第6話 神谷

 部屋で荷物をまとめた義秋は、古びたスーツケースを一つ抱えて、ロビーに下りて来た。

「チェックアウトを頼む…」

 フロントのカウンターに肘を突いてホテルマンに鍵を渡した。

 自分の座るロビーのソファから節子は義秋の姿を見付けた。ホテルの大きなガラス越しに、暖かな太陽の光が降り注いでいる。

 義秋は金を払うと、スーツケースを抱えて、節子の座るソファに歩いて来た。

「終わったと」

「ああ…」

 義秋は頬を緩めて言う。「行こうか。智子が待ってる」

 節子は頷いて立ち上がった。

 途中の百貨店で智子を降ろし、義秋と節子はこのホテルへ来た。節子をロビーで待たせ、義秋は一人、部屋を片付けた。片付けと言ってもテーブルの上の荷物をスーツケースに詰めただけの事で、十分も掛からない作業だった。

 駐車場に停めた車のトランクに荷物を放り込んで、ホテルを後にした。

「智子…。こっちは終わったばい」

 節子は義秋の横で智子に電話していた。

「智子も、もう終わったって…。表で待っとるらしかけん…」

 義秋は頷いて、智子の待つ百貨店の方へハンドルを切った。

 百貨店の前に着くと、智子が両手に紙袋を提げて立っていた。

「トランクば開けて」

 智子がガラス越しに大声で言う。義秋がトランクを開けると、放り込む様に紙袋を乗せて車に乗り込んだ。

「ああ、お腹すいた。ほら、早よう行くで」

 ドアを閉めると同時に、智子はそう騒ぎ出す。

「行くって何処へ…」

 義秋はバックミラー越しに騒ぐ智子を見て訊いた。

「肉、肉食べに…。毎日魚しか食べとらんけん、街に出たら肉ば食うって決まっとるったい」

 智子の捲し立てる様な主張に、義秋は苦笑した。あの町の人間も、同じ様に肉を欲している事が可笑しかった。

 勢いよく義秋の車は走り出した。


 智子が街に出た時によく行くというステーキハウスに行く事になり、義秋はその駐車場に車を入れた。

「さあ、いっぱい食べよう。どうせヨシアの奢りだけん…」

 智子はコートを脱いで後部座席に放り込んだ。今から食べるという気合いが義秋にも感じ取れた。

「太るぞ…」

 義秋の呟く様な声がどうやら聞こえた様で、義秋の前に智子が詰め寄る様に近づいて来た。そしてじっと義秋の顔を見て、

「もう太っとるけん、良かったい」

 そう言うと顔をしかめた。「さあ、入ろう。もう予約してあるけんね」

 智子はさっさと店に入って行った。それに着いて義秋と節子も店に入る。そこで節子が足を止めた。

「あなた…」

 店に入ると、正面のテーブルに一組の男女が座っているのが見えた。その男に節子は「あなた」と言った。

 神谷一馬か…。

 義秋はその男を見た。その男は若い女と一緒に食事をしていた。

「節子…」

 神谷は、義秋と節子を見上げる様に見ていた。

 義秋が一礼して智子の座る席へ向うと、節子もすぐにテーブルに来た。

 智子はいつものメニューと言わんばかりに慣れた様子で注文しているが、節子は上の空だった。

 義秋は初めて神谷一馬を見たが、考えていたよりもスマートなイメージで好青年といった感じに見えた。

「ワイン飲もうか…」

 智子はそう言うとワインを注文した。「ヨシアはジンジャーエールで我慢しとき」

 智子は義秋の前にジンジャーエールの入ったグラスを差し出す。

「分かったよ」

 そう言って義秋はグラスに口を付けた。

 そこから智子は、百貨店で買ったモノの説明をしていたが、そんな話は節子にはまったく聞こえていなかった。俗に言われる仮面夫婦とはいえ、自分の夫が女と飯を食っているのを目の当たりにすると、気になるのも当たり前の話だろう。

 サラダやパンが運ばれてくる。そして冷えた赤ワインがテーブルの上に置かれた。

「やっぱりステーキには赤たいね…」

 智子は自分でグラスにワインを注ぎながら言う。

「俺は白ワインも合うと思うけどな」

 義秋は飲めない当て付けの様にジンジャーエールを飲んだ。

「肉には赤って決まっとるとばい。ヨシアって味音痴たいね…」

 智子は節子のグラスにもワインを注ぐ。

「肉に合う白ワインもあるんですよ…」

 頭の上からそんな声がした。そこには神谷一馬が立っていた。

「あなた…」

 節子は神谷を見上げた。

「あら、神谷さん。久しぶりたいね」

 智子も神谷に挨拶したのを見て、義秋も軽く頭を下げた。

「智子さん。いつもすみませんね。節子の相手してもらって」

 神谷は上から下まで高そうなスーツでビシッと決めていた。時折光る金縁の眼鏡が少しインテリに見せるのだろうか、品の良い紳士の様に見えた。

 そして、じっと神谷は義秋を見ていた。それに気付き義秋は立ち上がった。

「初めまして、節子さんの同級生で木瀬といいます」

 義秋はそう言って一礼した。

「節子の同級生でしたか」

 神谷は上着のポケットから名刺を出した。「市会議員の神谷です」

 義秋も名刺を出す。

「木瀬義秋です。記者をやってます」

 神谷はその名刺を受け取り、名刺と顔をまじまじと見た。

「フリーライターですか」

 少し怪訝な顔をした。「あ、いや…すみません。どうしてもマスコミ関係の方には構えてしまう癖がありましてね…」

 神谷は眉を寄せた。

「分かります」

 義秋はそう答えて無理に微笑んだ。

「まあ、よろしくお願いします」

 神谷は義秋に手を差し出した。そして義秋と握手をした。

「ご馳走させて下さいと言いたいところなのですが、実は選挙を控えておりまして…」

 神谷はそう言って微笑んだ。ココで金を払うと公職選挙法違反になるとでも言いたいのだろう。

「良かよ…。ここの代金払うくらいの金はあるけん…」

 智子はワインを飲みながら神谷に言う。どうも智子もこの神谷の事をあまり良くは思っていない様だ。節子の事を知っているのなら無理もない話だった。

「では、失礼します」

 神谷は去って行った。レジで金を払っていた女が義秋たちに頭を下げた。それを見て義秋も椅子に座った。

「安心し、握手したくらいじゃヨシアと節子が出来とるのは分からんやろけん」

 智子は二杯目のワインを注ぎながらいやらしく笑う。「どうやった、寝盗った女のダンナと会うって」

「馬鹿か…」

 義秋は窓の外に見える神谷たちを目で追っていた。

「あん女は神谷の秘書」

 節子がワインに口を付けて言う。

「秘書か…」

 義秋はサラダにフォークを入れる。

「そう。秘書で交際相手…」

 その言葉に手が止まる。「あ、でも良かとよ…。そげん事は何にも気にしとらんけん」

 節子もサラダを口に入れる。

 強がりを言っているのでは無さそうだった。しかし節子はそう思っていようが、あの秘書は正妻より勝っていると感じているのだろうか、やたらと堂々としていた気がした。

「あん女、好かんとよ…」

 節子はグラスのワインを一気に飲み干した。

 三人の前にはミディアムレアに焼かれ、鉄板の上で音を立てる大き目のステーキが運ばれて来た。

 その節子を少し酔った目で智子は見詰めていた。


 神谷は白いセダンの後部座席に座り、窓の外を眺めていた。ポケットから義秋の名刺を出してまじまじと見た。

「木瀬義秋か…」

 そう呟くと携帯電話を取り出した。そして慣れた手付きで何処かに電話を掛けた。

「あ、神谷だ。少し調べて欲しい事がある。ああ…至急、頼みたい。名刺の写真を送る。何でも良いから分かった事を知らせてくれ。ああ、すぐ送る」

 そう言うと電話を切って、義秋の名刺に携帯のレンズを向けて写真を撮り、送信した。

「何か、気になるんですか」

 横に座る秘書の女が言う。

「いや、用心に越した事はない」

 神谷は携帯と名刺をポケットに入れながら、秘書のふとももに手を乗せた。そしてゆっくりと手をスカートの中に忍ばせる。「三村の親父も俺も、大事な時期だからな…」

 そう言って微笑んだ。


 光生と誠二は、昼食を食べながらビールを飲んでいた。

「昼間っから酒なんて久しぶりだよ」

 光生は誠二のグラスにビールを注いだ。誠二もそのビールの瓶を取り、光生のグラスにビールを注ぎ返した。

「休日はこれに限るったい…」

 誠二は少し顔を赤らめて言う。

 その誠二を見て光生は微笑み、少し表情を変えた。

「なあセージ…」

 誠二はその声に顔を上げた。

「どげんした…」

「俺、どうやらガキが出来たらしい…」

 突然の光生の言葉に誠二は呆気に取られた。一瞬の間の後に誠二は我に返った様に言った。

「おう、そりゃ良かったな。めでたい事たい。お祝いせんとでけんな」

 大声で誠二は、はしゃぎ出す。

「ありがとう」

 光生は小さな声で言う。

「相手は誰ね…」

 誠二は手に持ったグラスを興奮して揺らし、ビールをこぼしながら言う。

「同じ病院の若い女医だ」

「若い女医やと…。こん畜生、上手い事やりやがって」

 グラスを動かす度にビールがテーブルの上に溢れる。それに気付いて誠二はテーブルを拭いた。「若いって幾つね…」

「二十九かな…」

 光生はビールを飲みながら、少し考える様にして答える。

「そうか。お前も再婚か。いや、良かった良かった」

 誠二は大声を出して喜んでいた。

「ありがとう」

「いや、良かった。もうヨシアたちは知っとるとね」

「いや、さっき分かったんだ」

「そうか。今晩もお祝いば、せんといかんね」

 自分の事の様に喜ぶ誠二に光生は苦笑した。

「なあセージ」

 光生はグラスをテーブルに静かに置く。

「何ね…嬉しく無かとね…」

 誠二もグラスをテーブルに置いた。

「いや…そうじゃない。ただ…」

 誠二は椅子の背もたれにもたれた。

「ただ…。何ね…」

「怒らずに聞いてくれるか」

 光生のその言葉に、誠二はゆっくりと頷いた。光生は頬を緩めた。

「自分に子供が出来たって聞いて、初めて思ったんだが…」

 誠二はタバコを出して火をつけた。

「やっぱりこの町にいると、その子供が五体満足で生まれて来るんだろうかって考えてしまうんだよ…。そんな自分が…。そんな自分が…」

 光生はテーブルに握った拳を叩き付けた。「嫌で嫌で…。そんな風評被害を消そうと必死にやって来たのによ…。これじゃ節子のダンナと同じじゃないかって…。自分が嫌でよ…」

 俯いて絞り出す様に言う光生に、誠二が声を掛けた。

「なあ、ミツオ…」

 その声に光生はゆっくりと顔を上げた。顔を上げた光生の浴衣の襟を、誠二は思い切り掴んで引き寄せた。テーブルの上の食器が音を立てて床に落ちた。

 剣幕な誠二の顔を見て、光生は息を止めた。

「お前がそげん事ば言うとは、神谷の野郎が言うのとは訳の違うたい。お前はそれが風評被害やって証明する方の人間やろが。そればお前が自分の子供が五体満足で生まれて来るかどうか心配やと…。ふざけんのもいい加減にせえよ…。そげな奴に親になる資格は無か…。そして、こん町におる資格も…無か」

 誠二は奥歯を擦り減らしながら、光生の身体を突き飛ばす様に離した。そして拳を握ったままその場に立ち尽くしていた。

「セージ…」

 床に倒れた光生は力無く呟いた。

「お前もやっぱり、こん町ば捨てた人間たい。身内ば何人も原発に殺されたって、こん町ば捨てたお前もやっぱ…、やっぱ…」

 誠二は顔を上げて光生を見た。「余所モンたい…」

「セージ…」

 光生は床に倒れたまま俯いた。

「酔いば冷ましたら早よう出て行け。二度とお前ん顔なんて見とう無か…」

 誠二は椅子に掛けた上着を掴んで足早に出て行った。

 光生は奥歯を噛みしめて震えて泣いた。その声にならない嗚咽おえつは誰もいない食堂に響いていた。


 浩美は大きな荷物を引き摺りながら、飲み屋の二階にある事務所に入って来た。

「ビスコ。何ね…、これ。アンタに荷物たい」

 事務所の拭き掃除をしていたビスコは、手を止めて浩美の傍に駆け寄った。

「すみません。釣り道具を買ったんです」

 流暢な日本語でビスコは浩美に礼を言った。

 ビニールの梱包材に包まれた釣り竿の入るバッグだった。

 浩美はタバコを咥えて、ビスコを見た。

「アンタ、釣りなんてするとね…」

 ビスコは顔を上げるとニコッと微笑んで、

「大好きです」

 と言った。

「ふうん…。まあ良かたい、ちゃんと持って帰ってよね…。事務所に置いておくと邪魔で仕方無かけん」

 浩美はツカツカとソファまで歩き、ドンと腰を下ろした。「今日の予約はどげんなっとる…」

 浩美はソファで脚を組むと大声で言った。

 その声にビスコは机の上のパソコンを触り、デリバリーヘルスの予約状況を確認した。

「夕方から六件、予約入っています。女の子には連絡済みです」

 ビスコは浩美に報告する。浩美はその報告に少し怒って振り返り、手に持ったタバコをビスコ目がけて投げつけた。

「何で六件だけね。今日は週末やけん。その倍は無からないかんやろ」

 浩美は剣幕にビスコに言った。「だけん、ビラばもっと配っとけって言うとろうが…」

 浩美は再びソファに腰を下ろした。

「すみません…」

 ビスコはソファに座る浩美の背中に頭を下げた。そのビスコの指には浩美が投げたタバコが挟まれていた。


「何で昼飯食いながら飲んで、ベロベロになるんだよ…」

 義秋は智子を背負ってステーキハウスを出た。その姿を見て節子は笑っていた。

「智子も、ストレス溜まっとるったい」

 節子は全員の荷物を持って、義秋の車のドアを開けた。その中に転がす様に智子を乗せると、義秋はドアを閉めた。

 義秋と節子は顔を見合わせて笑った。

 二人も車に乗り込むと、町へ向かって車を走らせた。

 神谷が帰って行った後、神谷の話題には触れずに他愛もない話をしていた。しかし、それぞれの胸の中に残っていたのだろう。特に神谷に良いイメージの無い智子は飲み過ぎたのかもしれない。ある意味、節子の方が冷静なまま食事をしていた様だ。

「ねえ、ヨシア…」

 節子は窓の外の流れる風景を見ていた。

「どうした…」

 義秋はチラッと節子を見た。

「ちょっと行きたか所のあるっちゃけど…」

 節子は小さな声で言った。義秋は何度か節子を見たが、ずっと外を見たままだった。

「良いけど、何処に」

 少し沈黙があった。カーステからの微かな音が聞こえているだけの時間。その時間が少し重く感じた。

「私たちの高校。行ってみたか…」

 節子は声を震わせて言った。それは見ずとも節子が泣いている事が分かる程だった。

「分かった…。智子も寝てるし、久しぶりに行ってみるか」

 義秋は微笑んでアクセルを踏んだ。


 義秋たちが通った高校は、住んでいた町よりも原発に近い場所にあった。町から四十分近くバスに乗り、学校の前まで行く。バスが終わるのも早いので、部活も地元に住む同級生より早めに終えて帰る必要があった。何度かバスに乗り遅れ、歩いて帰った記憶もある。歩くと二時間以上掛かる程の距離だった。

 義秋の車は高校の近くまで来ていた。懐かしい風景を見て…と思ったが、どんどん注ぎ込まれる助成金により、この原発の町はかなり開拓され、当時の面影がほとんど残っていない町になってしまっていた。

「ここのバス停の所に、食堂があったとよね…」

 節子が指差す先にはファミレスが建っていた。「何年か前にファミレスが出来たとよ」

 義秋は車を学校の校門の前で停めた。

「バスも小さな車になったばってん、本数は増えて、早く帰る必要も無くなったらしか」

 節子は車のドアを開けて外に出た。節子に続いて義秋も車を降りた。土曜日の午後で学校の校庭にも人影は少なく、義秋はそのまま車を置いて、節子に着いて歩いた。

 学校の裏手は海に隣接しており、敷地の横を通って海に出る事も出来た。その場所には小さな砂浜があり、良くそこで良介と部活をサボった事を義秋は思い出した。

 そして、節子に告白したのもこの砂浜だった。

 砂浜に出た。この砂浜も例外では無く、当時より狭く感じた。

「懐かしかね…」

 節子は髪を指ですくい、耳に掛けた。

「そうだな…」

 義秋は節子の横に並ぶ様に立つ。

「ここ、覚えとる…」

 節子は優しい顔で微笑んだ。「ここでヨシアが待っとうって言われて、ドキドキしながらここに来た」

 義秋は少し照れ臭そうに頭を掻いた。

「もちろん覚えてるさ…」

 節子はゆっくりと義秋の顔を見て笑った。


「言うて来たけんね…。裏の浜で待っとうって…。しっかりやれよ」

 良介は義秋の肩を抱いて小声で言った。

「お、おう…」

 義秋は今にも心臓が口から飛び出しそうだった。

「じゃあ、俺は先に帰るけんね」

 そう言う良介に義秋は情けない声を出した。

「えぇ…」

 良介はそんな義秋の顔を見て、ニヤニヤ笑う。

「お前、決める時はしっかり決める。男やろ…」

 良介は義秋の股間を握った。当時、部活の中で流行っている挨拶の様なモノだった。

「わ、分かったよ…」

 良介と別れて、義秋は学校の脇の裏の浜に抜ける細い道を歩いた。浜まですぐに抜けるその道がその時だけは恐ろしく長く感じた。

 節子に交際を申し込む。何故そう決めたのか。それには理由があった。良介と一緒に入ったラグビー部の先輩が入学早々、節子に目を付けた。

「木瀬、お前、三村節子と同じ中学やろ。あん子、気に入ったけん、セッティングしろ。あん子と付き合いたかけん」

 義秋はその先輩にそう言われた。その時に義秋はその先輩に即答した。

「すんません。俺は節子ん事が好きなんで、先輩のためにセッティングは出来ません」

 義秋は深々と先輩に頭を下げた。その様子を先輩と良介は見て声を上げて笑った。

「お前が好きなら仕方なかね…。じゃあこうしよう。お前が告白してダメやったら俺が行く。それで良かか」

 先輩は義秋の肩を叩いて言う。多分、その先輩にそんな気は無かったのだろう。先輩なりの義秋に対する激励だったのかもしれない。

「はい。そん時は先輩が告白して下さい」

 義秋がそう言うと先輩は笑顔で良介に、

「井崎、お前、全力で木瀬をバックアップしろ。ラグビーも一緒たい。仲間ば全力でバックアップして初めて良かプレイが出来るったい」

 その先輩はそう言うと帰って行った。

 その直後の事だった。

 義秋は何度も吐きそうになりながら、海を見ていた。少し風がある日だった。真新しい制服を着た義秋はその海風が自分の身体を通り抜けて行く様な気がした。

 節子の事は、中学生の頃から気になっていた。しかし、いつも傍に節子の事が好きな誠二がいて、どうしても節子に想いを伝える事が出来なかった。別の高校に進学した誠二に彼女が出来たという話を聞き、義秋は節子に想いを伝える事にしたのだった。

 打ち寄せる波は義秋の足元まで迫って来ていた。高校生になって革靴を履く様になり、それだけで少し大人になった気になった。その革靴が濡れない様に、義秋は少し砂浜の陸側に寄り、そこに置いてあった大きな流木に座った。

 この日、節子に告白するなど思ってもみなかった。気が付くと、先輩と良介に担ぎ上げられて、この砂浜に立っていた。グラウンドをランニングしている野球部の掛け声と波の音だけが聞こえていた。

 長い時間だった。

 波の音が規則的に聞こえるだけの海。青い空と義秋の間を、心地良い風が吹き抜ける。

「ヨシア…」

 節子が息を切らして小走りにやって来る。「ごめん…。遅くなって。部活がなかなか終わらんかったとよ」

 節子は傍まで来て、義秋の肩に手を付いて、息を整えた。

「そんなに急がんでも良かとに…」

 そんな節子を見て、義秋は笑ってしまった。

「何ね…。話しがあるけん、急いで来てって言うたのヨシアやん」

 節子はいつもと変わらず、ニコニコと笑っていた。その顔を見ていると、ついこのままでも良いと思ってしまう。もし告白してダメだったら友達にも戻れない気がする。それは告白しようとする者、誰もが考える事なのかもしれない。

「何ね…話って」

 節子は義秋の横に座った。

「ああ…」

 義秋は頬を緩めて、節子を見つめる。

「何ね…。変なヨシア」

 節子は声に出して笑う。

「節子さ…」

「何ね…」

 節子は義秋の顔を覗き込む。義秋は節子の視線を避ける様に遠い海を見た。

「今日から、俺の彼女になる気無いか」

 義秋なりに色々と考えて、そんな言葉にした。それこそ告白すると決めてから、口にする瞬間まで悩みに悩んで選んだ言葉だった。

「え…」

 節子は笑うのを止めて、聞き取れない程に小さな声を出した。そして俯いて黙ってしまった。二人には打ち寄せる波の音と自分の鼓動の音が響いていた。

「どげんか…」

 義秋はその沈黙を破り節子を見た。節子の制服のスカートには涙が落ちていた。

「節子…」

 義秋は驚いて、少し身体を引いた。「そげん嫌か…」

 義秋がそう言うと、節子は首を強く横に振った。

「違うって…。嬉しくて…涙が」

 節子は涙声で言った。

「節子…」

 義秋はポケットからハンカチを出して節子に渡す。

「ほら、使い…」

 節子はそのハンカチをゆっくりと手に取って、涙を拭いた。

「私さ…」

 義秋は俯いた節子の前にしゃがみ込み、節子の顔を覗き込む様に見た。節子は泣き顔を見られるのが嫌で、少し身体を捩じった。

「私さ…。ずっと前からヨシアが好きやったと…。何か夢みたいで…。嬉しかと…」

 節子はしゃくり上げながら泣いた。

「節子…」

 義秋は微笑みながら立ち上がり、節子の髪を撫でた。

「ばってん、彼女になる気無いか…は無かっちゃない」

 節子は涙を拭きながら顔を上げた。その顔は嬉しそうに微笑んでいた。

「俺らしかやろ」

「うん…ヨシアらしか…」

 二人は声を出して笑った。

「そしたら、節子らしい返事ばくれ…」

 義秋は節子に背中を向けた。

 節子も立ち上がり、義秋の後ろに立ち、義秋の手を握った。

 そして、

「ありがとう…。よろしくお願いします」

 節子は海から吹く風に、かき消されそうな声でそう言った。


「本当は飛び上がりたか程、嬉しかったとよ…」

 節子は寒そうに手に息を吐いた。

「俺もだよ…」

 義秋は節子の肩を抱いた。自然に節子は義秋の肩に頭を乗せた。

「嬉しくてさ、帰ってすぐに智子の家に行って、話したとよ。誰かに話しとかんと、夢見とっただけかもしれんって思って」

 節子はクスクスと笑う。

「俺も良介にすぐ電話したよ」

「良介君、何て言っとったと」

 節子は顔を上げた。

「上手く行くの分かってたから、何の心配もしてなかったって言われたな…。節子が俺の事好きなのは見てたら分かるって」

 義秋は微笑みながら俯いた。「知らなかったのは俺だけだと言ってたな」

「ヨシア、鈍かけんね…」

 節子はまたクスクスと笑った。

「俺は鈍いのか…。それさえ分からん」

 義秋もクスクスと笑う。

「ヨシアの鈍さは、女子の間では有名やったとよ。中学…小学校の時からかな…」

「そんなに歴史のある鈍さなのか…」

「うん。同級生で一番鈍いっちゃないかな」

 節子は微笑みながら義秋を見た。そして義秋の唇にキスをした。

「そうか…」

 今度は義秋が節子の唇にキスをした。

「不純異性交遊は退学ばい」

 そんな声が後ろからした。

 二人が振り返ると、智子が腕を組んで立っていた。

「智子…」

「人ば車に放置してこんな所でいちゃついて…。腹立つわ…」

 智子は笑っていた。それを見て二人も笑った。


「帰ったら反省会するけんね…」

 智子は車に乗り込みながら言う。これは昔からの智子の口癖だった。何かあるとすぐに「反省会」と言う。昔と変わらない智子に、

「はいはい。分かったよ」

 義秋は楽しそうに言うと、自分も車に乗り込んだ。

 車に置き忘れていた携帯電話に着信があるのを義秋は気付いた。携帯の画面に触れて確認すると、それは良介からだった。

「ちょっと電話して良いか…。良介からだけど…」

 義秋は携帯を二人に見せながら言う。

「良介かよ…」

 智子は髪を触りながら言う。節子も小さく頷いた。

 義秋は良介の携帯を鳴らした。数回コールすると繋がった。

「良介、すまん。携帯を車に置き忘れてたみたいで…」

 義秋がそう言うと、

「そうか、俺はまた節子といちゃついてるのかと思ったよ」

 良介は笑っていた。

「馬鹿…。どうした」

「ああ…」

 少し沈黙があった。「お前、今晩、時間無いか…」

 その口調から、少し真面目な話の様に思えた。

「良いけど、何かあったのか…」

「少しお前に訊きたい事があってな」

「訊きたい事…何だ…何か怖いな…」

 義秋は眉を寄せて言う。

「いや、ジャーナリストのお前なら知ってるんじゃないかと思ってな…。少し情報が欲しいんだ」

 良介の後ろからは、街の雑踏が聞こえて来た。

「仕事か…。高いぞ」

 義秋は冗談口調で言う。

「ああ、一杯奢るよ。そっちまで行くから」

「あ、俺、今日から古谷旅館に泊るけど大丈夫か」

 その言葉に、良介は沈黙した。

「ああ…。行くよ」

 覚悟を決めた様に良介は言った。

 その義秋の携帯を、後部座席から智子が引っ手繰る様に取った。

「たまには智子のケツでも触ってやらなきゃな…」

 智子の耳に飛び込んだ良介の言葉はそれだった。

「触ってみぃよ。ぶん殴ってやるけん」

 智子は半笑いの表情でそう言った。

「と、智子…」

 その声が義秋にも聞こえる様だった。


「おるか…」

 誠二は政典の家のドアを開け、家の中に向かって言う。

「おう…。セージか」

 家の奥から政典の声が聞こえる。「入れ」

 その声を聞いて誠二は靴を脱ぎ、政典の家に入る。広い居間に入ると、政典は釣りの仕掛けの手入れをしていた。

「済まんな、すぐ終わるけん、ちょっと待っとって」

 政典は仕掛けの木枠にテグスを丁寧に巻きながら言う。

「ああ…。急がんけん」

 誠二は座布団に座り、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。

「何ね…。家に来るなんて珍しかね」

 政典は真剣な顔でテグスを巻く。その様子を誠二はじっと見ている。そして、その誠二の視線に気付いた政典は、

「糸もよ…。定期的に替えてやらんと、いざという時に切れよる。人間と一緒たい。たまにはリフレッシュばしてやらんと、切れるとよ…」

 静かに言う。

「ばってん…目の見えん様になって来たばい。老眼たいね…。お前はどうね」

 政典は目を擦って言う。

「俺ももうこまか字は見えん。トシは取りとう無かね…」

 誠二は苦笑しながらタバコを咥えて火をつける。「なあ、マサ…」

「何ね…」

 政典はテグスを巻き終えた仕掛けの木枠を重ねて、部屋の隅に置いた。そして誠二の傍に座った。「さっき、ミツオから電話あったばい…。お前に謝っといてくれって」

 誠二は顔を上げた。

「聞いたんか…」

「ああ、聞いた」

 政典はテーブルの上に置いてあった自分のタバコを一本取り、火をつけた。「お前の怒っちょる理由も分かる。ばってん、ミツオの不安も良う分かるとよ…」

 政典は煙を吐いた。

「だけん…。俺はどっちにも何も言わん事に決めた」

 政典は誠二に微笑みかける。そして立ち上がってキッチンへ向かう。「ビールが良かか」

 政典は缶ビールを二本提げて来た。その一本を誠二に渡すと、礼を言って受け取った。

「ばってん、お前もミツオの結婚は祝福してやれよ」

 政典は缶ビールを開けて座った。「あいつもこん町のために頑張って来たんは、事実じゃけん…」

 政典はビールを一気に飲む。

「言い過ぎたって思うちょるよ…。だけんお前んとこに来たったい」

 今にも手に持った缶ビールを潰しそうになる誠二を見て、政典はたじろいだ。

「俺んとこ来てどげんすっとよ…。ミツオんとこ行かないかんやろ」

「ばってん、あそこまで言うてしもうた手前…」

 誠二は政典に助けを求める顔で言った。政典は誠二の肩を拳で殴った。

「ほら、行くぞ…。ミツオ、まだ古谷旅館におる筈やけん…」

 そう言って笑った。


 義秋の車は古谷旅館の玄関に横付けされた。

 智子はトランクから買い物した袋を節子と一緒に下ろし、トランクを閉めた。

 義秋はそれを見て、車を駐車場に移動させる。いつもの場所に車を入れると、横に光生の車があった。車を降りて鍵を閉め、玄関へと歩き出す。義秋の荷物も節子が下ろしてくれていた。荷物と言ってもトランク一つだけなのだが…。

「おかえりなさいませ」

 玄関で頭を下げていたのは智子の義理の妹だった。

「ただいま」

「お荷物、お部屋の方へ運んでおきましたので…」

 彼女は再び頭を下げた。

「ありがとう」

 義秋は礼を言うとロビーのソファに座り、タバコを吸った。広く明るいロビーに義秋が一人だけだった。しかし、そろそろ釣り客が帰って来て、ごった返す時間だった。

「お茶どうぞ…」

 智子の妹は、義秋の前にお茶とお菓子を置いた。

「ああ…ありがとう」

 義秋はにっこりと笑って、彼女の顔を見た。

「雄哉君元気ですか」

 彼女は盆を胸に抱えて言う。

 雄哉…。義秋の弟の名前だった。

 義秋は手に持った湯呑を口の前で止めた。

「雄哉の同級生なの…」

「はい。転校するまで一緒でした」

 地元独特の会話だった。義秋の弟の同級生と智子の弟が結婚していても可笑しくはない。

「あいつは今、運送会社で働いてるよ。俺とは違って結婚して子供も二人いる。俺も年に一度会うかどうかだけどね…」

「ユウちゃん、人気あったから、奥さんも綺麗な人なんでしょうね…」

 義秋は実は弟の嫁に会った事が無かった。こんな仕事をしているといつも何処かに出張していて、なかなか改まって会う事が出来ない。結婚式もダブリンからメッセージだけを送った記憶があった。

 義秋は微笑んで、お茶を飲んだ。

「よろしく伝えておいて下さいね」

 彼女は頭を下げて戻って行った。その後ろ姿をずっと見ていると、その視界に智子と節子が入って来た。

「うちの妹に手出さんといてね」

 智子はそう言いながら近づいて来た。

「馬鹿か…。そんなんじゃないよ」

 湯呑をテーブルに置いた。「弟の同級生らしいんだよ」

「ああ…そうか。確かそうたい。私らの四つ下やけん」

 智子は義秋の前に置かれたお茶菓子に手を伸ばし、包みを開き、自分の口に入れた。

「お前、それ俺の…」

「えひえひいわなひ…」

 口の中をいっぱいにした智子は何を言っているのか分からず、それを見て義秋と節子は笑った。

「欲しかったら後で一箱、部屋に持って行くけん」

 智子は義秋のお茶まで飲んでやっとそう言えた様だった。

 その時、玄関にスーツを着た、若い女性が立っているのが見えた。

「智子…お客さんだ…」

 義秋の声に智子は立ち上がり、玄関へ急いだ。

「いらっしゃいませ」

 智子は膝をついて挨拶した。

「あの…。安西先生…安西光生さんがお泊りだと思うんですけど…」

 その女性は智子に言う。

「ミツオ…。安西さんのお知り合いの方ですか」

「はい…。安西さんに呼ばれまして…」

 頬を緩めて、その女性は言った。

「どうぞ、お上がり下さい」

 智子はその女性の前にスリッパを揃えて出すと、義秋のすぐ傍のソファに連れて来た。

 その女性は義秋と節子に会釈して、ソファに座った。

「すぐ呼んできますので…。失礼ですがお名前は…」

 智子の作り切った声が、義秋は可笑しくてクスクスと笑った。

「根本と申します」

 智子は微笑んで光生を呼びに行った。

 ふと、その根本と名乗った女性と、義秋は目が合った。

「ミツオの知り合いですか」

 義秋はその女性に声を掛けた。

「はい…。同じ職場で…」

 義秋が見た感じではそれだけでは無い。職場の同僚が休暇で泊りに来ている旅館まで、手ぶらで押し掛ける筈も無い。急ぎなら資料なり何なりを手に持っているだろう。

「安西先生の…」

 その女性が、今度は義秋に聞いて来た。

「幼馴染です。二十年ぶりに再会したんですが…」

 義秋がそう言うと、

「ああ…。本当だったんですね…。てっきり私を避けるための嘘かと思ってしまって…」

 少し嬉しそうに笑った。「あ、根本依子と申します」

 依子は立ち上がり、義秋と節子に頭を下げた。義秋と節子も、座ったままではあったが依子に頭を下げる。

「ミツオの彼女ですね…」

 義秋は依子に聞くと、横から節子が袖を引っ張った。

「彼女だと思っているのは、私だけなのかもしれませんが…」

 依子は俯いた。

「そんな事無いですよ…。俺の知っているミツオは、そんな奴じゃありません」

 義秋は依子に微笑んだ。

「ありがとうございます」

 依子は何故か義秋に礼を言った。

「また、後ほど、ミツオに正式に紹介してもらう事にします。良い旅館なんでごゆっくりどうぞ…」

 義秋は節子の肩を引っ張り、立ち上がった。「では…」

 そう言って頭を下げて部屋へ向かった。

 廊下を歩きながら、節子が義秋に言う。

「何で…、あそこで紹介してもらったら良かとに…」

 義秋は節子の横顔を見た。

「今から彼女は、ミツオと重要な話があるんだよ…。紹介してもらうのは、その後でも遅くない」

 義秋は節子の背中に手を回した。

「何で分かるとね…」

 義秋は答えなかった。「ねぇ、何で。何でよ…」

 そう言いながら節子は、義秋の部屋までついて行った。


 神谷は市内に借りているマンションに居た。そしてそこには地元のヤクザ、樟葉会の竹濱という男が一緒だった。竹濱は一般に言われるヤクザとは違い、樟葉会の金庫番として名を売っていた。あまり知られてはいない様だが、国立大学を出て銀行員をやった後に樟葉会にどういう訳か拾われた様だった。

「神谷さん。頼まれていた件ですが、色々と分かりましたよ」

 竹濱は大判の封筒から出した、何枚かの資料をガラスのテーブルの上に置いた。一番上にはクリップで留められた木瀬義秋の写真があった。

 神谷は目も通さずにテーブルの上の資料を指差して、

「フリーライターがこの町で、何を調べてるんだ」

 それだけを訊いた。

 竹濱はにやりと笑って、

「やっぱり気になるのはそこだけですか…」

 そう言うとテーブルに置いた資料を手に取って読み上げた。

「結構、その世界では有名なライターですね。世界中の社会派のネタを記事にしています。フクシマの記事が先月号の雑誌にも載っていました」

 そう言うと自分の横に置いた雑誌をテーブルの上に投げ出す様に置いた。「そんな奴がこの町で書くネタと言ったら…」

「原発か…」

 神谷はテーブルの上の雑誌を手に取った。そして興味無さそうにパラパラと捲り、テーブルの上に投げ出した。

「その辺はまだ正確には分かりませんが、それしか無いでしょうね…」

 竹濱は更に資料を読む。

「住まいは神戸ですね…。しかし、一年中飛び回っている様で、神戸に帰っているかどうかはわかりませんね…。数日前にこの町に来ています。今日、駅前のホテルをチェックアウトして町の古谷旅館に移ってます。ホテルに郵便物の転送を頼んでいました」

 神谷はそんな話は聞いていない様子だった。選挙前の大事な時期に、原発関連の話を記事にされる事の方が気になって仕方無かった。

「あの町の出身で、高校まで神谷さんの奥さんと同級生ですね」

「そんな話は別に良い…」

 神谷は手で払う様にして、竹濱の話を止めた。

「これからが面白いんですけどね…」

 竹濱は、にやりと笑って資料をテーブルの上でトントンと揃えた。

 神谷は如何にして、義秋の調査を阻止するかを考えていた。

「なあ竹濱…」

 竹濱は顔を上げる。

 神谷は身を乗り出した。

「こいつに調査をさせない方法は無いか…」

 竹濱はソファに深く座り直した。

「うちのモン使って、選挙が終わるまで動けなくしますか…」

 竹濱は声を出して笑った。「まあ、それも一つの手ですが…」

 神谷は竹濱を睨む様に見ると、

「何だ…」

 と更に身を乗り出した。

「簡単ですよ…。あなたと三村県議が、この木瀬の取材を受ければ良いんですよ。無駄に掘り返させない様にね…。あなた方に有利な記事だけ書かせれば良いんですよ」

 竹濱も身を乗り出して言う。

「取り込めって事か…」

「マスコミは使い様なんですよ…」

 二人はソファに深くもたれた。

「竹濱…。それがダメな時は、また頼む」

 神谷はポケットから封筒を出して、テーブルの上の義秋の資料の上に放り投げた。

「その時はお任せ下さい。血の気の多い竹本も戻って来た事ですし…」

 竹濱はその封筒を取ると、上着のポケットにしまって立ち上がった。「あ、そうだ…。公安の刑事が妙なモン調べてますよ」

「妙なモノ…」

 立ち上がった竹濱は、今一度ソファに座った。

「ええ…。北陸の代議士が狙撃された事件の事ですね」

 竹濱は、再び身を乗り出した。「あの事件、世界的にも有名な殺し屋の仕業じゃないかって噂でして」

 神谷も竹濱の顔の横に顔を並べた。そしてにやりと笑い、

「松本代議士も阿漕あこぎな事していたからな…。相当恨みを買ったんだろうよ」

そう言った。

 やっている事は同じじゃないか…。

 竹濱はそう言わんばかりに笑った。

「「フライ」と言う殺し屋なんですが、どうやら、そいつの仕業では無いかと…」

「フライ…。蝿か」

 興味の無い顔をして、神谷はソファにもたれた。

「数百メートル離れた場所から飛んでいる蝿を撃ち落とす程の奴です」

「凄いのかそれは…」

 神谷は凝りを取る様に首を回す。

 竹濱はそれを見て笑った。そして、

「神谷さんも一度、実弾撃ってみますか…。多分百メートルも離れたら素人さんにはドラム缶にも当てれませんよ」

 そう言って立ち上がった。「まあ、公安の事件ですから、我々にも何の情報も入って来ないので、何のための情報収集なのかも分かりませんけどね…」

「北陸の事件と、ここの共通点か…。これもまた原発か…」

 神谷は呆れた様に言うと、両腕をソファの背もたれの上に投げ出した。「公安の刑事は三村の親父が抑えている筈だ。何かあったらまた連絡する」

 竹濱は小さく神谷に頭を下げた。そして背を向けたまま、

「神谷さん。この木瀬義秋って男…。節子夫人の元彼ですよ…。高校生の間、付き合っていた様です。先日も木瀬のホテルに節子夫人は泊った様ですよ」

 そう言うと振り返ってにやりと笑った。「選挙前のスキャンダル…気を付けて下さいね…。そっち系の話は我々でも手の打ちようが無いですからね…」

 竹濱は部屋を出て行った。

 その話を聞いた神谷はテーブルの上の資料に留めてある義秋に写真を睨んでいた。

「そんな事だろうと思ったよ…」

 神谷は顔を歪め、不敵な笑いを浮かべると、義秋の写真を手に取り、何度も何度も破いた。


 良介は新聞社の前でタクシーを停めた。運転手に行き先を告げると、携帯電話を取り出して、電話をかけた。

「俺だ…。フライの情報、何か分かったか」

 良介は椅子にもたれて窓の外を見た。

「そうか…。ああ…頼む。いや、今日は連絡しなくていい。古い友人と会う事になっているから、電話には出られないだろう。ああ…何か分かったらメールでも入れてくれ…。ああ。世界で一番優秀と言われている日本の公安を持ってしても何も出て来んか…」

 良介はにやりと笑った。「分かった。また明日…ああ、頼む」

 そう言うと電話を切った。

 義秋の事は良介なりに調べていた。世界中を飛び回り記事を書いている。そんな義秋ならば「フライ」の事も知っているのではないかと思ったのだった。

 ヨシアが知っていれば…。

 良介は暮れ始めた街を横目に見ながら、頭の中は「フライ」の事でいっぱいだった。

「出て来い蝿男…」

 窓の外の流れる光を見ながらそう呟いた。


 古谷旅館の食堂は帰って来た釣り客でごった返していた。あちらこちらから釣った魚の自慢話と、逃がした魚の自慢話が聞こえて来た。智子の弟の聡史はその釣り客に頼まれた魚の調理に追われて、厨房の中で大忙しだった。智子も義理の妹も厨房と食堂を忙しく行き来していた。

 その光景を入口で見ていた義秋は目の前を通る智子を呼び留めた。

「何ね…、今忙しかっちゃけど」

 少し不機嫌そうに智子は言う。

「ああ…何か手伝おうか」

 その光景を目の前に義秋は思わずそう言った。その義秋に満面の笑みで、

「邪魔になるけん、良かよ。大人しく部屋におって。食事は運ぶけん。ヨシアの部屋が一番広かけん、今日はヨシアグループはヨシアの部屋で食事やけんね」

 そう言うと智子は小走りに厨房へ入って行った。

「分かりましたよ…」

 義秋は横に居た節子と顔を見合わせて、自分の部屋に戻った。

 部屋の前に来ると、誠二と政典が立っていた。

「何や…どっか行っとったとか。中で乳繰ちちくり合ってるもんやと思っとった」

 政典が大声で言う。

「馬鹿か…。どうしたんだよ」

 義秋は部屋の鍵を開けた。

「お前に特に用事は無かとばってん…」

 政典は部屋に入って来た。誠二は黙って政典の後ろをついてくる。

「どうしたんだ…誠二。元気ないな…」

 義秋は部屋の中央に置かれたテーブルに着いた。そして灰皿を引き寄せてタバコに火をつけた。政典と誠二は義秋の向かいに座った。

 節子がお茶を入れて、政典と誠二の前に置く。

「ありがとう…」

 誠二が初めて口を開いた。

 すると、政典が誠二の後頭部を叩いた。

「ほら、お前、ちゃんと自分の口で説明せんか」

「分かっとるったい」

 誠二は政典にそう言って、座り直した。

「ヨシア…。節子…」

 義秋の横に座った節子は、不思議そうな顔で誠二を見た。

「俺よ…。ミツオに悪い事ば言うてしもうて…。どげんしたら良かとか分からん様になってしもうて…」

 誠二は首を捻りながらブツブツと言った。

「何の事だよ…。ミツオなら今、彼女らしき女が訪ねて来てるよ」

 ばつが悪そうに誠二と政典は顔を見合わせた。

「どげんしよう…」

 誠二は俯いて言う。

「どうしたんだよ…」

 義秋は訳が分からないといった顔で、タバコの煙を吐く。

 そこに部屋の戸をノックする音が聞こえた。

「ヨシア…。ちょっと良いか…」

 光生の声だった。

「ああ、どうぞ…」

 義秋はタバコを灰皿に押し付けた。そして誠二を見ると慌てふためいていた。

「何なんだお前は…」

 義秋は誠二に笑いながら言った。

 二枚ある内側の戸が開くと、そこには光生と先ほどロビーで会った光生の恋人、依子が立っていた。

 すると誠二はいきなり光生の方を向いて土下座した。

「ミツオ…。さっきは済まんかった。俺も何であげんこつば言うてしもうたんか…。本当に済まんかった…」

 そう言うと畳に額を付けんばかりに頭を下げていた。

 すると光生も慌てて、誠二の向かいに座わり、同じ様に土下座した。

「俺の方こそ、悪かった。お前の気持ちも分かっておきながら…」

「いや、それはお互い様やけん…」

 二人は頭を下げたまま言った。周囲の人間は訳が分からず、その二人を見ているだけだった。


 義秋の部屋に準備された食事は、いつもより豪勢なモノだった。釣り客が旅館にくれる魚が料理されて、義秋たちのテーブルにも豪華な食事が並ぶのだった。

 その食事には誰も手を付けずに、誠二と光生の話を聞いていた。そして二人は話す度にお互いに謝っていた。

「もう良かやなかか…。仲直り出来た事やし、飯ば食おうや…」

 政典が声を張り上げて言った。

「いや…。ダメだ」

 そう言ったのは義秋だった。その声に誠二と光生は顔を上げて腕を組んだままの義秋を見た。

「ヨシア…」

 二人はほぼ同時に言う。それほどに義秋が怒ったと思った二人は再び俯いた。

 部屋の中が重い静寂に染まる。義秋は深い溜息を吐いた。

「セージ…。ミツオ…」

 義秋は静かに口を開いた。二人はゆっくりと顔を上げて、義秋の方を見る。

「お前ら、謝る相手を間違ってるんじゃないのか…」

 誠二と光生はゆっくりと首を動かして、お互いを見た。そして首を傾げる。

「本当に謝らなければいけないのは…、そこの依子さんと節子にだろう…」

 その義秋の言葉に気が付いた様に、二人は依子と節子を見る。二人は誠二と光生以上に俯いて目を伏せていた。今まで二人はお互いの事を考えるが余り、それに気付かなかった。

 再び部屋には深い静寂が広がる。

「依子…。節子…。済まなかった…」

 光生は座布団を横に除けて、二人に深々と頭を下げた。

「俺も…済まなかった…」

 誠二も同じ様に頭を下げる。

 義秋はその光景を見て節子の肩を抱いた。節子が顔を上げて微笑むと、義秋は小さく頷いた。

「セージ。お前は一生、節子の奴隷な」

 義秋は笑いながら、昔流行った言葉を口にした。

「わ、分かった…。節子ん言う事は何でも聞くけん…」

 誠二は頭を下げたまま言った。それを聞いて節子もクスクスと笑った。

「ミツオ…」

 義秋が呼ぶと光生は顔を上げる。「お前は謝る以外に、依子さんに言う事…、有るんじゃないのか…」

 光生はゆっくりと依子の方を見た。依子は頬を緩めて少しだけ顔を上げた。

「何を…」

 そう言い掛けた光生に、節子は自分の前にあったおしぼりを投げ付けた。そのおしぼりと、それを投げた節子に驚いた光生は、目を丸くしていた。

「ミツオも鈍かね…。馬鹿」

 節子は依子の肩を抱いた。政典も誠二も、そして義秋もみんな光生に微笑みかけた。

「公開プロポーズか。ビデオカメラば持ってくりゃ良かったばい…」

 政典も自分の前のおしぼりを光生に投げ付けた。

「ほら…。俺たちが承認になる」

 義秋もおしぼりを光生に投げた。

 光生の横に座っていた誠二は、肘で光生を突いた。

「早よう言わんか…」

 誠二の言葉に光生は背筋を伸ばして座り直した。そして一度咳払いをして、

「依子…。俺と結婚してくれ」

 声を震わせて言うと、また深く頭を下げた。

「そげん頭ば下げちょったら、返事のわからんやろ…」

 節子は涙声で光生に言った。その節子の言葉に全員が大声で笑った。依子もうれし涙で顔をくちゃくちゃにして笑っていた。

 そして自然にその笑い声は引いて行った。全員が依子の顔を見た。その視線に圧倒されながら依子は、

「よろしくお願いします…」

 そう小さな声で言った。

 その依子の言葉を合図に、全員が拍手喝采で二人を称えた。

「おめでとう」

 そんな言葉が飛び交う。誠二に連れられて、依子の横に光生は移動させられ、二人を称える拍手と祝福の声は止む事が無かった。

「ヨシア。入るぞ」

 そう言って部屋に入って来たのは良介だった。その拍手と祝福の大きな声に良介は眉を寄せ、柱の陰に隠れた。

「どうしたんだ。とうとうヨシアと節子の略奪婚成立か…」

 そう呟いた。

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