侵食して行っているのだ。

 レポートを持つ手に力が入る。

「三村健三…」

 義秋は無意識に、その名前を口にしていた。


 神谷は三村の屋敷の前で、門が開くのを待っていた。門が開くと神谷の車は屋敷の中に吸い込まれる様に入って行き、車を玄関の脇に停めてエンジンを止めた。

「やあ、神谷君。久しぶりたいね」

 車を降りた神谷に節子の兄で、三光開発の社長である龍次が声を掛けた。

「ああ、義兄さん。お久しぶりです」

 神谷は龍次に頭を下げた。

 龍次は庭に出てコーヒーを飲んでいた。

「今日はお休みですか」

 神谷は特に話す事も無い龍次に、仕方なく訊いた。

「親父に呼ばれたったい。何も無かったらこげな所まで来ん」

 龍次はカップを庭のテーブルに置いた。「神谷君も呼ばれたと」

 神谷は、これ以上龍次と話すのが嫌になったので、適当に返事をした。

「まあ、そんなところですね」

「じゃあ、神谷君の話が終わったら俺も親父に会うけん。また教えて」

 龍次は椅子に立て掛けていたゴルフクラブを握って、グリーンのネットの張られた練習ブースに向かった。

 その姿を見て、神谷は苦笑した。

 何も出来ん能無しが…。

 神谷も義父の三村に頼まれて、龍次の会社に年間数十億の公共工事を回していた。三光開発はそれで持っている会社だった。

 神谷は重厚な玄関のドアを開けて、屋敷の中に入った。

「あら、神谷さん」

 広いリビングのソファに義母が座っていた。

「お義母さん。ご無沙汰してます」

 神谷は頭を下げる。これが面倒で神谷はこの屋敷に来るのが嫌だった。

「今日はどげんしたと…。節子なら古谷旅館に泊っとるみたいばってん」

「ええ。聞いてます。今から迎えに行くんです」

 神谷は無理矢理微笑んで言う。「その前にお義父さんに…」

「ああ…。あの人は書斎におるけん。どうぞ…」

 義母はソファから立ち上がる事も無く、高そうなティーカップで紅茶を飲んでいた。

 ふん…。成金の妻か…。

 神谷は小さく頭を下げて、三村の書斎に向かった。

 元々神谷の家の方が古くから市議をやっていた。この三村の住む町が市町村合併で併合される時に、引退する町議の代わりに三村が市議となった。上手く振る舞う事が出来た三村は、この町の票を取り纏める事が出来て、数年後に県議に当選した。その派閥に神谷の父が入り、父が引退する前に、父と三村が勝手に決めた、節子と結婚した。その後、父親は市議を引退し、神谷がそれを継ぐ事になった。

 原発の町に住む三村は有利だった。原発反対の立場を貫けばある程度の票は集まるのだった。しかし、幾ら反対しても原発側の意見は最後には通る仕組みになっている。都度、三村には大金が転がり込む。そして民衆の前で、「私の力不足で申し訳ない」と涙を流しながら許しを乞うのだった。そうやって、どんどん三村は力を付けて行った。同じ方法で今回は、死亡した北陸の松本代議士の代わりに参院選に出馬しようとしている。

 神谷には、そうやってとんとん拍子に国会議員になろうとしている三村が疎ましく思える反面、羨ましくもあった。

 三村が死んでも、あの龍次に後を継ぐ事は出来ない。そうなれば、三村の後を継ぐのは娘婿である自分だ。

 神谷はそう思っていた。それまでは意地でも節子と夫婦で居る必要があった。

 神谷は三村の書斎のドアをノックした。

「はい」

 しゃがれた三村の声が中から聞こえる。

「神谷です…」

「入りなさい」

 三村の声が聞こえた。神谷はゆっくりとドアを開ける。

「失礼します」

 書斎に入ると後ろ手にドアを閉めた。「ご無沙汰しております」

 小さく頭を下げて挨拶をした。

「ああ、ちょうど良かった。君に連絡しようと思っていたところだった」

 三村は立ち上がって、机の前に置かれた応接用のソファに移動した。神谷も続いて三村の向かいに座った。

「記者の井崎、何度か会った事あるだろう」

 三村はソファに踏ん反り返る様に座り、神谷に言う。

「はい。節子の同級生だという男ですね」

 三村は小さく何度も頷く。

「その井崎からさっき電話があった」

 神谷は前のめりに座り直した。

「君は木瀬義秋という男を知っているか…」

 三村はしゃがれた声で神谷に聞いた。

 その時、ドアがノックされ、コーヒーを持った使用人が入って来て、三村と神谷の前にコーヒーカップを置いた。そして一礼すると部屋を出て行った。

「先日、市内で会いました。節子が若い頃に交際していたという話だったのですが…」

 少し嫌味を言う様に唇を歪めて言った。

「らしいな…。私は良く覚えていないのだが、井崎もそう言っていた」

 三村はカップを取り、少し震える手で口に運んだ。「まあ、そんな事は良い。その木瀬はどうやら有名なジャーナリストらしい」

「知ってます」

 神谷は持って来た雑誌をテーブルの上に置いた。「社会派の記者で、結構鋭い記事を書いてます」

 テーブルの上に義秋の書いたページを開いた。しかし三村はそんな雑誌の記事を見る事も無く、コーヒーを飲む。

 その態度に少し神谷はイラつくが、諦めて自分もコーヒーカップを手にした。

「その木瀬…」

 三村は咳をして声の枯れを払う。「その木瀬が私に取材したいと言っている様だ」

 神谷は大きな目をぎょろつかせ部屋を見回した。神谷もそれを進言しようと思い、三村の屋敷を訪ねたのだった。渡りに船とはこの事だった。

「良い話じゃないですか…」

 神谷はコーヒーカップを皿に戻した。「これから参院選もありますので、そのためのイメージ作りにも利用価値はありますよ」

 神谷はソファに沈んだ。

「うむ…。私もそう思うし、井崎もそう言っていた」

 三村はいやらしく歯を見せて笑った。「そこでだ…。君の今後の事もある。当日は君も同席してくれないか」

 神谷は頷きながら、

「もちろんです。喜んで同席させて頂きますよ」

 そう言った。

「それと…」

 三村は自分の机の上のメモを見た。「言うのを忘れていたのだが…。クリーンエネルギーセンター建設計画記念碑除幕式というのが来週の末にある」

 メモを読み上げる様に言う。

 神谷も原発の関係者から聞いていた事だった。

「はい。聞いてます。来週末に原発の海岸側の公園ですよね…」

 神谷は携帯電話のメモを見て言う。

「君にも連絡があったか…」

 三村は再びソファに座った。「それなら良いんだ…。スケジュールは大丈夫か」

「はい。ちゃんと押さえています」

 三村は自分の思う様になった事を満足して頷いた。

「それじゃ、よろしく頼む」

 コーヒーを飲み干すと三村は机に戻った。ソファに残された神谷は、カップに残ったコーヒーを飲んだ。

「もう用は済んだ。帰って良いぞ」

 三村は老眼鏡を掛けて言った。

 神谷は立ち上がり、テーブルに広げた雑誌を取った。

 俺の用事は聞かないのか…。

 神谷はそう思ったが、うまく用は済んだのでどうでも良かった。しかし、それも忘れてしまう程の三村に国会議員など勤まるのだろうか…。そう考えて、苦笑した。

 今は早くこの部屋を出たかった。神谷は足早に書斎の入口まで行く。

「それでは失礼します」

 そう言うと、さっさと部屋を出て行った。


 風呂を出た義秋はジーンズと白いシャツに着替えた。そしてベストとジャケットを羽織る。そこに部屋の戸を叩く音がした。

「はい」

 義秋が返事をすると、戸がすっと開き、節子が入って来た。

「どうした」

 節子は部屋を見回して、

「ヨシア、洗濯物あるやろ」

 そう言った。

「洗濯物…」

 義秋はビニール袋に洗濯物を詰めたところだった。

「出して、洗うけん」

 節子は半ば強引に、義秋のバッグの中のビニール袋を取った。

「おい、良いよ。そんなの」

「ダメ。どうせ私の洗濯物も一緒に洗うっちゃけん。ついでたい」

 節子はそのビニール袋を胸に抱いて部屋の入口まで移動した。そして振り返る。「私にパンツ見られたら恥ずかしかね…」

 そう言うとにやりと笑う。

「馬鹿…。そんな訳無いだろ」

 義秋も笑った。

「じゃあ、洗っとくけんね…」

 節子は部屋を出て行った。

 義秋は部屋の真ん中に大の字に寝転んだ。昨日ほとんど寝ていなかった。眠い筈なのだが、眠る気にもなれず、じっと日の差し込む天井を見つめていた。

 ふと起き上がり、テーブルの上に置いたタバコと携帯電話を掴むと部屋を出て行った。

 ロビーの傍にある自動販売機で缶コーヒーを買い、ソファに座った。缶コーヒーを開けて一口飲むとタバコに火をつけた。

 日曜は釣り客も昼に帰ってくる人が多いと智子は言っていた。良く晴れた冬の日曜日。釣り客はもっと釣っていたいと思うだろう。

 義秋はそう考えて微笑んだ。

「ヨシア…」

 そう呼ばれて顔を上げると、光生が立っていた。

「ミツオ…。依子さんは」

「ああ。今、風呂に入ってるよ。三人で」

 光生は義秋の向かいに座った。「覗きに行くか…」

「馬鹿…」

 義秋と光生はニヤニヤと笑っていた。

「何してたんだ」

「寝ようと思ったんだが、眠れなくて。その辺ブラブラしようと思ってな…」

 義秋は煙を吐きながら言う。

「そうか…」

「ああ、飯食って寝てるだけだからな…」

 二人は同感だと言わんばかりに苦笑した。

「そう言えば、この先の石埜いしのさんってお前の親戚じゃ無かったか」

 光生は思い出した様に言った。

「ああ、死んだばあさんの妹の嫁ぎ先だ」

 そう言うと缶コーヒーを飲み干した。「ダンナさんの方は、昔うちの工場でも働いてた筈だ」

 光生は無言で頷く。

「もう、その石埜さん…長く無い」

「え…」

 義秋は顔を上げた。

「うちのセンターに来てくれてるんだ。もう末期だ」

 光生は膝の前で手を組んで、言い辛そうな顔で言った。「顔出して来いよ。歩いても数分だろう…」

 義秋は無言で俯いた。

「それも原発か…」

 義秋は光生を見て、呟く様に言った。

 光生は小さく何度も頷く。

「すべてが原発のせいで、すべてがそうでない。それが原発のもたらすモノの正体だ。何にも証明出来ないんだ。それを証明しようとしたのが『K文書』なんだよ…」

 光生の話を聞き、義秋は大きく息を吐いた。

「ありがとう…。ちょっと行ってくるよ…」

 義秋は立ち上がって、タバコの火を消した。

 古谷旅館の玄関で靴を履くと、義秋は走り出した。良く晴れた二月の日曜。心地良い風が義秋を撫でる様に流れて行く。

 道を歩く人など誰も居なかった。時間の流れの止まった様な町。外で遊ぶ子供の姿も無い。これも原発の話が囁かれる様になって、親が外で遊ばせるのを止めた事からだと言う。死んでいるのか眠っているのか分からない町。義秋にはそんな風に映った。

 義秋の祖母の妹が嫁いだ親戚の家。そのすぐ傍まで来た。幼い頃は祖母に連れられて良く遊びに来た記憶があった。少しトシの離れたお姉さんが居て、よく遊んで貰った。

 義秋はインターホンを押そうとして指を止めた。

 玄関に面したガラス窓から部屋の中が見えた。介護用のベッドがあり、寝た切りの老人の姿が見えた。その横に介護をする祖母の妹の姿があった。

 癌に侵食されて、余計にトシを取って見える。そして、その介護に疲れた顔。そんなモノを人に見せたいと思うのだろうか…。

 義秋は俯いて微笑んだ。そして踵を返し、古谷旅館に向かった。

 その町の風景を見た。そこには幼かった頃に走り回って遊ぶ、自分たちの姿が見えた。そしてそんな義秋たちを大声で怒る、祖母の妹の姿があった。町の人の姿があった。

 呉服屋と呼ばれる布団しか売ってない店。米屋と呼ばれる店などない民家。酒屋と呼ばれるプラモデルなんかを売っていた店。

 そんな風景に過去を見ながら義秋は町を歩いた。その風景は変わってしまっている所もあったが、義秋には懐かしく映った。

 バスの切符を売っていた駄菓子屋。手が震えて怖かった散髪屋。シャッターをいつも半分しか開けて無い釣具屋。

 昔のままの表情が義秋には見えた。

 俺には、この町は昔のままが良い…。

 義秋は胸が熱くなり、自然に足を速めた。

 気が付くと既に古谷旅館の前に居た。

 ペンキのげた係船柱けいせんちゅうに座り、ポケットからタバコを取り出して咥えた。沖に見える島と、昔はそこには無かった、そびえる様な橋が義秋にはミスマッチに映る。

 風を避ける様にマッチを擦るとタバコに火をつけ、思い切り吸い込み煙を吐いた。その煙は一瞬で風に流されて消えて行った。岸壁に打ち付ける波も、義秋の下でくぐもった音を立てては消える。

 みんな消えて行く…。

 義秋はその青い海を見たまま、力無く微笑んだ。

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